2021/08/31

口伝鈔 6章 ポルトガル語翻訳 原文 現代文付き note



 今日紹介するのは、私のもう一つのブログnoteに掲載しているものです。普段は日常のあまり宗教的でない話を書いていますが、私の本職はブラジルでの僧侶をしていて、毎日のYouTubeでの朝のお勤めのライブ配信の後の法話(感話)で使用するテキストをnoteというブログに掲載しています。


 notoは広告がつかずレイアウトもスッキリしていてまさにnotoとしてシェアしやすいのが特徴です。

宣伝も兼ねて今回はこちらにもシェアさせてもらいます。よかったら登録して朝のお勤めも一緒にしましょう!毎日少し読経して、親鸞聖人や仏教のお話を聞くのは生活を潤すことになります。 拙いですがポルトガル語でも話すようにしています。

https://note.com/izushu


ポルトガル語です。この翻訳は東本願寺のオフィシャルの確かなポルトガル語です。

 Capítulo 6 


Sobre o Ícone Sagrado e as Escrituras Sagradas 


Quanto a disputas entre discípulos e companheiros de busca, privando alguém do Ícone Sagrad24 e das escrituras sagradas, e advertindo contra tais coisas. 

   Uma vez quando Mestre Shinran estava presente, Shingyō Niizutsumi, proveniente da província de Hitachi25, intencionalmente discorreu contra um ponto doutrinário explicado pelo Mestre e foi excluído, sendo mandado de volta para casa. O discípulo Ren'i disse: "Sendo que Shingyō vai deixar a Irmandade e voltar para casa, devemos pedir-lhe para retornar seu Ícone Sagrado e as escrituras sagradas em sua posse, especialmente porque você assinou suas cópias do ensino sagrado como Shaku Shinran. Pergunto à Irmandade: ele vai tratar esses itens com respeito?" 

   Mestre Shinran respondeu: "Nunca devemos exigir o retorno do Ícone Sagrado ou escrituras sagradas. Especialmente porque eu não sou um professor, nem chamo ninguém de discípulo. "Somos todos discípulos do Tathagata26. Nós somos companheiros de senda. Ao refletir sobre o ato de receber o Verdadeiro Coração Confiante do Ir-nascer através do Nembutsu ela aparentemente surge dos meios hábei27 dos dois Honrados do Mundo- Shakyamuni e Amida - e não por causa da minha intervenção. "Quando surgem diferentes opiniões no mundo, a terra se enche de demandas para devolver o Ícone Sagrado e escrituras sagradas, para devolver os títulos conferidos e para restituir o Verdadeiro Coração Confiante recebido. Após a contemplação, percebe-se que tais coisas não devem ser feitas. 

   "O Ícone Sagrado e as escrituras sagradas são pretendidos como 



24 Do japonês [gohonzon], objeto de devoção. 


25 Atual Prefeitura de Ibaraki 

26 Tathagata em sânscrito, literalmente "aquele que veio" (da Verdade) 

27 Em sânscrito: [upäya] 




meios hábeis que beneficiam seres vivos. Se alguém decidir cortar laços comigo e entrar na comunidade de outra pessoa, não tenho monopólio de tais materiais. Os Ensinamentos do Tathagata fluem livremente por todo o mundo. "Mesmo que alguém não goste da forma como eu, Shinran, exprimo os Ensinamentos, então leve as escrituras sagradas para as montanhas e despeje-as por lá e os seres vivos nesse lugar certamente serão salvos por aqueles escritos, destinados a beneficiar os seres em todos os lugares. Assim, um almejado desejo de beneficiar todos os seres vivos será cumprido." 

   "Temos que entender esses itens como um tesouro pertencente aos seres comuns não iluminados e não podemos nem mesmo pensar em exigir seu retorno. Leve isso a sério”.



原文は西本願寺のサイトを利用しています。東本願寺のサイトはふりがなの確認に使っています。 お西のサイトは言葉の意味のリンクがついているので活用しやすいのです。 お東のサイトは真宗聖典に則っている点で使いやすいです。



原文


本尊と聖教 (お東には小見出し無し)

(6)

一 弟子・同行をあらそひ、本尊・聖教を奪ひとること、しかるべからざるよしの事。

 常陸の国(ひたちのくに)新堤(にいづつみ)の信楽坊、聖人[親鸞]の御前にて、法文の義理ゆゑに、仰せをもちゐまうさざるによりて、突鼻(とっぴ)にあづかりて本国に下向のきざみ、御弟子蓮位房(れんにぼう)申されていはく、「信楽房の、御門弟の儀をはなれて下国のうへは、あづけわたさるるところの本尊・聖教をめしかへさるべくや候ふらん」と。「なかんづくに、釈親鸞と外題のしたにあそばされたる聖教おほし、御門下をはなれたてまつるうへは、さだめて仰崇(ぎょうそう)の儀なからんか」と[云々]。聖人の仰せにいはく、「本尊・聖教をとりかへすこと、はなはだしかるべからざることなり。そのゆゑは親鸞は弟子一人ももたず、なにごとををしへて弟子といふべきぞや。みな如来の御弟子なればみなともに同行なり。念仏往生の信心をうることは、釈迦・弥陀二尊の御方便として発起すとみえたれば、まつたく親鸞が授けたるにあらず。当世たがひに違逆(いぎゃく)のとき、本尊・聖教をとりかへし、つくるところの房号をとりかへし、信心をとりかへすなんどいふこと、国中(こくじゅう)に繁昌(はんじょう)と[云々]、かへすがへすしかるべからず。本尊・聖教は、衆生利益の方便なれば、親鸞がむつびをすてて他の門室に入るといふとも、わたくしに自専(じせん)すべからず。如来の教法は総じて流通物(るずうもつ)なればなり。しかるに親鸞が名字ののりたるを、法師にくければ袈裟さへの風情にいとひおもふによりて、たとひかの聖教を山野にすつといふとも、そのところの有情群類、かの聖教にすくはれてことごとくその益をうべし。しからば衆生利益の本懐、そのとき満足すべし。凡夫の執(しゅう)するところの財宝のごとくに、とりかへすといふ義あるべからざるなり。よくよくこころうべし」と仰せありき。


ふりがな 東本願寺 真宗聖典検索サイト

https://shinshuseiten.higashihonganji.or.jp/contents.html?id=1&page=655



現代文はKindleで購入することができます。

以下にリンクあります。ふりがなは私が打ち直しています。



現代文


 弟子や同行を争い、本尊や聖教を奪い取ることは、よろしくないということ。

常陸(ひたち)の国新堤(にいづつみ)の信楽房が聖人(親鸞)の前で経文の意味について聖人の仰せられることを故意に用いなかったためにおとがめを受けて、本国に帰って行くとき、お弟子の蓮位房(注4)が申し上げて、「信楽房がお弟子のあつかいを離れて帰国するうえは、お渡しになった本尊と聖教はお取りかえしになられたらいかがでしょう」と言った。[そしてさらに〕「とりわけ、釈親鸞と外題の(注5)下にみずからお書きになった聖教が多いのですから、ご門下を離れます以上は、きっと崇敬の念も無いのではないでしょうか」と言った。聖人のいわれるには、


 本尊や聖教を取りかえすことは適切なことではない。そのわけは、親鸞は弟子は一人も持たない(注6)からである。なにを教えたことで弟子と言うことができるのであろうか。だれもが如来のお弟子であるから、みな共に念仏のなかまである。念仏によって浄土に生れると信ずる心がえられるのは、釈尊と阿弥陀仏のお二方がてだてとして起して下さったものである、と説かれていることだから、これはまったく親鸞が授けたのではない。今日、おたがいに意見が異なる時、本尊や聖教を取りかえし、付けてやった房号を取りかえし、信心さえも取りかえすなどということが、国じゅう到るところでさかんに行われているといわれているが、これはかえすがえす適当ではない。本尊や聖教は、生あるすべてのひとを救うためのてだてであるから、親鸞との交りを捨てて、他の門下にはいるといっても、わたしだけで独占してはならない。如来の教えは総じて世間に広がって行くものだからである。ところが、親鸞の名前が載っているものを、法師が憎いときは袈裟まで憎いといった風に、厭わしく思って、たといその聖教を野・山に棄てるとしても、そこに住むさまざまなものたちがその聖教によって救われて、すべてがその恩恵をうることだろう。そうとすれば、生あるものに恵みを与えようという仏の本意は、そのとき満たされることになろう。愚かなひとが執着するところの財宝のように、取りかえすということは、あってはならないことである。よくよくこのことを心得なければならない。と仰せられた。


同行心をひとしくし、信仰を等しくして、同じ道にいそしむもの。親鸞には弟子はない、すべては同行であり、同朋である、と説かれた。ここから、等しく同行、同朋として相互に敬愛する風が生じたのである。


本尊 崇敬の対象として観想や礼拝・讃嘆される仏。菩薩などの像、またはそれを示す名号、符号などをいう。法然の「没後起請文」によると、かれは「三尺弥陀立像」を本尊としていたことが知られる(真宗聖教全書四・五三一)。六字の名号を本尊としたかどうかは明らかでない。また絵像が礼拝の対象とされたが、絵像のうちに「摂取不捨曼陀羅(まんだら)」とよばれるものが用いられたことは 『興福寺奏状』によって知られ、これが旧仏教側の反感を呼んだものの一つであった。親鸞では名号が重視され、南無阿弥陀仏の六字、南無不可思議光如来の九字帰命尽十方無得光如来の十字が用いられたことは、かれの書によって認められる。また 『改邪鈔』第二章参照。一七三ページ。



三 

信楽 『親鷺門侶交名牒(きょうみょうちょう)』万福寺本に下総「ニヰツ」の信楽をあげている。 『吾妻鑑』元久二年十一月十五日の条にかかげる念仏行者、相馬次郎師常(もろつね)の子で、親鸞の門弟の中でも重きをなしていたが、この時の勘気(かんき)で門弟を去ったらしい。しかし覚如がさだめた二十四輩(解説参照。二五四ページ)にはその名を連ねているから、改めて門弟のなかに加えられたのかもしれない。ただ 『ロ伝鈔』は明らかに常陸(ひたち)とするが、 『交名牒(きょうみょうちょう)』その他は下総(しもうさ)とし、新堤(にいつづみ)を新地とするから、同名異人の疑いはある。また二十四輩を定めたときに、生存していたひとではない。


蓮位 親鸞に常随した弟子。 『交名牒(きょうみょうちょう)』にも「洛中」として掲げる。 『末燈鈔』には、慶信が親鸞に送った手紙に「進上聖人の御所へ蓮位御坊申させ給へ」(同二・六七六)とあって、蓮位にとりつぎをたのんでいることが知られ、蓮位もまた病中の師に代って、長文の返事を慶信に書き送っている(同二・六七七ー六八0)。このことは随侍(ずいじ)の弟子であったことをよく語っているが、蓮位はまた師より 『教行信証』を付嘱された弟子の一人で、証巻・真仏土巻がかれに与えられたことは注目される。本鈔第十三章に、蓮位の夢の記をのせる。


外題  書物の表紙に書かれた標題。法然が親鸞に付嘱した 『選択集』には、「選択本願念仏集の内題の字と、并びに南無阿弥陀仏、往生之業念仏為本と釈綽空の字」とが法然の真筆で書きしるされた( 『教行信証』後序、同二・二〇二)という。またこのとき法然の肖像が描かれているが、これにも法然は真影の銘を書き与えている。


親鷺は弟子は一人も持たない 『歎異抄』第六章参照。二七ページ。





https://amzn.to/2Vp6yP0


歎異抄・執持抄・口伝抄・改邪鈔 (東洋文庫0033) Kindle版

親鸞 (著), 石田 瑞麿 (翻訳)



以下はネットで見つけた今回の6章に登場するお弟子さん信楽房のいわれです。

ネット社会になってこういう情報も手軽に手に入れることができるのでありがたいことです。 



浄土真宗本願寺派正法寺

親鸞聖人二十四輩より

http://www.sol.dti.ne.jp/~shiraka/24hai.html



 信楽房の俗姓は、鎮守府(ちんじゅふ)(陸奥(みちのく)・出羽二国の蝦夷(えぞ)を鎮定するために置かれた役所)将軍、村岡五郎良文の流れをくみ、千葉介(ちばのすけ)常将(つねまさ)四代の孫千葉介常胤(つねたね)の嫡子(ちゃくし)、相馬(そうま)二郎師常(もろつね)の子、三郎義清(よしきよ)とあり、いわゆる武家の出である。寺伝によると、義清は当時下総(しもうさ)の太守(たいしゅ)の任をもち「にいつつみ」に住んでいたが、建暦二年(1212)関東に入った親鸞聖人が伝道に力を入れはしめた頃、義清の守り本尊薬師如来の霊告により、聖人の法を聞いて弟子となった。義清は法名を信楽と賜り、自邸を改造して一宇を創建し親鸞聖人の教えを実行した。「仮初の教えにそむく言の葉は世々の誠を諌めしもかな」と歌った信楽房は、親鸞の忠実な弟子であったに違いない。しかし、信楽房は親鸞聖人の教えに異議を唱え聖人の元を去ったが、覚如上人が父覚恵上人と共に関東に行かれたとき(1290)、信楽房と会われ、信楽房は自分の非を悔い帰参を許されている。信楽房が亡くなる一年前のことである。



 以上のような形ですが、毎日少しづつ区切って、ポルトガル語の単語の意味と原文や日本語を検証しています。ちょっとした語学の勉強にもなっています。それに言葉を伝えるということの大切さを学べます。仏教はインドから中国、そして日本へと翻訳されてきた教えです。心や精神をどう伝えていくのか? 私たちが日本語で話していても伝わらないことがあります、言語が違えば尚更ですが、その言語を学ぶと同じ日本語で話していても伝え方の勉強になります。


「ブラジル・シュウちゃんねる」


0 件のコメント:

コメントを投稿

いま、注目の投稿はこちら

「ただいま工事中・お寺に車椅子用の通用口がつきます」

「ただいま工事中・お寺に車椅子用の通用口がつきます」   この春、私たちのお寺では重要な改修工事が行われています。4月中旬に始まったこの工事は、すべての訪問者が安全で快適にお寺を訪れられるように、車椅子用の通用口を新設するプロジェクトです。このプロジェクトの発端は、お寺の創設時...

人気の投稿はこちら