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2021/10/12

今月の大村さんのカラオケリスト YouTube動画あり ーブラジルのカラオケ事情も少々ー   

 ブラジル日系ではカラオケ大会が人気である。私がブラジルに来た頃はもう、下火になっていたらしいが、その話が信じられないほど皆さんカラオケに夢中である。これが全盛期の時はよっぽどだったのだろう。現在でもブラジルの地方から大会を勝ち上がり、サンパウロ大会で優勝した人は日本のNHKのど自慢に出場することができるのである! 時々ブラジルからの歌い手が登場しているのはその理由からなのだ。

 この小さなマリリアの街だけでもカラオケ部が3っつある。その一つが私が今勤めているマリリア真宗本願寺なのである。とはいえ、ご存知のコロナ騒動でもう1年以上カラオケ大会はもちろん、毎週金曜日のお寺での練習会も中止のままである。

 ところでマリリア日系でカラオケといえば演歌が主流である、演歌のでもニュー演歌とかは最近はともかく昔はそんなの歌ではない!というくらいだったそうだ。いまではムード演歌なども受け入れられているが、大会で上位に食い込みやすいのはど演歌が主流であると聞いたことがある。

 昔はカラオケは生オケで行っていたが、そのうちレコード、テープ、DVD、CDへと変遷していて、今はCDで受け渡しをしている。テープは10年前は主流だったと思う。大村さんも私にカラオケを依頼する時は生CDを持ってきて、紙に欲しい曲を書き留めてカラオケを録音してほしいと来る。それも毎月である。

 普通、カラオケに夢中になる人は一曲か二曲選曲してそれを1年間練習しまくるのであるが、なぜか大村さんは毎月5曲お願いに来る。しかもそれは私が「大村さん月に5曲まででおねがいします」と頭を下げたからである。その前は10曲とか信じられない曲数をお願いされるので悲鳴をあげていた。

現在ではネットで検索すればお願いされた半分くらいの曲はダウンロードすることができる。私がそういうノウハウを知っているので大村さんは頼りにしてくれているのである。


 私も大変だけど、毎月していると昔懐かしい曲を私も聞くことになり、時には「ああ、昔の曲もいいもんだなー」と思ったりする。 そこで今日その曲をブログで紹介したら面白いかもと思って、こうやってブログを書いているのである。

それでは今日の大村さんの曲を紹介したいと思います。選曲を見てわかると思いますが、明らかに男性は歌わないであろう女性の曲があります。もしかしたら大村さんは女性にモテたいがために、音源をプレゼントして気を引こうとしているのではないか?今後その真偽も炙り出していこうと思う。

                                                                                          乞うご期待!

その前に、以前の大村さんのインタビュー動画はこちら。



今月の大村さんのカラオケリスト。









以上でした。

個人的には「大阪ドドンパ」よかった! 妻恋道中の動画の男女が男前!いい女!だと思いました。


「ブラジル・シュウちゃんねる」



2021/10/09

おしゃれなアイス屋さんと市職員用の保健所を歩く ーブラジル散歩ーサンバ散歩シリーズ

おしゃれなアイス屋さんと市職員用の保健所を歩く ーブラジル散歩ーサンバ散歩シリーズ 


 YouTubeで私のお気に入りの動画「ブラジル散歩」シリーズです。
今回は久しぶりに外食のシーンから始まります。
ファビアが久しぶりにおしゃれなアイスクリーム屋さんに行きたい!と提案したのでいってみました。もう数回行っているのですが、確かにおしゃれで味もいいのですが、値段が普通のアイス屋さんの倍くらいするので私はあまり積極的には行こうと思わないお店です。美味しさが値段相応ではなのです。

 しかし、久しぶりに入ってみるとおしゃれな店内にテンションが少し上がります、私は初めてアイス以外のカフェジェラードをたのみました。ブラジルにはアイスコーヒーは無く、このカフェジェラード(マックシェイクのコーヒー版みたいなやつ)も珍しいのです。 いつもなら上に乗っている甘ーーーーい、白いクリーム(ブラジルではシャンチリーというそうです。)を拒否するのですが伝えるのを忘れてしまい、来た時に後悔したのですが、甘さ控えめで結構美味しかったので、また少しテンションが上がりました。


 ファビアのアイスとニンジンケーキセットもむちゃくちゃいわゆるインスタ映えして、思わず写真を撮ってしまいました。味見したらまあ、まあでやはり味の評価は一流(値段相応)ではないと思いました。

 でもたまにはおしゃれな場所でおしゃれな見た目の食べ物を食べるのもいいな!
と思いました。




動画ではそのほかに妻のファビアが市役所職員専用の保健所にいく場面もあります。
途中で面白いバイクのおじさんも出てくるのでぜひご覧ください。



「ブラジル・シュウちゃんねる」



2021/10/07

(動画付き) 直綴(じきとつ・黒衣)の着方、脱ぎ方、畳み方


(動画付き) 直綴(じきとつ・黒衣)の

着方、脱ぎ方、畳み方








直綴(じきとつ・黒衣)はひだが繊細で崩れやすいのでハンガーにかけたらすぐにダメになってしまします。正しく畳むと、綺麗に長持ちします。お試しください。


 今回は新品の衣をしつけた後に、最初に4っつの紐を取り付けるところから始まります。次に着方、(着衣)そして、脱ぎ方(脱衣)引き続いてたたみ方になります。


 脱ぐ時の動作はそのまま畳み方の動作になっています。本山や日本の小松時代に習ったことを思い出しながら説明させていただきました。毎日使う衣で特に直綴は繊細な衣なので、大切に扱う必要が出てきます。


 正直、不器用で大雑把な性格の私は苦労しましたが、毎日やっているおかげで少しはできるようになりました。毎日同じことを繰り返すことの大切さを思います。



それでは動画をご覧ください、参考になれば幸いです。




第一回目はこちら

直綴(じきとつ・黒衣)のしつけ方 直綴を開封して初めにするといいこと。

https://youtu.be/PDPzZ0X9a4g



1回目の方、ブログにも書いています。

https://www.brasilsanpo.com/2021/10/blog-post_6.html







「ブラジル・シュウちゃんねる」

2021/10/06

(動画付き)直綴(じきとつ・黒衣)のしつけ方 直綴を開封して初めにするといいこと。

 直綴(じきとつ・黒衣)はひだが繊細で崩れやすいので最初に、アイロンをかけて折り目をつけるといいと思います


毎朝お朝の勤行で着衣する直綴を10年ぶりくらいに新調しました。直綴は動画でも解説していますようにひだが特徴で、乱れやすいので使う前にアイロンで折り目をしっかりつけておくと、畳みやすいです。結果長く綺麗に使用できるのです。

今回は、開封してアイロンを当てる方法を動画にしてみました。小松時代に教わったことを思い出しながらやってみました、細かいところは動画では伝えにくい部分もありましたが、参考になれば幸いです。


特に直綴はハンガーにかけると裾のひだが広がってしまい一気にダメになってしまうので、毎回畳むひつようがあります。最初は手間に思うかもしれませんが、毎日やっていると素早くできるようになりますのでぜひお試しください。



それでは動画をご覧ください




「ブラジル・シュウちゃんねる」





2021/10/03

ブラジル医学生にコロナワクチン2回目を打ってもらいました。日本語で「ありがと」って言ってくれました。

コロナワクチンの2回目を打った時の動画



今回は早朝の8時にマリリア市の国立大学までいきました。たくさんの人が既に並んでいてびっくりしました。かなり長い列だったので、これは相当時間がかかると覚悟を決めました。病院は日本でもそうですがブラジルもすごく待たされますもんね。


時間ぴったり!あっという間に終わる


 それが予告通り8時に受付が始まり、その後あっという間に長蛇の列が会場に飲み込まれ、30分後にはもう全て終わっていました。時間通りに始まったのにびっくりして、その後の受付の速さにさらに驚きました。素晴らしさに感動でした。時間に寛容なブラジルですが、ブラジルの他の面を知りました。



可愛いい医学部の学生が日本語を

今回も1回目に続きこの大学の研修医学生がテキパキと愛想もよく丁寧に対応してくれました。最後に日本語で「ありがとう!」と声をかけてくれてびっくりしました。

 なんとマリリア日系スポーツでソフトボールを習っているとのことでした。それで少し日本語がわかるのですね。ちなみにここマリリアの日系スポーツクラブの野球部はブラジルの中でも大きなクラブです。プロ野球選手も生み出した場所です。


それでは動画を見てください。




まとめ

 ブラジルでのコロナワクチンの二度目の摂取の様子です。アストロゼネカです。今回も国立大学の医学部生徒に打ってもらいました。時間通りに始まり、あっという間に終わり、また対応の方もとても親切で気持ちよく終えることができました。副作用も二日ほどで大事に至ることはありませんでした。


無事2回打ちましたが、今後も健康管理に気をつける生活を心がけます、皆さんもお大事に!
それではまた! チャオチャオ!!!


「ブラジル・シュウちゃんねる」


2021/10/02

ブラジル散歩 銀行へ入金してきますの巻 2021年10月1日

 10月になりましたね。


ブラジル散歩一緒にいかがですか?


今日の散歩は・・・・


1 お寺のお化粧直し

2 お彼岸法要

3 ブラジルの銀行

4 ブラジルを席巻(もしかして世界を?)nubank

5 エンディング お寺の全景と責任者ルーカス登場!


の5本立てでお送りしております😃


1 お寺のお化粧直し


今回の動画の出だしは、お寺の塀や壁などを塗り直しているところから始まります。
 10年ぶりくらいの修復、塗り替えでどんどんお寺のが綺麗になっているので一同喜んでいます。これも日頃からお寺を大事にしてくださっている方々のおかげです。ありがとうございます!
 お寺の修復の動画は今月中にまた個別に出しますのでみてください。

2 お彼岸法要


 先日はこのブログでお彼岸法要のことを書きましたが、たくさんの方がお参りになって無事お勤めが終わり、これにも喜んでいます。コロナで大変なときにお寺も綺麗になるし、お参りにも再び戻ってくださりありがたいことです。



3 ブラジルの銀行


ブラジルの銀行もどんどんデジタル化が進み便利になってきています。入金もつい3−4年前まではお金を封筒に入れてATMに預けても反映されるのは翌日でした。今は日本と同じようにお札を機械に入れたらそのまま機会が数えて承認され、すぐに反映されるようになりました。むちゃくちゃ嬉しいです。


4 ブラジルを席巻(世界を?)nubank



この新しいインターネットバンクについては取り上げようと思っています。ブラジルではナンバーワンで今後世界を席巻する勢いの会社です。良心的なシステムで手数料を誤魔化したり、月会費をとったりしません。逆にお金を預けるといままでの銀行より高金利です。私は今年になって恐る恐る使い始めていますが、今のところトラブルはありません。 今までの南米の銀行のあくどい体制を覆すために作ったネットバンキングのおかげで、体制側の銀行のサービス向上を牽引していると思います。
 おかげでブラジル全体の質が上がっていると思います。これはきっと日本にも上陸すると思われます。

5 エンディング お寺の全景と責任者ルーカス登場!


最後に、またお寺に到着。今度は綺麗に塗りなおされているお寺の全景と内部を紹介しています。お寺のお化粧直しの責任者のルーカスさんも登場しています。日本でもそうでしょうが、ブラジルで信頼のおける仕事をしてくれる人に出会うのは嬉しいことです!

Lucasのインスタグラムです。マリリアの方はぜひお願いしてみてください。

良心的できっちり仕事をいてくださいます。


https://instagram.com/lgapinturas?utm_medium=copy_link



それでは一緒に散歩しましょう!




今日も散歩に付き合ってくれてありがとうございました。


「ブラジル・シュウちゃんねる」




2021/10/01

『口伝鈔』 口伝鈔 第九章. Capítulo 9 ポルトガル語翻訳(オフィシャル)と原文、現代文付き(私の他のブログnoteの宣伝です)

タイトルにもありますように、時々このブログでわしのもう一つのブログnoteの宣伝をしています。



 こちらはほぼ毎日更新していて、noteというブログの特性上広告もつきません。私の職業が南米はブラジルのマリリア市にあるお寺、マリリア真宗本願寺では毎朝ブラジル時間の7:30からYouTubeで朝のお勤めの生中継をしています。お勤めの後のお話のテキストをnoteにアップしている次第です。

 日々少しづつ仏教のお話を聞いてみてはいかがでしょうか?

https://note.com/izushu  (私のノートです)

 ポルトガル語がついているのが大きな特徴かと思います。原文は古文で日本人でも難しいのですが、かといって現代文を読んでもやっぱりむづかしいなという場面もあります。それを辞書をめくりながらポルトガル語で表現されている文章を味わってみるとまた意外な世界がひらけてくるのが面白いです。
今回は全文あげていますが、毎日少しづつ区切って朗読、そして語句の意味、感想を述べています。

今日のYouTubeはこちらです。 今回は全文を朗読しています。


「ブラジル・シュウちゃんねる」



口伝鈔 第九章.    Capítulo 9 


Um incidente com Shōkõ de Chinzei 



 Certa vez, Mestre Shinran dirigia-se ao eremitério de Mestre Kurodani37, quando um passante perguntou a um servo que o acompanhava: "Por favor, me diga onde encontrar os aposentos do Mestre, que disse ser o mais sábio de todos os mestres vivos e dentre os famosos nomes das Oito Escolas da capital. O criado enviou a solicitação ao Mestre Shinran, que estava sentado num palanquim. Este disse: "A residência do Mestre mais sábio? Você deve estar se referindo ao Mestre Genkū39. Você deve estar vindo visitá-lo, certo?" Então, o praticante disse: "Exatamente. Devo discutir um assunto com Mestre Genkū". 


   Mestre Shinran continuou: "Permita-me guiá-lo. Por favor, mon- te em meu palanquim."O praticante ficou surpreso, dizendo: "Eu creio que não sou digno. "O Mestre disse "Na busca do Dharma, não se deve ter um coração covarde. Não estamos ligados como discípulos de Shakyamuni? Não há necessidade de formalidades." "Mais uma vez recusando, o praticante se desculpou profusamente. Finalmente, Mestre Shinran instruiu o servo a carregar a caixa de livros do homem e o conduziu à carruagem. 


   Ao chegar ao eremitério e encontrar Mestre Genkū, Shinran anunciou: "Um viajante veio de Chinzei40 em busca de seu eremitério a procura do Dharma. Ele é um companheiro que eu conheci na vinda até aqui. Por favor, poderia recebê-lo?" Mestre Genkū disse: "Por favor, dê as minhas boas-vindas a esta pessoa."Assim, Mestre Shinran guiou o praticante e o trouxe ante à presença de Genkū. Mestre Genkū olhou para o praticante, que olhou para trás. 


Seguiu-se então um longo silêncio. Depois de um tempo, Mestre Genkū disse: "Quem é você e o que o traz aqui?" 

   O praticante anunciou: "Eu sou de Chinzei. Viajei à capital em busca do Dharma e agora busco uma entrevista consigo." 

   O Mestre perguntou: "Em busca do Dharma? Qual Dharma que você procura?" 

   O praticante disse: "Eu procuro Dharma do Nembutsu." 

   O Mestre assim perguntou: "Nembutsu? Nembutsu da China ou Nembutsu do Japão?" 

   O praticante fez uma pausa, pensou um momento, então respon- deu: "Eu procuro o Nembutsu da China." 

   O Mestre disse: "Você deve ser o discípulo de Zendo41!" 

   Nesse ponto, o praticante removeu uma pedra de tinta de sua manga e escreveu um nome de dois ideogramas e apresentou-o. Ele disse: "Eu sou Shōkō² de Chinzei". 

   

   Em Chinzei, este eremita43 Shōkō pensou: "Eu irei para a capital e conhecerei o Mestre conhecido como o mais sábio do mundo. Nada vai ficar em meu caminho. Eu irei rapidamente e desafiarei o Mestre para uma sessão de perguntas e respostas. Se ele se mostrar mais sábio, serei seu discípulo. Se eu ganhar, ele deve tornar-se meu discípulo." 


   No entanto, Mestre Genkū, uma pessoa iluminada, notou a atitude arrogante do praticante que explicava suas perguntas pontuais. 

   O eremita Shōkō percebeu que seu conhecimento era muito me- nor que o do Mestre Genkū e nunca faria dele seu discípulo. Logo sua bandeira de arrogância desmoronou, forçando-o a apresentar Mestre Genkū com o nome de dois ideogramas significando submissão ao seu novo professor. 


   Dois ou três anos depois, Shōkō tomou a caixa de livros que levava, apareceu diante do Mestre e anunciou: "Porque sinto falta da minha terra, voltarei para Chinzei. Quero me despedir. "Em suma, ele parecia dizer que tinha aprendido o suficiente com o Mestre Hōnen e estava deixando a Irmandade.


   Quando Shōkō passou pelo portão, o Mestre gritou "E melhor para os novos praticantes rasparem suas cabeças quando começarem a prática!" Ouvindo essas palavras, Shōkō deixou escapar:”  "Há muito tempo que eu, Shōkō, fui ordenado u, monge. Agora você me aconselha a cortar meu cabelo? Isso é estranho, Eu realmente não posso partir com tal conselho alojado em meus ouvidos. Somente retornarei para casa depois do Mestre explicar." 


   Nesse ponto, o Mestre disse: "Um professor budista deve cortar três tipos de cabelo: arrogância, lucro e fama. Durante três anos que passou aqui, você fez um registro escrito de declarações importantes do Dharma, Voltando à sua pátria apenas para tratar os outros como seres inferiores e se pavonear com um ar de superioridade. Com esses cabelos de superioridade, ninguém o consideraria um bom aluno do budismo, Essa é uma fama que procura. Essas pessoas procuram lucro para si mesmas na comunidade budista. Somente as pessoas despojadas desses três tipos de cabelo são dig nas de serem mestres budistas. Assim, aconselho voce," 


   Um Shōkō cheio de remorso agora removia as escrituras do fundo de sua caixa de livros e então as queimou. Assim, dizendo adeus, ele partiu. No entanto, os vestígios do velho Shōkō permaneceram. Eventualmente, ele ignorou o conselho, virou as costas aos ensinamentos do Mestre e começou a dizer às pessoas que o Ir-nascer é obtido através de várias práticas e que os obstáculos de um eram obstáculos para os outros, Ele se esqueceu das injunções de nosso professor patriarcal e, em vez disso, pensou que as forças ocultas dos deuses não eram nada a temer, Como foi deplorável e assustador! 


   A história de Shōkō é notável porque ele recebeu a orientação de Shinran e entrou na Irmandade de Kurodani.

   Todos os alunos do Verdadeiro Ensinamento devem levar isso a sério,







37

 [Kurodani Shönin], outro nome dado a Hōnen ou Genkū


38

 As 8 escolas são Hosso, Kegon, Kusha, Jojitsu, Sanron, Ritsu, Tendai e Shingon 


39

Mais um nome atribuído a Hōnen 


40

 Região de Kyūshū 


41

[Zendô Daishi] – outro nome para se designar Mestre Shan-tao 


42

Benchô, 1162-1238 – se tornou um dos mais importantes discípulos de Honen. 


43

Em japonês, [hijiri],um eremita leigo que vive como um monge sem receber as investiduras oficiais





原文
口伝鈔 下
三種のもとどり

(9)

一 あるとき鸞上人(親鸞)、黒谷の聖人(源空)の禅房へ御参ありけるに、修行者一人、御ともの下部案内していはく、「京中に八宗兼学の名誉まします智慧第一の聖人の貴坊やしらせたまへる」といふ。このやうを御ともの下部、御車のうちへ申す。鸞上人のたまはく、「智慧第一の聖人の御房とたづぬるは、もし源空聖人の御ことか、しからばわれこそただいまかの御坊へ参ずる身にてはんべれ、いかん」。修行者申していはく、「そのことに候ふ、源空聖人の御ことをたづねまうすなり」と。鸞上人のたまはく、「さらば先達すべし、この車に乗らるべし」と。修行者おほきに辞しまうして、「そのおそれありかなふべからず」と[云々]。鸞上人のたまはく、「求法のためならば、あながちに隔心あるべからず、釈門むつび、なにかくるしかるべき、ただ乗らるべし」と。再三辞退申すといへども、御とものものに、「修行者かくるところのかご負をかくべし」と御下知ありて、御車にひき乗せらる。

 しかうして、かの御坊に御参ありて空聖人(源空)の御前にて、鸞上人、「鎮西のものと申して修行者一人、求法のためとて御房をたづねまうしてはんべりつるを、路次よりあひともなひてまゐりて候ふ、召さるべきをや」と[云々]。空聖人、「こなたへ招請あるべし」と仰せあり。よりて鸞上人、かの修行者を御引導ありて御前へ召さる。そのとき空聖人、かの修行者をにらみましますに、修行者また聖人(源空)をにらみかへしたてまつる。かくてややひさしくたがひに言説なし。しばらくありて空聖人仰せられてのたまはく、「御坊はいづこのひとぞ、またなにの用ありて来れるぞや」と。修行者申していはく、「われはこれ鎮西のものなり、求法のために花洛にのぼる、よつて推参つかまつるものなり」と。そのとき聖人「求法とはいづれの法をもとむるぞや」と。修行者申していはく、「念仏の法を求む」と。聖人のたまはく、「念仏は唐土(中国)の念仏か、日本の念仏か」と。修行者しばらく停滞す。しかれどもきと案じて「唐土の念仏を求むるなり」と[云々]。聖人のたまはく、「さては善導和尚の御弟子にこそあるなれ」と。そのとき修行者、ふところよりつま硯をとり出して二字を書きてささぐ。鎮西の聖光坊これなり。

 この聖光ひじり、鎮西にしておもへらく、「みやこに世もつて智慧第一と称する聖人おはすなり、なにごとかは侍るべき、われすみやかに上洛してかの聖人と問答すべし、そのときもし智慧すぐれてわれにかさまばわれまさに弟子となるべし。また問答に勝たばかれを弟子とすべし」と。しかるにこの慢心を空聖人、権者として御覧ぜられければ、いまのごとくに御問答ありけるにや。かのひじりわが弟子とすべきこと、橋たててもおよびがたかりけりと、慢幢たちまちにくだけければ、師資の礼をなしてたちどころに二字をささげけり。

 両三年ののち、あるときかご負かきおいて聖光坊、聖人の御前へまゐりて、「本国恋慕のこころざしあるによりて鎮西下向つかまつるべし、いとまたまはるべし」と申す。すなはち御前をまかりたちて出門す。聖人のたまはく、「あたら修学者がをきらでゆくはとよ」と。その御声はるかに耳に入りけるにや、たちかへりて申していはく、「聖光は出家得度してとしひさし、しかるに髻をきらぬよし仰せをかうぶる、もつとも不審。この仰せ、耳にとまるによりてみちをゆくにあたはず。ことの次第うけたまはりわきまへんがためにかへりまゐれり」と[云々]。

 そのとき聖人のたまはく、「法師には三つの髻あり、いはゆる勝他·利養·名聞これなり。この三箇年のあひだ源空がのぶるところの法文をしるし集めて随身す。本国にくだりて人をしへたげんとす、これ勝他にあらずや。それにつけてよき学生といはれんとおもふ、これ名聞をねがふところなり。これによりて檀越をのぞむこと、詮ずるところ利養のためなり。この三つの髻を剃りすてずは、法師といひがたし。よつて、さ申しつるなり」と[云々]。

 そのとき聖光房、改悔の色をあらはして、の底よりをさむるところの抄物どもをとり出でて、みなやきすてて、またいとまを申して出でぬ。しかれどもその余残ありけるにや、つひに仰せをさしおきて、口伝をそむきたる諸行往生の自義骨張して自障障他すること、祖師(源空)の遺訓をわすれ、諸天の冥慮をはばからざるにやとおぼゆ。かなしむべし、おそるべし。しかればかの聖光房は、最初に鸞上人の御引導によりて、黒谷の門下にのぞめる人なり。末学これをしるべし。


現代文

一。

 あるとき、親鸞人が黒谷の法然上人のお住居をお訪ねしたおり、一人の修行者が聖人のお供の下僕(しもべ)に道案内をたのんで、「都に八宗兼学注一のほまれ高い智慧第一の上人のお住居をご存知であろうか」とたずねた。この次第をお供の下僕が車の中の聖人に申し上げた。親鸞聖人は、「智慧第一の上人のお住居と言って尋ねたのは、もしや源空上人のことであるか。それならば、わたしもこれからそのお住居をお訪ねしようとしているものであるが、どうなさるか」と仰せられた。修行者は、「確かにそのことである。源空上人のことをお尋ね申したのである」と答えた。親鸞聖人が、「それでは案内しよう、この車に乗られるとよい」と仰せられると、修行者はかたく辞退して、「それは遠慮しなくてはならない、お受けすることはできない」と言った。親鸞聖人は、「仏の教えを求めるためならば、強いて遠慮する必要はない。同じ教えを奉ずるもの同志が親しくすることになんの不都合があろうか、すぐ乗られるとよい」と仰せられて、再三辞退するにもかかわらず、お供のものにも、「修行者が背負っている負い籠をかつぐがよい」と命ぜられて、修行者をお車の中に引き乗せられた。そうして、かのお住居にお訪ねになって、源空上人の前で、親鸞聖人は、「鎮西の者と言って、修行者が一人、教えを求めるためといって、上人をお尋ね申していたのを、道の途中より伴って参りました。お召しになりますか」と申し上げた。源空上人には「ここにまねくがよい」との仰せである。そこで親鸞聖人はかの修行者をお導きになって、上人の前に召された。そのとき、源空上人はじっと眠をすえて修行者をにらんでおいでになると、修行者もまた上人をにらみかえし、こうしてやや久しいあいだ、たがいになにも語ることがなかった。暫くたって源空上人が仰せられて、「あなたは何処の人か、またなんの用があって来たのか」と言われた。修行者は、「私は鎮西の者である。教えを求めるために花の都にのぼって来たので、そのためにこうして不躾ではあるが、お訪ねしたものである」と答えて言った。そのとき上人は、「教えを求めるとは、どの教えを求めるのか」と問われ、修行者は「念仏の教えを求める」と言った。上人が、「念仏はシナの念仏か、日本の念仏か」と間うと、修行者は暫く答えあぐんでいたが、しかし十分思案したうえで、「シナの念仏を求めるのである」と答えた。上人は「それでは善導和尚のお弟子である」と言われた。そのとき、修行者は懐中より携帯用の覗を吸りだして、二字を紙に書いて捧げた。鎮西の聖光房が、このひとである。この聖光上人が鎮西に居たとき、思うには、「都には世をあげて智慧第一と称する上人がおいでになる。しかしどれほどのことがあろうか。自分は早速、上京して、かの上人と問答しよう。そのとき、もし智慧が勝れて、自分に打ち勝つならば、自分が弟子になろう。また自分が間答に勝つならば、かれを弟子にしなければならない」と考えた。ところがこの慢心を仏·菩薩の生れかわり〔であった〕源空上人はお見通しになられたから、いまのようにお問いになられたのであろうか。「この上人を自分の弟子とすることは、梯子を立てても及ぶことは出来ない」と考え、高慢の旗(はた)も忽ちくだけたから、師資の礼をとって、ただちに二字を書いて捧げたのである。二、三年たった後、あるとき負い簡を背に負うて聖光房が上人の前に行って、「郷里が恋しく思われる(出)はしごので、鎮西に下ろうと思います、お暇をたまわりたい」と申しあげ、ただちに上人の前から下って旅立ち、門を出て行った。上人が言われるには、「あたら修行者が、髻(もとどり)も切らないで出て行くとは、なんと残念なことだ」と仰せられた。その声が遥か遠くから耳に聞えてきたのであろうか、聖光は引きかえして来て申しあげた。「聖光は出家得度してからすでにとし久しくなりましたが、それなのに髻(もとどり)を切らないという仰せを頂いた。これは極めていぶかしいことです。この仰せが耳に留ってきえないので路を先へ行くことができず、事の次第を承り、それを納得するために帰って来ました」そのとき、上人が言われるには、「法師には剃らなければならない三つの髻(もとどり)がある。いわゆる勝他と利養と名聞とである。この三年のあいだ、わたしが述べたところの教義を記し集めてそれを携え、郷里にくだって人々をこまらしてやろうとされるが、これは勝他ではなかろうか。またそれと同時に、勝れた学者だとほめられようと思っているが、これは名聞をねがっているものである。さらに信者を得ようと望むことは、とりもなおさず利養のためである。この三つの髻(もとどり)を剃り捨てなければ、法師と言うことはできない。だからあのように言ったのである」と仰せられた。そのとき聖光房は改俊の色を顔にあらわして、負い篭の底におさめた書きものなどを取りだしてみな破り捨て、また別れを告げて出て行った。しかしながらそれでもなお捨てあました残りがあったのか、ついに上人の仰せをさしおいて、上人の口から親しく伝えられた教えに背く、念仏以外の修行によっても浄土に生れることができるというわたくしの考えを説く張本人となって、自·他のさとりの邪魔をしたもので、これこそは、祖師上人の遺訓を忘れ、諸天善神のみこころを恐れ慎まないものかと思われる。誠に悲しみ畏れなければならない。こうしたわけであるから、かの聖光房は初めは親鸞聖人のお導きによって黒谷の上人の門下にはいった人であるということを、末学の徒は知らなければならない。


一 八宗

奈良六宗(三論·法相·華厳·律·倶舎·成実の六)に平安の二宗(天台·真言の二)を加えて八宗という。

二 聖光房

聖光房弁阿(一一六三 ー 一三三八)、または弁長ともいう。升阿は三十六歳のとき、法然の門にはいり、のち故郷の鎮西に帰って善導寺を建てた。この弟子に良忠があり、教えをひろめたので、広く行われるようになった。これが浄土宗の鎮西派で、現今の浄土宗である。 『末代念仏授手印』、 『浄土宗要集』などの著がある。

口から親しく伝えられた教え原文には「ロ伝」という。 『歎異抄』序注五参照。

『歎異抄』序注五

ロから親しく伝えて下さった原文には「ロ伝」とあるもので、見方によっては、本書の撰者のエリート意識を受け取ることを可能にする。「ロ伝」は、平安末より南北朝にわたって強く根をはった天台宗の口伝法門と直接繋るから、これを与件として見るとき、注目される意味を含んでいる。それというのも、親鸞の晩年に起こった、長子善鸞義絶の事件は、「慈信一人に、よる親鸞がおしえた」( 『拾遺真蹟御消息』。真宗聖教全書ニ·七二七)「またよるひるも、慈信一人に、ひとにかくして法文をおしえた」( 『血脈文集』、同七一八)という「口伝」に病巣をもっていたからであって、「ロ伝」は親鸞が強く否定したところであった。弟子はひとりも持たないと表明し、同行·同朋の精神に立った親鸞からは、「ロ伝」は認められない。同様の問題は『口伝鈔』にもある。


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歎異抄・執持抄・口伝抄・改邪鈔 (東洋文庫0033) Kindle版

親鸞 (著), 石田 瑞麿 (翻訳)








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「哀れ、生き物は互いに殺しあう」 今週のことば 尾畑文正 過去現在因果経 (意訳) 中日新聞コラムより ブラジルポルトガル語翻訳付き

「哀れ、生き物は互いに殺しあう」 今週のことば 尾畑文正 過去現在因果経  ( 意訳 )  この経典は釈迦が後に国を捨て 出家する動機を「樹下の思惟(しい)」として語る。ある日、少年釈迦が父王と閻浮樹(えんぶじゅ)の下で休息していた時、農作業で掘り起こされた虫を鳥が啄(ついば)...

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