2021/08/15

100年前のスペイン風邪の時、三重県が出した(一番安全なる「予防」の心得啓発ポスター)が一番わかりやすいのコロナ対策かも?

100年前からあったコロナ対策!  しかも結構わかりやすい。

尾畑文正先生から、このような写真が送ってきました。


 表題にあるように大正時代のスペイン風邪の予防ポスターです。ちょっと昔の言葉遣いが読みにくくしていますが、内容は簡潔で核心をついており、今のコロナ対策と全く同じ、というかもっとわかりやすく説得力があります。 一番で大きな赤字で「予防が第一」そして序文につづき9項目が続きます。文章の最後に「一番安全である」で締めくくってあるのも説得力があっていい。安全に過ごしてほしいという願いを感じる。

 下記に文字起こしをしてみました。何度も読んで100年の時を超えて引き続き対策に気を引き締めたいものです。

來襲感流


近頃流行性感冒が各地に流行てゐますから皆さんは次の事柄を能く讀まれて感染せぬ様に充分豫防して下さい。小児老人姫婦産婦は特に本病に罹易きゆへ豫防に注意するこが肝要である


一 患者に近寄らぬると

されは人から人に傳染す病氣で其病毒は病入の咽頭や鼻腔等に在るゆへ映嗽噴嚏をなす時、唾痰の泡沫と共に飛散し之を吸入して傳染するものなれは病入に近寄らぬこと、殊に病入ある家にての會食とか會葬は御互に見合すことが一番安全である


一 マスクを使用すること

看病人は勿論流行時に外出の際か群集の場所に出入する時其他患者又は罹患の疑ある局は常にマスクを用ゆるのが一番安全である


一 含嗽すること

朝タ又は外出後は食塩水か微温湯で屢々含嗽することが一番安全である


一 豫防注射

流行の兆あるときは速かに豫防注射を受けて置くことが一番安全である


豫防が第一


一 医療を早く受けること

感冒にかかったと思ふたら早く医療を受くることが一番安全である


一 患者生隔離するきこと 

病人が出来たら早く隔離ー其病室には看病人の外出入せぬことが一番安全である


一 消毒の勵行と屋内の清潔を保つこと

病人又は罹患の疑ある者の使用せる物件は健康者用のものと區別-日光消毒を行い食器は使用の都度熱湯中に漬けて消毒し、また屋内は日光を財入とか通風をよくし常に清潔にすることは一番安全である


一 唾痰紙片の始末

病人の唾痰や口辺を拭ひたる紙片は其儘直ちに便所に投棄するのが一番安全である


一 心身を健全に保つこと

精神の爽快皮層の錬固胃腸の健全適度の運動等身体の抗抵力増進を計ることが一番安全である


縣重三




浄土真宗・親鸞聖人の教えを、尾畑文章先生が大学長の時に同朋大学で受けた方でもある、風俗ライターの伊藤裕作さんが以下のように反応されている。



百年の時隔てども合点いく「一番安全」告知の知らせ


 旧盆の8月14日、東京・新宿を離れた私に、10年前私が同朋大学で学んだ時の学長、尾畑文正先生から100年前のスペイン風邪の時、三重県が出した「予防」の心得啓発ポスターがラインで送られてきました。

日本人は、この百年、一体何を学んできたのでせうか?




「ブラジル・シュウちゃんねる」

2021/08/13

金子みすゞと他力について。【蓮と鶏】「それも私の せいじゃない。」




【蓮と鶏】


泥のなかから

蓮が咲く。


それをするのは

蓮じゃない。


卵のなかから

鶏が出る。


それをするのは

鶏じゃない。


それに私は

気がついた。


それも私の

せいじゃない。


この詩の第一印象

 この詩の最後の一文「わたしのせいじゃない」という終わりにハッとさせられ気持ちのつっかえがはずされる。
自分で「わたしのせいじゃない」と言うときは責任回避に使うのに、この詩では慎み深い恣意のない気づきを表しているように伝わる。
意外な展開にハッとさせられてユーモアに笑みを誘われ気持ちがいい。気持ちが洗われる。晴れやかな気持ちになる。

「せい」は「所為」その意味は?


「せい」という言葉遣いが気になって調べてみたら、語源は漢文の「所為」で
「所為」の読み方は、 「しょい」「せい」で、ある物事を起こした原因や理由」という意味で使われる言葉で、読み方で使い分けがあります。

  • 所為(しょい・せい)⇒行い・しわざ
  • 所為(せい)⇒その結果を生んだ原因・理由

大きく意味が二つあり

①「しわざ・行い」という意味

この場合の「所為」は、 「しょい」とも 「せい」とも読む場合があります。

  1. 悪いことが起こったのは悪魔の所為(せい)である、と村人は口を揃えて言った。
  2. 自分の所為(しょい)に責任をもって行動しなければならない。

②「ある事が起こった原因・理由」という意味

この場合の「所為」は、多くの場合 「せいと読みます。

  1. 帰りが遅くなったのは友達の所為(せい)だ。
  2. 君が試験に合格しなかったのはしっかり勉強をしなかった所為(せい)だ。
と説明が続き

「所為」はネガティブな表現

「所為」は、「これ(悪い事・良くない事)が起こったのは○○が原因だ」と言うように、 悪いことが起きてしまった場合に使います。

意味だけ理解していると、「○○のおかげで(良いことが起こった)」というポジティブなニュアンスでも使えそうに感じますよね。

しかし、「所為」はネガティブな表現となるので注意しましょう。

との結論であった。金子みすゞがどう言う意味で使ったのか? その微妙な詩の表現なので決めることはできないでしょうが、この「せいじゃない」というおわり方にはやり味があると思います。

【例文あり】「所為」は読み方は?正しい意味や使い方・類語も解説



自己責任地獄からの解放




泥のなかから蓮が咲く。


「譬(たと)えば高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿(ひしつ)の淤泥(おでい)にすなわちこの華を生ずるがごとし」(『維摩経(ゆいまきょう)』)という言葉があります。高原の乾いた陸地はさわやかですが、蓮の華が生じることはありません。蓮華は泥に根を下(おろ)して美しく咲き、しかも泥水のなかにあってその汚れに染(そ)まることがないのです。この蓮華の譬喩(ひゆ)を金子みすゞはお寺で聴聞したのではないでしょうか。

 そして、「他力のおかげさま」の念仏の功徳のお話を何度か僧侶から聞いていたのではないだろうか。蓮の華は仏教の悟りの象徴であり、泥は世間の苦しみや濁りを表している。煩悩の中にこそ悟りの花が咲くのであるという大乗仏教の教えの譬えとして有名である。





「だれのせい」なのか?

煩悩の所為なり


一 「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じそうらえ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまいりたくそうらわんには、煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなまし」と云々


煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなまし」ここに金子みすゞの「せいじゃない」と親鸞聖人のユーモア、道徳的仏教に対するアイロニー(皮肉)が呼応している。 


「せい」はそのままーおかげさま




清沢満之

我が信念
天と命との根本本体

行為の決着が次第にむつかしくなり、何をどうすべきであるやら、ほとんど困却の外はない様なことになる。言葉を慎まねばならぬ、行を正しくせねばならぬ、法律を犯してはならぬ、道徳を壊りてはならぬ、礼儀に違うてはならぬ、作法を乱してはならぬ、自己に対する義務、他人に対する義務、家庭における義務、社会における義務、親に対する義務、君に対する義務、夫に対する義務、妻に対する義務、兄弟に対する義務、朋友に対する義務、善人に対する義務、悪人に対する義務、長者に対する義務、幼者に対する義務等、いわゆる人倫道徳の教えより出づる所の義務のみにても、これを実行することは決して容易のことでない。もし真面目にこれを遂行せんとせば、終に「不可能」の嘆に帰するより外なきことである。私はこの「不可能」に衝きあたりて、非常なる苦しみを致しました。もしこの如き「不可能」のことのためにどこ迄も苦しまねばならぬならば、私はとっくに自殺を遂げたでありましょう。しかるに、私は宗教によりてこの苦しみを脱し、今に自殺の必要を感じませぬ。すなわち、私は無限大悲の如来を信ずることによりて、今日の安楽と平穏とを得て居ることであります。

 

 無限大悲の如来は、如何にして私にこの平安を得しめたまうか。外ではない、一切の責任を引き受けて下さるることによりて、私を救済したまうことである。如何なる罪悪も、如来の前には毫も限りにはならぬことである。私は善悪邪正の何たるを弁ずるの必要はない。何事でも、私はただ自分の気の向う所、心の欲する所に順従(したが)うて、これを行うて差し支えはない。その行が過失であろうと、罪悪であろうと、少しも懸念することはいらない。如来は、私の一切の行為について、責任を負うて下さるることである。私は、ただこの如来を信ずるのみにて、常に平安に住することが出来る。如来の能力は無限である。如来の能力は無上である。如来の能力は一切の場合に偏満してある。如来の能力は十方にわたりて、自由自在、無障無碍に活動し給う。私は、この如来の威神力に寄托して、大安楽と大平穏とを得ることである。私は、私の死生の大事をこの如来に寄托して、少しも不安や不平を感ずることがない。「死生命あり。富貴天にあり」と云うことがある。私の信ずる如来は、この天と命との根本本体である。

 

(明治三十六年夏、先生三河国大浜町西方寺にあり、自ら筆を執りて、この一篇を草し、後数日を出でずして、病俄に革まり、六月六日午前一時、溘然として寂せらる。然れば此一篇は正に先生の絶筆なり。同年六月十日発行『精神界』所載)


全文はこちら




金子みすゞと他力


 踊躍歓喜の喜びと祈りが無邪気な童謡詩に乗せて表現されているから読むものの心に静かな涼風を届けてくれる。



親鸞聖人


金子みすゞ

金子 みすゞ(かねこ みすず、1903年明治36年)4月11日 - 1930年昭和5年)3月10日)は、大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した日本童謡詩人。本名、金子 テル(かねこ テル)。

享年28〈数え年〉、26年の短い生涯を閉じた。法名は釈妙春信尼[2]


清沢満之 

清沢 満之(きよざわ まんし、1863年8月10日文久3年6月26日) - 1903年明治36年)6月6日)は、日本明治期に活躍した真宗大谷派(本山・東本願寺)の僧侶哲学者宗教家。旧姓は「徳永」。幼名は「満之助」。院号法名は、「信力院釋現誠」。真宗大学(現・大谷大学)の初代学監(学長)。


「ブラジル・シュウちゃんねる」


蓮と鶏 と 精神主義



 https://ameblo.jp/mako44moko/entry-10019759605.html

2021/08/11

まるでもんじゃ焼き!? ブラジルの左官職人の見事な技! お寺の改修が少し進みました。

今回はブラジルの左官職人を紹介いたします。

Jeanさんは穏やかで的確に丁寧にお仕事をされます。このような素晴らしい職人を見つけるのはかなり難しかったです。それは私が日本人だからではなく、地元のブラジル人でも困っている事情があります。 それはこういう職人は特に大きな看板を出しているわけではなく、人づてで紹介されることが多いのですが、その腕に大きな差があって仕事ができる人とあまり丁寧でない人の差が大きいのです。私がブラジルに来て14年、ここマリリアに来て8年目になりますが、ずっと地元に住んでいる方でさへ、仕事がきっちりできる職人を見つけることの難しさをよく語ります。

 ここ最近になってご門徒の一人が紹介してくださる方がことごとくいい職人で助かっています。いい職人とは、1、時間を守る。 2、見積もりを守る。 3、品質を守る。
この三つだと思います。


1、時間を守る。

 もう電話をして見積もりの日取りを決めるのですが、そもそもその日時に大幅に遅れる、もしくは来ないということが結構あります。 電話しても詫びることなくまた次の日を決めてこない! ということもあるのです。 信じられないでしょうが本当の話です。
 見積もりをして仕事始めの日取りも守らず、急に用事ができて工事半ばでほったらかしになることもありました。
今回の左官職人も家事職人もそういうことが全くありませんでした! ありがたかったです!

2、見積もりを守る。

 これは小見出し通りで、後でこれがいるとかあれがいると工事半ばでいう人もいます。しかし、これはお寺も相当古いので、思ったより難工事になるということもあるようです。最初は腹が立っていましたが、こういう経験を積んで見積もりよる20%くらい出費があることを覚悟して最近はお願いするようになりました。

今回の職人たちはそのミスが全くありませんでしたが・・・・ やはりできる職人は見積もりも確かなのだと思います。

ちなみに今回の工事には左官と鍛冶で約800レアルかかりました。日本円に換算して約17000円くらいです。(2021/08/10現在)

動画では、まるでもんじゃ焼きを作るようにセメントを混ぜています。
セメントを混ぜるハコを使っていないのがすごいです!

3、品質を守る。

 これも見ての通りですが、改修してもすぐに壊れるとか、雑であるとか、そもそも直ってなかったなんて場合もあります。見積もりの安さで選んでは行けません、やはりこれは運ですが、その道の詳しい人に出会うという幸運に恵まれるまで痛い経験を積むということでしょうか。
 
 今回の回収に来てくださった方は皆さん丁寧で、人当たりもよく、私たちが望んだ以上に「ここも直しておくね」と、お金儲けとは他に仕事自体に誇りを持って取り組んでいる姿勢が美しかったです。私もこのようにありたいと思いました。

それではその様子を動画でご覧ください!



「ブラジル・シュウちゃんねる」



これでご門徒さんも安心して階段を登ることができます。
ありがとうございます。🙏




いま、注目の投稿はこちら

「哀れ、生き物は互いに殺しあう」 今週のことば 尾畑文正 過去現在因果経 (意訳) 中日新聞コラムより ブラジルポルトガル語翻訳付き

「哀れ、生き物は互いに殺しあう」 今週のことば 尾畑文正 過去現在因果経  ( 意訳 )  この経典は釈迦が後に国を捨て 出家する動機を「樹下の思惟(しい)」として語る。ある日、少年釈迦が父王と閻浮樹(えんぶじゅ)の下で休息していた時、農作業で掘り起こされた虫を鳥が啄(ついば)...

人気の投稿はこちら