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2022/03/16

「ロシア連邦のウクライナ侵攻に関する声明」"Manifesto contra a Invasão Russa na Ucrânia" "Statement of opposition to the Russian Invasion of Ukraine"

 ロシア連邦のウクライナ侵攻に関する声明

 私たち真宗大谷派は、このたびのロシア連邦のウクライナに対する侵攻をはじめとして、あらゆる武力行使に対して反対の意を表明します。
また現在、恐怖と悲しみの中にいる多くの人々に平和が取り戻されることを強く望みます。
 私たちは、先の大戦において国家体制に追従し、戦争に積極的に協力して、多くの人々を死地に送り出した歴史をもっています。その過ちを深く慙愧する教団として、1995年の『不戦決議』において、「すべての戦闘行為の否定」とともに、「民族・言語・文化・宗教の相違を超えて、戦争を許さない、豊かで平和な国際社会の建設に向けて、すべての人々と歩みをともにする」ことを誓いました。
 このたびの国家間の問題のみならず、世界にはミャンマーをはじめとした、今なお武力による衝突や弾圧の続く国や地域があります。あらためて、 すべての武力行使に対して反対の意を表するとともに、一日も早く安穏なる日々が訪れることを願います。

2022年3月1日
真宗大谷派(東本願寺)宗務総長 木 越 渉


Manifesto contra a Invasão Russa na Ucrânia

 Nós, da Ordem Ōtani do Budismo Shin da Terra Pura, abominamos todas as formas de uso da força e da violência, incluindo a recente invasão da Ucrânia pela Rússia.
Reivindicamos fortemente que a paz seja restaurada para as pessoas acuadas, onde são obrigadas a viver com o medo e a tristeza que pairam no centro desta crise.
 Na história da nossa Ordem carregamos o grande fardo de ter seguido o sistema governamental, cooperando ativamente em guerras no passado, o qual significou ter enviado muitas pessoas à morte.
Por ser uma comunidade religiosa que lamenta profundamente os erros, em 1995 estabelecemos o juramento de Declaração contra Guerras, para não incorrer em outros erros e se opor a qualquer ato de violência. Da mesma forma, expressamos os nossos propósitos de estabelecer uma sociedade de convívio pacífico transcendendo as diferenças de etnia, idioma, cultura e religião.
 No nosso desejo de construir o convívio respeitoso entre as pessoas do mundo , além dos conflitos entre nações anteriormente citados, lembramos que em várias regiões do mundo a exemplo de Mianmar, o uso de forças ainda impera.
Manifestamos nossa total oposição à violência.
Desejamos o restabecimento da paz e harmonia o mais rápido possível.

Wataru Kigoshi
Secretário-Geral do Santuário Central da Ordem Ōtani- Higashi Honganji, Quioto, Japão
01 de março de 2022

Statement of opposition to the Russian Invasion of Ukraine

Bishop Wataru Kigoshi
Chief Administrator, Shinshū Ōtani-ha March 1, 2022

    We, the Shinshū Ōtani-ha, hereby express our opposition to any use of armed force, such as what we have seen in the military invasion of Ukraine by the Russian Federation. At the same time, we sincerely wish this conflict ends and that peace returns, especially for the innocent victims who have been plunged into the depths of fear and sorrow.

    Our organization has a negative history of blindly following the policy of the Japanese government during World War II, voluntarily cooperating with the war by pushing many people to the battlefields. We, as Buddhists who have sincerely repented the mistakes we made in wartime, officially adopted in 1995 a “No-more-war Resolution.” Through this resolution, we made a pledge “to disavow all acts of military aggression” and “to work together with all peoples toward realizing a happy and peaceful international community that no longer permits war, transcending all ethnic, linguistic, cultural, and religious differences.”

    In our world today, many people in different countries and regions also have suffered from military conflicts and oppression, such as the people in Myanmar. Now, we once again strongly state our opposition to all acts of military aggression and express our dearest hope we can achieve world peace as soon as possible.


植木徹誠(ウエキテツジョウ)…浄土真宗僧侶。戦時下に反戦 反差別を説き、4年間投獄。あの「スーダラ節」の植木等の父。

植木徹誠の名言
「元来宗教家は戦争に反対すべきものである。」
「戦争というものは集団殺人だ。それに加担させられることになったわけだから、なるべく戦地では弾のこないような所を選ぶように。周りから、あの野郎は卑怯だとかなんだとか言われたって、絶対、死んじゃだめだぞ。必ず生きて帰ってこい。死んじゃっちゃあ、年を取った親父やお袋はどうなる。それからなるべく相手も殺すな。(※出征する若者に語った言葉)」





「ブラジル・シュウちゃんねる」

2022/03/12

当事者から生の声が聞ける。ロシアの日常がわかるYouTube ウクライナを祖国に持つ Youtuberの 二つ紹介します

  たまにおすすめのYouTubeを紹介していますが、今回はロシアで現地の人と結婚をして生活をしている日本人の森翔吾(YouTube名です)

 最初はたまたまルーブルが暴落していくので車を買ったというサムネールだったので、あまり興味がなかったのですが、ちょっと見てみたら引き込まれてその他のも見たら非常に面白かったし、現在の情勢を知れてずっと見てしまいました。

 ネット情報を持っている人と持ってない人で今回の戦争に対する対処の仕方が同じロシアに住んでいても全く違うようです。

 また戦争以前の動画も面白く、ロシアの以前の日常の物価などもわかって面白いです。肉が1キロ1ルーブル=1円! というのにも驚きました。ブラジルもお肉は日本に比べたら安いのですが、ロシアは安すぎです! 他の日常の食べ物も安いです。また冬は冷蔵庫入らずという考えたらそうかもと思うことも映像を見ながら解説されると納得します。

 当たり前のことですがロシアの住民は全く悪くありません。日本でも海外でもロシア人を誹謗したり、レストランなどを攻撃する心無い人の報道がありますが、こういうロシアの日常を見ることによってそのような愚かな心が起こる事に対処できると思います。

 動画を見るとわかりますが、この発信者は裕福な方ですが、日常の撮影も多く、いろいろ大変なことが起こっていることもわかります。 是非ご覧ください。

車を買いに行く動画、注文して4時間でお持ち帰りしています。!後編では数日で倍近くの値段になったことも報告されています。

【前編】【複雑すぎる心境】ロシアの通貨ルーブルが「紙クズ」になる前に仕方なく結局、スバル・フォレスターを買う



ロシアから外資系のお店が販売中止していますが、ユニクロに行列ができている場面に驚きました。

マック、IKEA、ナイキ、H&M・・・、超有名外国企業が次々にロシア事業停止、撤退。モスクワのショッピングモールが異常事態に・・・




【市場の現状】ロシア第5の都市・カザン

この動画でいわゆる市場の値段などがわかります。ブラジルの市場と比べても非常に安く感じますが、それでも経済制裁後の様子です。



もう一つは日本に住んでいるウクライナが母国の若い二人組の

SAWAYAN CHANNEL / サワヤン チャンネル です。

これは痛ましいのですが、それはわたしも何度か元気いっぱいのヤンチャな二人の動画を見ていたので余計い悲しいです。 心無い中傷の書き込みをする人がいるということで非常に残念です。しかし二人の若者がしっかりそういう書き込みがいかに悪いことかを強く言っているので、見てほしいです。
 悪ふざけとしてもこのように母国が酷い目にあっている人に絶対に誹謗中傷をしてはいけないのです。その気持ちが集まって酷い戦争が起こっているのですから。
 いじめにしても最初はちょっとしたジョークや悪ふざけで起こっています。軽い冗談のつもりでの言葉が引き起こす悲惨な状況を知ったら、そういう思いも消えると思ってシェアします。


テレビ局の取材にて僕たちが思っていることを全て話しました




和とは不和なり、不和の悲しみなり

正義は平和をもたらしません。自分の過ち(不和)その悲しみに思い至る時に和が双方から立ち上がるのです。
恐れや、怒りは実際を知らないことからも起こります。
個人初のYouTubeの情報は有益だと思います。

「ブラジル・シュウちゃんねる」


2021/11/16

「私にとっての沖縄の学びとは」ポルトガル語翻訳付き  同朋大学名誉教授 尾畑文正

最後に私の感想も書いています。


「私にとっての沖縄の学びとは」

同朋大学名誉教授 尾畑文正

尾畑文正 同朋大学名誉教授





 今回が最終回となる。私にとって沖縄に真宗を学ぶことの意味を確認したい。私の課題は空理空論でなく現実に関わる真宗の教えに学ぶことである。親鸞聖人も現実を離さなかった。 『正信偈』には「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」とある。煩悩とは「煩は、みをわずらわす。悩は、こころをなやます」(唯心鈔文意)あり、私たちの生活そのものである。その現実の生活から生きることの意味を問う。それが浄土真宗である。

 それがなぜ沖縄であるのか。それは私の営みが沖縄の現実として表れているからである。沖縄の負の現実は沖縄の問題ではない。沖縄を構造的に差別する「私と私の世界」の歪みの問題である。そういう認識は歴史的事実であると共に、 『歎異抄』で「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は(略)そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまこと」と説く真宗の教えに繋がる問題である。

 沖縄はアジア・太平洋戦争では本土防衛の「捨て石」、敗戦後は二十七年間のアメリカの占領、その後は巨大な軍事基地を負わされ、生命と生活を脅かされ続けている。さらには辺野古に二本の滑走路を持つ軍事基地建設が行われ、ジュゴンの生活領域である辺野古沖も、サンゴ生育の大浦湾も、沖縄の美ら海は満身創痍である。それら一切は沖縄が望んだことではない。
 沖縄は「命こそ宝」の島である。その島を標的にして日米両政府が「軍事」の島を作り続けている。現在は与那国島、石垣島、宮古島なども軍備増強の渦中にある。軍事基地があるとは有事の際に最も攻撃を受ける場所となる。沖縄に対する「捨て石」は現在も継続している。この沖縄を犠牲にする構造的な差別に向き合い、どうすることが人間を回復する道であるのか私たちは問われている。その問いは真宗門徒として念仏もうすことと別のことではない。なぜなら南無阿弥陀仏は闇世を照らし出す光であり、私を真実の国に呼び戻す声である。だから南無阿弥陀仏と念仏もうすことは、自ら南無阿弥陀仏の名となって衆生を救わんとする阿弥陀仏の本願の心に出遇い、構造的差別に加担する我が身を知り、その本願の心に立ち返り構造的差別を克服する歩みを課題とすることである。



ポルトガル語はGoogle翻訳に私が少し手を加えました。正確ではない点をご了承ください。

Português é não certo uso tradução de google. 

 "O que estou aprendendo com Okinawa"


Professor Emérito da Doho University Bunsho Obata

    Este é o episódio final. Quero confirmar o significado de aprender o Budismo Shin de Okinawa para mim. Minha tarefa é aprender com os ensinamentos de Shinshu relacionados à realidade, não com a teoria aeroespacial. O Mestre Shinran também manteve a realidade. "Shoshinge" diz: “Sem extirpar as paixões, atingimos o Nirvana.” As paixões mundanos são "os desejos mundanos são problemáticos Vida de corpo . Os desejos mundanos são o sofrimento de coração" (YUISHINSYO MONI), que é a nossa própria vida. Pergunte o significado de viver dessa vida real. Esse é Jodo Shinshu.

    Por que é Okinawa? Isso porque minhas atividades se manifestam como a realidade de Okinawa. A realidade negativa de Okinawa não é um problema de Okinawa. É um problema de distorção de "eu e meu mundo" que discrimina estruturalmente Okinawa. Tal reconhecimento é um fato histórico, e o ensino do Budismo Shin, que prega em “Tanni Sho", "Entretanto, em minha natureza de homem vulgar carregado de paixões e neste mundo impermanente semelhante a uma casa incendiada, tudo é falso e mentiroso, nada é real. Só o Nembutsu é autêntico. “ É um problema que leva.

    Na Guerra da Ásia-Pacífico, Okinawa foi a "pedra abandonada" da defesa do continente, a ocupação dos Estados Unidos por 27 anos após a derrota, e depois disso foi infligida com uma enorme base militar, e a vida e a vida continuam a ser ameaçado. Além disso, uma base militar com duas pistas foi construída em Henoko, e a área de convivência dos dugongos perto de Henoko, a baía de Oura com cultivo de corais e o Churaumi de Okinawa estão cheios de ferimentos. Nenhum deles era o que Okinawa queria.

    Okinawa é uma ilha onde "a vida é um tesouro". Visando essa ilha, os governos dos Estados Unidos e do Japão continuam a criar ilhas "militares". Atualmente, a Ilha Yonaguni, a Ilha Ishigaki, a Ilha Miyako, etc. também estão no meio de um acúmulo de armamento. Ter uma base militar é o local com maior probabilidade de ser atacado em caso de emergência. "Pedras abandonadas" para Okinawa ainda estão em andamento.

    Nos perguntam qual é a forma de recuperar o ser humano enfrentando essa discriminação estrutural que sacrifica Okinawa. Essa questão não é diferente do Nembutsu como uma seita Shinshu. Porque Namu Amida Butsu é a luz que ilumina o mundo escuro e a voz que me traz de volta à terra da verdade. Portanto, Buda Namu Amida e Nembutsu são conhecidos no coração do Buda Amida, que está tentando salvar os seres senciente tornando-se o nome de Buda Namu Amida, e sabe quem está envolvido na discriminação estrutural. O desafio é voltar para o coração e superar a discriminação estrutural.


「ブラジル・シュウちゃんねる」

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ここからは私の感想です。

翻訳の難しさ

 沖縄別院東本願寺の発行する「ハイサイ沖縄」から引用させてもらいました。ポルトガル語に翻訳しましたが、グーグル翻訳を使って少し私のできる限りの訂正を加えています。『正信偈』と『歎異抄は』ブラジルにオフィシャルの翻訳本があるので正確ですが、『唯心鈔文意』はまだないのでGoogle翻訳を私なりに少し変えましたが難しかったです。
 その他「捨て石にする」など慣用句などは翻訳の難易度が一気に上がります、今朝生粋のブラジル人の青年に聞いてもらったらGoogleの翻訳のままでも文章の流れからわかるということでした。全体的にGoogleの翻訳能力は凄まじく進歩していますが、仏教用語の翻訳が完璧になるのはまだ数十年かかるのではないでしょうか?


沖縄思い出

 妻のファビアのおじいちゃん、おばあちゃんは沖縄移民です。3年前に彼女の先祖の生まれ故郷に行ってきました。とても感動的な旅になりました。
 そのときちょうど辺野古で埋め立て反対運動が行われていて、その現場に行ってきましたが、長い棒を持った逞しい警察が立っているのをみて、こういう警官の前で反対を叫ぶのは怖いだろうなと思いました。自分はできないだろうと思いました。
 また、沖縄を案内してくれたファビアの親戚の身近な人が埋め立て賛成の方だったので、表立って地元の賛成派の人と意見を交わす胆力もなく、「しかし、戦争は起こってほしくないですよね?」と言うことしかできませんでした。しかし賛成派も戦争を起こさないために基地が必要だと真剣に思っているのです。先の戦争で日本は正義のために戦ったのでしょうが、結果たくさんの庶民が命を落とし、悲惨な状況になったことを考えても武力ではなく、政治力、人間力を使ってこの世が平和になる方向へ世の中が動いてほしいと願っています。

 

2021/09/20

ブラジルの僧侶、ジアンさんからのメッセージ「宗教と差別」  “Religião e Discriminação” Rev. Jean Tetsuji

 今回はブラジルのお坊さんジアン哲慈さんのコラムを紹介いたします。彼はレインボーサンガという宗派を超えて連帯し、差別をなくす運動をここブラジルで展開しています。 とても柔和な方で、イケメンです。
 僧侶になる前からエアーフランスの客室乗務員をなさっています。そのジアンさんが、サンパウロ別院の発行しているお便りに、差別と宗教というテーマで連載を始めました。
 いったいブラジルの現在のお坊さんは、この現代社会においてどのように仏教を学び、それを発信しているのでしょうか? 
その一つの答えがこのコラムを読めばわかると思います。
ポルトガル語の勉強にもなると思います。ぜひ読んでみてください。 
連載です。

ブラジルの別院サイト・オフィシャル

(過去の別院だよりも、このサイトにあります)

Rainbow Sangha - Budismo LGBT+

ブラジルの差別に反対するサイトです




 “Religião e Discriminação”

Rev. Jean Tetsuji

   Olá a todos, como tem passado? Espero que bem! Na edição anterior, a pedido do Rev. Masato, começamos a falar sobre discriminação impulsionado por sua reflexão com as frases “isso é Budismo Shin, aquilo não é Budismo Shin”. Dentre várias causas que me faz pensar nesse tema, comecei por aquela produzida pelo medo. Hoje pretendo falar pela comparação e julgamento daquilo que se acredita ser errado/certo ou melhor/pior pelo simples fato de ser diferente. Problemas de xenofobia (aversão ao estrangeiro) são assuntos espinhosos em vários países europeus por conta dos refugiados de guerra e conflitos sociais. Vemos ao longo da história humana, e mesmo atualmente, denominações religiosas impondo-se como superiores e únicas adotando uma atitude julgadora invalidando crenças alheias. A isto chamamos de intolerância religiosa, felizmente mitigada por leis. Ao discriminar, perdemos uma parte do nosso valor como humanidade. 
Entendo que a comparação também seja uma das bases para a discriminação. A comparação provoca uma mistura de sensação de insegurança com a certeza da superioridade ao perceber as diferenças entre si e o outro comparado. Das diferenças vem os critérios, os julgamentos, os rótulos, os valores e classifica o outro por sua régua referencial. O Buda Shakyamuni nos esclarece sobre a construção da percepção da realidade e da identidade do eu pelos Cinco Agregados (Skandhas): forma, sensações, percepções, formações mentais e consciência. É por meio deles que interagimos na experiência da vida na condição humana. A criação deste eu produz apego à existência, contempla a si de tal forma que nos lembrar o mito grego de Narciso, e do apego resulta o temor ao outro como fosse uma ameaça potencial. A somatória da comparação, do medo e do julgamento deriva à discriminação. E o resultado leva ao sofrimento e a violência (mental e físico) e mesmo ao suicídio. Certamente, o assunto é inesgotável e nosso espaço aqui é curto e convido-os a desenvolver o tema junto às suas comunidades e templos.  Como budistas, precisamos aprofundar o assunto e promover a não discriminação em nossa sociedade. 
A base dos sofrimentos possui a régua das comparações, isso é fato. Comparamos o tempo todo, em pequeno, médio e alto grau. Basta ir a uma academia de musculação, à feira escolher a melhor fruta ou pensar a qualidade de vida entre países. Na França renascentista, as salas de espelhos dos palácios permitiam os convidados trocar olhares para saber como estavam vestidos e com quem estavam acompanhados. A vaidade e o orgulho são irmãs da comparação e do julgamento e primas da discriminação. E você, quando se depara com uma outra pessoa ou situação diferente da sua referência de vida, que pensamentos vem à mente? Como você reage a eles? Um abraço e até a próxima edição. 







「宗教と差別」 

ジェアン 哲慈(てつじ)

皆様、お元気のことと存じます。前号から真人先生の提案で、「これは真宗である、これは真宗ではない」というような言葉をもとに、差別について 考える機会を頂きました。そして、前回は、このテーマについて考えさせられるいくつかの原因の中で、差別は恐怖によって生み出されるものということを話しました。 
今回は比較と判断をもとに、ただ異なっているという 単純なことで、何が間違 っているか正しいか、あるいは良いか悪いかを 評 価している事について話そうと思っています。 
  外国人の排除という問題があります。それは特に戦争や紛争、そして難民など のような問題であり、ヨーロッパのいくつかの国で深刻な問題となっています。 
また、私達は人類の歴史を振り返り、今日に至るまで、他者より優れていると思い込み、他人の信念を 蔑 ろにするような 宗 教 宗 派を見てきています。このようなことは 宗教的不寛容と呼びますが、幸いにもそういう他人を排除するような思想は、法律によって少しだけ抑制されています。差別することによって 私達は人類としての価値の一部を 失ってしまっています。 
 私は、比べることも差別の根拠の一つだと理解しています。自分と他人との違いを認識するとき、劣等感と自分が優れているという優越感のような複雑な気持を引き起こします。その違いから基準をつくり、判断し、レッテルを貼り、価値付けをして、自分の物差しで人を分けてしまいます。 
 私達が現実と自己の存在 証明や、自分らしさを知覚することは、五蘊によって作り上げられているとお釈迦様は教えて下さっています。五蘊とは物質、感覚、知覚、意志、そして心です。 私 達 は人間として生活するにはこれを通して人との関わりを体験しています。この自己というものを作り上げ、自己の存在への 愛 着 を生み出すことについては、ギリシャ神話のナルキッソスを思い出させられます。愛 着 によって他者への恐れが生じ、比較と恐れと決めつけが入り交ざり、差別につながると思います。その結果が、苦しみと、精神的、肉体的暴力 、さらには自殺にまでにつながっていくのでしょう。
 このテーマは膨大です。ですので、限られたスペースだけではなく、是非ともコミュニティーやお寺で、このことについて話し合うことをお願いいたします。 仏教徒として、この問題をより深め、無差別な社会を構成するように努めていか なければならないと思います。 苦しみの根源に、比較というものがある事は事実です。大なり小なり、 私達は常に比較しています。例えばジムの中、おいしそうな果物を選ぶ時、国別の生活水準 のことなどでも比較します。ルネサンス期のフランスの 宮 殿 の 鏡張の部屋には、ゲストがお互いの洋服を見比べ、そして誰と一緒に来ているかを確かめ合うようなことをしていました。それは虚栄心とプライドで比較し、判断し、差別を促すようなものです。 それでは、みなさんは不慣れな状況や、いつも接している人以外と出会った時、どのような考えが浮かびますか? そういった人達に対し、どのような態度を示しますか? 
 
それでは、次回まで!お元気で! 



「ブラジル・シュウちゃんねる」

 

2021/09/02

ブラジル、アラサツーバで起こった事件、(動画あり)重武装20人超が深夜に銀行連続襲撃 ATM爆破に人質を盾に銃撃も


まずはニュース記事と動画をご覧ください。

その後最後にアラサツーバに住んでいる私の知り合いから聞いた話と私の感想を書いています。


以下ニュース

《ブラジル》重武装20人超が深夜に銀行連続襲撃=ドローンで警察監視、ATM爆破に人質を盾に銃撃も

https://www.nikkeyshimbun.jp/2021/210831-13brasil.html

ニッケイ新聞より


 30日深夜0時過ぎ、約10台の車に分譲した20人以上の重武装した強盗団が、サンパウロ州アラサトゥーバ市中心部に立ち並ぶ銀行3軒を約2時間がかりで次々に襲い、町中がパニックに陥った。近隣住民が人質とされた上、数多くの爆破行為や銃撃戦などが行われた末、3人が死亡、5人が重傷を負う惨事となった。30日付現地サイトが報じている。

 サンパウロ州北西部の人口20万人の中核都市アラサトゥーバが恐怖に包まれた。発端はルイ・バルボーザ広場近くで、20人ほどの強盗団がサフラ、ブラジル、連邦貯蓄(CAIXA)の三つの銀行支店の現金引き落とし機(ATM)を襲ったことにあった。


犯人たちは10台の車で移動し、通りにいた人たちを捕まえて人質にし、車の屋根やボンネットに乗せて、警察からの銃撃を避ける盾代わりにした。警察によると、犯人たちはドローンを使って警察の所在や自分たちの位置を確認していたという。
 強盗団は少なくとも14カ所で爆破行為を行った。市内20カ所に40の爆発物を仕掛けたとの通報を受けた警察が特殊戦術行動グループ(Gate)を派遣し、爆発物の処理を行う一方、外出しないよう市民に警告を流した。

 この事件は事件発生直後からSNS上で話題となり、強盗たちが警察と銃撃戦を行う様子をSNSに投稿するために録画していて銃弾を浴びた住民もいた。
 住民2人と強盗団の1人が死亡。強盗3人が逮捕された。住民5人がサンタカーザ病院に運ばれ、1人はケガの治療後に退院した。だが4人は重傷で入院しており、うち3人は銃弾を浴びたが容体は安定している。もう一人、25歳の男性は自転車で走行中に爆発に巻き込まれて、両足と手の指を失う大ケガを負い、手術後も酸素吸入などを受けているという。
 犯人はなおも逃走を続けている。アラサトゥーバ市は夜が明けた後、市民感情などを考慮し、同日は市立校の授業を中止すると発表。州立校もそれにならった。
 同市では、爆発物が爆破した後の処理や、仕掛けられた爆発物処理の必要のため、商店や保健所が休業状態となった。また、同市から周辺地域へのコロナワクチンの配布も止まったため、ビリグイ市でも接種が中止された。




動画

動画

事件があったアラサツーバ市



ここからは私の聞いた話と感想です。


 アラサツーバは私が住んでいるマリリア市から車で2時間ほどの小都市で、私も何度も行き来している場所です。マリリアの方が少し大きいくらいの市なので、今回の事件は他人事ではないと思いました。
 アラサツーバ在住の友人によると、深夜12時頃に「パンパン!」という音が聞こえてきて、最初は若者が花火をあげている(ブラジルでは、サッカーの試合後によくある)のかと思ったが、なかなか終わらずしかも大きな爆発音や機関銃掃射の音らしきものが聞こえてきたので(友人は日本で自衛隊の駐屯地の近くに住んでいたので、演習の時の音に似ていたと言っています)、若者がおもちゃで兵隊ごっこをしているのか?と思った後に窓を開けて音のする方向を眺めていたら、なにやら焦げ臭い匂いをかんじたので、「マフィアの抗争かな?・・・・」くらい思っていたそうです。

 その日はそのまま就寝、翌朝近所の様子がいつもと違って静かすぎるので、何かの休日日か?と勘違いするほどだったそうです。 しかしその後ニュースや、心配の電話、連絡が来て事態を知ったそうです。
 その後の具体的な事件は上記に書いてある通りです。 私的には友人が無事でほっとしました。
 
怖かったのは、爆薬を色々なところに仕掛けた、そして実際それで両足を失い指が吹き飛んだ若者がいること。痛ましいことです。 
こういう事態が起こった時は何も触らず、避難することだと思います。

さらに事件の様子を携帯カメラで撮っていた人が撃ち殺された事実。
私もYouTubeをやっていますので、動画を撮った人の気持ちが分かります。事件が起こった時は「自分は大丈夫。だって関係ないんだから」と勘違いすることがあります。
しかし、この場合も速やかにその場から離れることに集中すべきだと思います。私自身も肝に銘じたいと思いました。 

 こう言った銀行を武装した集団が襲う事件は定期的に起こっています。今後電子マネー化がブラジルでもさらに加速すると思われます。

これ以上このような痛ましい犠牲が出ないようにと、こころから思いました。

「ブラジル・シュウちゃんねる」




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