2024/10/01

ブラジル🇧🇷散歩🚶‍♀️ 歩くのが楽しくなる、お気に入りの靴を見つけました。

ブラジル🇧🇷散歩🚶‍♀️ 歩くのが楽しくなる、お気に入りの靴を見つけました。


 今日は私の最近の発見についてシェアしたいと思います。実は、以前は靴にあまり興味がなかったのですが、ついに欲しいと思う靴を見つけました。そして、その靴のおかげで毎日の散歩が本当に楽しくなりました!




新しいお気に入りの靴との出会い


 普段、靴選びにはあまり時間をかけていませんでした。しかし、最近の散歩がもっと快適で楽しいものになる靴を探していたところ、理想的な一足に出会いました。購入して早速履いてみたところ、その快適さに驚きました。軽量で足にフィットし、長時間歩いても疲れにくいんです。この靴のおかげで、ブラジルの美しい風景をもっと楽しめるようになりました。

今日の夕日と素敵な散歩道


 今日は特に素敵な夕日が見られました。線路沿いを歩いていると、柔らかなオレンジ色の光が空を染め上げ、心が和みました。ただ、歩道には馬のうんこが落ちていて、踏まないように気をつけながら歩くのも一興でした。こうした小さなハプニングも、楽しい散歩の一部として感じられました。

可愛い緑の小鳥との出会い


さらに、芝生の色と同じ美しい緑色をした小鳥を見つけました。手乗り文鳥のような愛らしい姿で、人を恐れていない様子がとても可愛かったです。自然の中でこうした小さな出会いがあると、散歩の楽しさが倍増しますね。



お得な購入方法


もしこの素晴らしい靴に興味がある方は、以下のリンクから購入すると割引が適用されますので、ぜひチェックしてみてください。

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2024/09/30

マリリア真宗本願寺、春のお彼岸法要に際し、心を込めて短い法話をさせていただきます。ポルトガル語翻訳付き

マリリア真宗本願寺、春のお彼岸法要に際し、心を込めて短い法話をさせていただきます。





 お彼岸は、私たちにとって特別な時期です。この期間、太陽が真東から昇り真西に沈むという自然現象を通じて、仏教における「此岸」と「彼岸」を象徴的に考える機会をいただきます。「此岸」とは私たちが日常を過ごす迷いや煩悩の世界であり、「彼岸」は悟りや安らぎ、そして仏の世界を表します。

 大阪にある四天王寺は聖徳太子が593年に建立したとされる日本最古の寺であり、この四天王寺の「西の門(西門)」は、浄土思想と関連付けられており、「極楽浄土は西方にある」との考え方がこの寺の設計に反映されています。西門は「極楽門」とも呼ばれ、浄土への入口とされています。彼岸の時期には、太陽が真西に沈むため、極楽浄土に最も近づける象徴的な時間とされ、先祖に感謝し、修行を行う時期として定着しました。


 お彼岸の期間には、六波羅蜜という教えに基づいて、日々の行いや心のあり方を振り返ることが勧められています。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧という六つの行いを実践することが、私たちを迷いから解き放ち、彼岸に近づける道となります。しかし、これらの実践は必ずしも大きな行いでなくても良いのです。例えば、他者に対する思いやりや、怒りを抑えること、小さな善行など、日常の中でできる小さな努力が、私たちの心を浄らかにしてくれるのです。


 特に春のお彼岸は、冬が終わり、生命が再び息吹く時期です。この自然の変化の中で、私たちもまた新たな気持ちで心を整え、仏の教えに耳を傾ける時期と捉えたいものです。



「お彼岸の時期に私たちは、六波羅蜜の教えに基づいて、日々の行いや心のあり方を振り返ることが勧められています。その中でも特に『布施』、すなわち他者に対する思いやりや施しの心は、仏道を歩む上で大切な実践です。私自身、最近大きな学びを得た経験がありました。

 私が管理させていただいているお寺では、長い間、車椅子を使われる方が参拝しやすくなるように、通用口の整備を進めてまいりました。つい先日、その通用口がついに完成し、多くの方々から感謝の言葉をいただきました。しかし、この完成までの道のりを振り返ると、実際には地域の皆さんやお寺の方々のご協力があってこその成果でした。私は、この経験を通して、『布施』の心を改めて実感しました。

 車椅子用の通用口を整備するという具体的な行動は、一見すると特別なことに思えるかもしれませんが、これはまさに日常の中でできる小さな善行の積み重ねです。阿弥陀如来の慈悲の中に生かされている私たちは、そのお慈悲を忘れず、日々の生活の中で他者への思いやりや感謝の心を育てることが大切です。このお彼岸の時期を通して、私たちもそれぞれの立場でできる小さな『布施』を実践し、他者に寄り添う心を育んでまいりましょう。

 浄土真宗では、阿弥陀如来のお慈悲によって私たちは既に救われていると教えられています。私たちが彼岸に至るために、特別な行いをしなくても、阿弥陀様の広大な慈悲の中で既に包まれているのです。しかし、そのことに感謝し、そのお慈悲を忘れず、日々を感謝の心で過ごすことが大切です。

 このお彼岸の時期、私たちが改めて自身の心を見つめ直し、他者との関わりの中で慈悲と感謝の心を育てることができますように、共に南無阿弥陀仏とお念仏をいたしましょう。


合掌 南無阿弥陀仏






Por ocasião da cerimônia de Ohigan da primavera no Templo Marilia Shinsyu Hongwanji, gostaria de oferecer uma breve reflexão.


O Ohigan é um período especial para nós. Durante esse tempo, o fenômeno natural do sol nascendo no extremo leste e se pondo no extremo oeste nos oferece a oportunidade de refletir simbolicamente sobre os conceitos budistas de "Shigan" (este mundo) e "Higan" (o outro mundo). "Shigan" representa o mundo de ilusões e desejos onde vivemos, enquanto "Higan" simboliza a iluminação, a paz e o mundo de Buda.


O templo Shitennoji, em Osaka, foi fundado pelo Príncipe Shotoku em 593 e é considerado o templo mais antigo do Japão. O "Portão Oeste" (Seimon) deste templo está associado ao pensamento Jodo (Terra Pura), refletindo a ideia de que "da Terra Pura está no oeste". Este portão também é chamado de "Portão do Terra Pura" e é considerado a entrada para a Terra Pura. Durante o período do Ohigan, o sol se põe diretamente no oeste, sendo um momento simbólico em que estamos mais próximos da Terra Pura. Por isso, esse período se tornou uma época para expressarmos gratidão aos nossos antepassados e praticarmos o caminho do Nirvana (despertar).


Durante o Ohigan, somos encorajados a refletir sobre nossas ações e nosso estado de espírito à luz dos ensinamentos das Seis Paramitas (virtudes transcendentes). Praticar a generosidade, a moralidade, a paciência, a diligência, a meditação e a sabedoria é o caminho que nos liberta das ilusões e nos aproxima do Higan. Contudo, essas práticas não precisam ser grandes gestos. Pequenos atos, como demonstrar compaixão pelo próximo, controlar a raiva ou realizar boas ações simples no cotidiano, podem purificar nossos corações e nos guiar no caminho da iluminação.


Especialmente no Ohigan da primavera, é a época em que o inverno chega ao fim e a vida renasce. Nessa transformação da natureza, devemos também renovar nossos corações e nos alinhar aos ensinamentos de Buda.



Durante o período do Ohigan, somos encorajados a refletir sobre nossas ações e nossa atitude mental diária com base no ensinamento das Seis Perfeições (Paramitas). Entre essas práticas, o "Dana", ou seja, o ato de generosidade e a compaixão pelos outros, é uma prática essencial no caminho budista. Recentemente, tive uma grande lição sobre isso.


No templo que administro, trabalhamos há muito tempo para melhorar a acessibilidade, de modo que pessoas que usam cadeiras de rodas possam vir visitar e participar dos eventos religiosos com mais facilidade. Recentemente, finalmente concluímos a construção de uma nova entrada adaptada, e muitas pessoas expressaram sua gratidão por isso. Contudo, ao refletir sobre o processo de conclusão desse projeto, percebo que foi o resultado da cooperação da comunidade local e dos membros do templo. Essa experiência me fez perceber novamente a importância do 'Dana'.


Construir uma entrada adaptada para cadeiras de rodas pode parecer um ato especial, mas na verdade, é o resultado da acumulação de pequenas boas ações cotidianas. Todos nós estamos envolvidos no vasto amor compassivo de Amida Buddha, e é importante que não nos esqueçamos dessa compaixão e que vivamos nossos dias com um coração cheio de gratidão e bondade para com os outros. Que neste período do Ohigan, possamos todos praticar atos de 'Dana', mesmo que pequenos, e cultivar em nossos corações a compaixão e o carinho pelos outros.


Na tradição do Jodo Shinshu, somos ensinados que já fomos salvos pela compaixão infinita de Amida Buddha. Não precisamos realizar atos extraordinários para alcançar o Higan, pois já estamos envolvidos pela vasta misericórdia de Amida. Contudo, é importante viver cada dia com gratidão, sem esquecer dessa compaixão.


Neste período do Ohigan, que possamos olhar para dentro de nós mesmos e cultivar o espírito de compaixão e gratidão em nossas relações com os outros. Que possamos juntos recitar o Namu Amida Butsu com o coração cheio de reverência e fé.


Gassho, Namu Amida Butsu.







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2024/09/28

アントニオ猪木のドキュメンタリー映画の撮影隊がブラジル・マリリア真宗本願寺に来た時の撮影風景。映画ではカットされたらしい。ある意味貴重です。(4K)

以下に、インタビュー形式で問答ごとに区切り、明らかな間違いを前後の文脈から推論して正しい日本語に修正しました。オリジナルの文章を尊重しつつ、構成しやすいようにしています。


元の映像はyoutube2023年に映画撮影でマリリアに来た撮影隊にインタビューされた内容をまとめたものである。

https://youtu.be/yYn0lDPI7sk?si=1OQoRSwAl0Aa9R-2



インタビュアー:「本日はどうもありがとうございました。では、少しこの状態でお話を伺います。まずお名前と年齢を教えてください。」


中村さん:「中村喜夫(なかむら よしお)、83歳です。」


インタビュアー:「いつからブラジルに来ているんですか?」


中村さん:「僕はマリリア生まれです。マリリアで生まれました。」


インタビュアー:「はい、こちらで生まれたんですね。今はどんな仕事をしているんですか?」


中村さん:「もう引退していますからね、何もやっていないですね。」


インタビュアー:「元々こちらではどんなお仕事をしていたんですか?」


中村さん:「そうですね、26歳まで田舎にいました。」


インタビュアー:「はい。このお寺ではどんなお仕事をされていたんですか?」


中村さん:「お寺でね、約14年間、会長を務めたんですよ。今年も役員の選挙をして、まあ、あと続けてやってくれる人が多いということで、それでも会長の代わりになったからね。まあ、会長としての責任はちょっと軽くなったけど、少し気楽になりました。」


インタビュアー:「お寺の会長はどんなことをされているんですか?」


中村さん:「お寺の協会の会長ですね。いろんなその寺の催し物、例祭とか、盆踊りとか、そういういろんな祭りや行事をやったりしてね。毎年、何月頃それをやるか、そういうものを決めるわけですよ。自分が言い出さなかったらね、もうやらないですから。みんながやろうって言ったら、それをやるように決めるわけですね。」


インタビュアー:「そして、先生が今のところ宗教の方で、先生の奥さんが初期宗教の方に職任持ってセクレタリーをやってくれましたよね。」


中村さん:「ええ、僕はもう今年から副会長だからね、あんまり大きな責任を少しは逃れて、少し気楽になったと思います。」


インタビュアー:「ここは本堂で、後ろに立派な仏像がありますけども、ここはマリリア本願寺ですか?」


中村さん:「ここはね、本当はマリリア真宗本願寺、東本願寺ですね。昔はマリリア本願寺って言ってたんだけど、そしたら本派本願寺、西本願寺が別に分かれて、ここに元々の寺を建てて、その向こうに新しいお寺を作った人がたくさんいるんです。それに協力して。」


インタビュアー:「ブラジルにはこういったお寺が多いんですか?」


中村さん:「そうですね、でもあんまり日本人が定住しても、その後移転して他の町行ったり、他の州に行ったりって、それで減っていったらまあパターンでもあるしね。反対に増えていくところもあるからね。だからブラジルではあんまりその街に住んで、いつまでも一緒に、親の代から2代も3代も続けることが少ないね。みんな、やって息が続けなかったらそれで終わりになる。でもそこは寺になったり、そういうことでやっぱり自分の好きなことをしていくからね。」


インタビュアー:「そういった中で、そのエスペランサの生活というのはどういったきっかけで始まったんですか?」


中村さん:「はい、百姓をやっていて、26歳まで田舎でね。で、百姓やっても、このブラジルでは、作物がたくさん取れた時には値段が下がる。で、不作であまり取れないと値段が上がる。だからね、とてもやりにくいんです、ブラジルは。その政府の保証がない、ガランチア、保証しないとね。来年はどうなるかわからない。今年はいくら値段が良くても、全然、その時の状況でなかったらバカみたいに値段が下がるし、たくさん取れたらもう3分の2に下げられるからね。そういうことばっかり続いた。で、百姓いつまでたっても、まあ、何も儲けがないわけですよね。だから、そういうことで百姓をやめた人がほとんど、みんな田舎でもね。」


インタビュアー:「はい、ありがとうございます。そういったエスペランサの生活の中で、別府さんと出会ったと思いますが。」


中村さん:「ええ、まあ、完ちゃんはね、田舎にいる時に、いろいろな青年同士で知り合いだったからね、友達となって。完至さんの兄貴、快守さんが僕は一番ね、いつも年が近いしね。僕と完至さんはまだ年が下でね。」


インタビュアー:「中村さんと完至さんの年齢の差は、完至さんが下だったんですか?」


中村さん:「だいぶ下ですよ。ええ、僕が18ぐらいの時、まだ確か16ぐらいだった。3つぐらい違うでしょ。今何歳で亡くなったか僕は知らないけど。」


インタビュアー:「何て呼んでたんですか、完至さんのことを。」


中村さん:「僕らは完至さんでいつも呼んでたんですよ。あの完至さんのお母さんのね、文子さんって、母ちゃん、母ちゃんらが母さんで呼んでました。」


インタビュアー:「当時の完至さんの印象、思い出とかあれば。」


中村さん:「まあ、あの円盤投げとか槍投げ、砲丸投げの陸上競技をしていて、そして体で足を鍛えるんだって、あの鉄の下駄履いてね、鉄の下駄をこう歩いても、僕らが履いて歩いてもね、足が上がらない、鉄だからね。そのくらいの努力をね、やってたよね、完至さんがね。それから、あの空手の、自分の兄貴2人が空手だからね、空手の練習もやってるからね。」


インタビュアー:「当時から体を鍛えてたんですね。」


中村さん:「はい、体を鍛えてたんですよね。鍛えることが好きだからね、やっぱり体を鍛えて。そしてちょっとしたら、あの日本から力道山がちょっと周りに来てから、三沢のね、連れて行ったんですよね。」


インタビュアー:「それから力道山に仕込まれた。」


中村さん:「そうですね。」


インタビュアー:「出会って日本に一緒に行ってましたか?それこそマリリアでも体を鍛えたとおっしゃいましたけど、プロレスはやりたかったんですか。何で鍛えてたんですか、完至さんは。」


中村さん:「はい、完至さんは何で体を鍛えてたんでしょう。まあ、だからその鉄の下駄、そして重いものをね、腕に持ってこういつもやってたよね。足に下駄を履いて、あの木でね、そして腕で重いものを一生懸命やって。プロレスやりたいとは僕らには言わなかったけどね、空手を一生懸命やってね。自分の兄弟が空手やってるから。」


インタビュアー:「力道山が来たとおっしゃってますけど、力道山のお話もされています。中村さんと完至さん、どういうこと、力道山の話までされたことありますか?」


中村さん:「力道山、でも力道山は僕は全然あったこともないけどね。まあ、来てるという話を聞いて、そしたら間もなく、あ、完ちゃん力道山が連れていったよって言われたけどね。それからまあ完ちゃんが日本にいた、頑張ったらいいなと思ってた。」


インタビュアー:「その後プロレスラーとしての完至さんの活躍は聞いてましたか?」


中村さん:「今ではだいぶ聞いたです。聞いた、こんなに行ってるなと思ってね。それで前にはやっぱりチャンピオンになってるからなあ。」


インタビュアー:「完至さんはエスペランサに来る前に移民契約でコーヒー農園で働いていました。その当初の移民の仕事って何てご存知ですか?」


中村さん:「それは僕は全然知らないですね。あのあそこの、メノコ、ダデンススタっていうところにあったんですよね。寺前、寺前ね。」


インタビュアー:「その時の生活はどうだったんですか?」


中村さん:「それはね、でもこっち、あのエスペランサに来てからの生活はみんなと同じような生活、みんなやってたですよ。」


インタビュアー:「その昔は大変だったみたいな話は聞きました。」


中村さん:「あ、昔はね、大変だったって言ったけどね。」


インタビュアー:「何か言ってましたか、完至さんは。」


中村さん:「はい、完至さんは何か言ってました、私のこと。別に文句は言わなかったけどね。」


インタビュアー:「でもまあいろんな空手とかそういうことに一生懸命だったね。」


中村さん:「ええ、あんまり百姓なんて続けるつもりはなかった。続ける気はなかったんですか?」


インタビュアー:「ええ、そうですね。エスペランサで何年かの農作物を作った後、サンパウロに行きましたけど、サンパウロに行く時は何かお話されました?」


中村さん:「それがね、サンパウロ入りで、あの快守さんとも全然話したことないんですよね。で、あの兄弟、宮子ちゃんとかあの良子さんが、でも全然話はないですよね。で、あの一番目の兄さんが、あれが空手の先生、空手の道場を開けて、ね、なんか。」


インタビュアー:「完至さん家は引っ越してきた時に中村さんからいろいろ農作物の作り方とか農業のやり方を聞いたって言ったんですか?」


中村さん:「まあそれはね、僕らできる範囲、この百姓のことだからね、あんまり。でもちょっとしたことでね、やっぱりだいぶそれはやり方がちょっと悪かったら、まあ植えたもんですから、ちゃんと草に負けないようにね、草取りちゃんとするように、あんまり草が生えないように。そういう準備がね、やっぱり蒔いた時からの準備がね、あるんですよね。それをしなかったらこう蒔いたもん、豆だとか綿を植えて草が一緒に生えたんじゃ、もう草取りに追われて、そして物にならんですよね。そういうところをまあ僕らに、あの快守さんがいつもね、『良さんどうやったらいいか』って言ったら、こういう風に蒔いてね、先にこう耕して草がないようにして、そして植えたらいいってね。そういう風に、まあいろんなそんな簡単なことだけどね、ちょっと言ったらやっぱりそれで本当に違ったんですよ。最初の1年はもう本当に草に追われてね、あの忙しいばかりでね。2年目には良かった、ちょうど少し値段も良かった。だからね、それでちょっとはなんか、その綿とかみんな実になり。」


インタビュアー:「農作物を作る時の完至さんは何をしてましたか、仕事として。」


中村さん:「まあ田舎ではね、あれブラジルではまあみんなその、エンシャーダ、こうね、あれでこう草かき。それで、あの快守さんはこう馬でね、いろいろ馬でも使って、あの耕すのも間をこう取りして。」


インタビュアー:「ね、17歳、完至さんは17歳で先ほどおっしゃったように日本に行きました。」


中村さん:「うん、だから、後に来た時は後だったよね、確か年です。」


インタビュアー:「へえ、完至さんが日本に帰ってプロレスラーとして活躍する、ここまで活躍すると思われてましたか?」


中村さん:「ええ、まあそれはいい体してるからね、どこまで行くかわからんけど、まあいいとこ行くだろうと、いつも応援しとったよね、『頑張ったら』って言ってね。でも日本に行くのが決まったからね、あんまり話する間もなかった。」


インタビュアー:「あの今日一緒にエスペランサの場所聞きましたけど、あそこの生活が日本での完至さんの成長、人生に関わってると思いますか。」


中村さん:「まあ、なんだかね、あのには、まあ食べることも、まあ、あの人、肉が好きでね。ここはあの豚の脂をね、こう生の刺身みたいにして食べたから、いつも食べようなんです。」


インタビュアー:「はい、普通は食べないですか。」


中村さん:「普通は食べない、食べなかったね、ここは。まあ生だったら魚ならね、刺身はいけるけど、あまり食べる機会はない。でも完至さんは豚肉をね、豚の脂が好きで、そればっかり食べている感じ、あの完至さん。ね、まあそういったのが成長に繋がった。」


インタビュアー:「はい、これで終わりました。ありがとうございました。」


中村さん:「はい、以上です。ありがとうございました。」


インタビュアー:「はい、どうもありがとう。じゃああと今だったら少し写真を撮らせていただければと思います。」



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参考リンク

https://www.brasilnippou.com/2022/221104-41colonia.html#google_vignette


特別寄稿=ブラジル移民、猪木寛至の3年間=燃える闘魂の原点ここに=スポーツライター·沢田啓明


2022114

 

1960年4月6日のサンパウロ新聞

 日本時間の10月1日午前7月40分(ブラジル時間の9月30日午後7月40分)、燃える闘魂と呼ばれたアントニオ猪木がこの世を去った。享年79歳。この数年間、「全身性アミロイドーシス」という難病と闘い続けた。次第に痩せ衰えていく姿を動画で公開しながらの、壮絶な死だった。
 亡くなってからすでに約1カ月が経過したが、日本では彼を追悼するテレビ番組や記事が後を絶たない。いかにこの男が影響力を持っていたか、人気が高かったかを改めて思い知らされる。
 10月13日、東京で家族だけの通夜が営まれた。翌14日には都内の斎場で告別式が行なわれ、現役やOBの大物プロレスラーらが大勢集まって棺を担いだ。
 今後は、早ければ年内にファンのための「お別れの会」が催される予定で、数万人が直接猪木に別れを告げることになりそうだ。
 アントニオ猪木こと猪木寛至は、1943年2月20日、横浜市鶴見区で11人兄弟の9番目(6男)として生まれた。
 父親は石炭問屋を営んで繫盛し、一時は横浜市の市会議員も務めた。しかし、燃料の主力が石炭から石油へ移行して会社が倒産。寛至が5歳のときに病死した。
 1954年2月19日、つまり11歳になる前日、寛至は近所の家のテレビで力道山と木村政彦がシャープ兄弟と対戦した日本初のプロレス国際試合を見た。力道山の強さとカッコよさに興奮してプロレスラーに憧れる一方、亡き父のような実業家、政治家にもなりたいと考えた。
 彼が14歳のとき、兄の一人の発案で、一家はブラジルへ渡ることになった。当初は移住するつもりはなく、数年間働いて金が貯まったら日本へ戻るつもりだった(これは、当時の大多数の移民と変わらない)。
 猪木一家を乗せた「さんとす丸」は、1960年2月初めに横浜港を出て、パナマ運河を通過し、約1カ月半の航海の末にサントス港へ到着。列車でサントスからサンパウロのルス駅へ到着し、別の列車でサンパウロの北西約500キロのリンスへ着き、そこからさらにトラックの荷台に乗ってファゼンダ・スイッサ(スイス農場)へ到着した。一家は、この農場主と1年半の労働契約を結んでいた。

 

妹の佳子さん

 あてがわれた家は、家畜小屋に近かったという。トイレもなく、野原に土を掘って用を足し、排泄物はそこへ埋めた。当時を振り返り、妹の佳子さん(当時10歳。現在、サンパウロ在住)は、「こんなところに長く住めるのかしら、とすごく不安だった」と述懐する。
 翌日から、朝5時に起床し、徒歩で近くのコーヒー園へ行き、酷暑の中で夕方までコーヒー摘みに従事する日々が始まった。
 コーヒーの実は固く、もぎ取るのは容易ではない。軍手をはめていてもすぐにボロボロになり、やがて手が血だらけになった。
 当時を振り返って、佳子さんは「兄たちはコーヒー園で一日中働き、母や私たち女性は食事の世話や洗濯を担当した」と語る。そして、「一日の労働を終えると、兄たちのシャツには汗が大量に沁み込んでいた。汗の塩気でシャツが固まり、縦にすると床に立つんです。大変な重労働でした」と証言する。
 猪木家と同じ「さんとす丸」でブラジルへ渡り、同じ「ファゼンダ・スイッサ」で働いた人がいる。静岡県出身の片山芳郎さんで、当時17歳だった(現在はアチバイア在住)。
 「仕事は本当にきつかったし、生活も厳しかった。でも、我々は契約に縛られており、農場の警備員が銃を持って見張っているから、脱走もできない。まるで奴隷のような日々だった」
 「寛至は当時から大柄で、よく働いていた。あの厳しい労働をしたから、体力と根性がついたのだろう」
 「日曜だけは休みだった。娯楽が他になかったから、寛至とは相撲を取ったり、空手家の彼の兄から一緒に空手を習ったりした」
 1年半の契約期間が満了すると、猪木家は「ファゼンダ・スイッサ」を出た。リンスの南約70KMにあるマリリアの郊外に土地を借り、小作農となった。
 最初の年は綿花を作ったが、栽培の方法がわからず失敗した。しかし、次の年に落花生を栽培して成功。ここで1年余り働き、稼いだ金で一家はサンパウロに家を買った。1959年、寛至が16歳のときだった。
 「私たちは横浜育ちで、田舎での生活に馴染めなかったので、サンパウロへ出ることにしたんです。兄たちは、知人の紹介でサンパウロ市の青果市場(現在もサンパウロの中心部にある)で働くことになった。穀物などが入った重い袋を運ぶ肉体労働です」(佳子さん)
 日本人移住者の多くが農業に従事していたこともあり、市場では大勢の日本人や日系人が働いていた。
 猪木は非常に大柄で力が強く、よく働いたので市場ではかなり目立つ存在だったという。
 そして、兄の一人が陸上の長距離選手だったことに影響を受け、砲丸投げ、円盤投げ、やり投げなどの投擲競技を始めた。一人で黙々と練習をしていると次第に記録が伸び、日系人の陸上大会で優勝。さらには陸上のブラジル選手権にも出場して好成績を収めた。
 一方、日本では力道山が国民的英雄となり、プロレスが大変な人気を博した。
 力道山は、1958年にブラジルで興行を打ち、サンパウロ市内とサンパウロ州の日系人が多く住む町を巡回して大勢の観客を集めた。そして、1960年3月、再びブラジルで興行を行なった。そして、日本へ帰国する直前に猪木のことを知り、弟子にして日本へ連れて帰った。
 コンゴーニャス空港で帰りの飛行機に乗る直前の力道山と猪木の写真が、パウリスタ新聞とサンパウロ新聞に掲載されている。
 17歳の猪木は、当時35歳の力道山より背は高いが体の線が細い。表情も幼い。力道山は「鍛えれば、一流のレスラーとして檜舞台に君臨できる。私の後継者として養成したい」と語っている。
 とはいえ、いくら体格が良くても格闘技の経験はほとんどなかった少年だ。実際のところ、力道山にとっては海のものとも山のものともつかない新弟子の一人にすぎなかったのではないか。
 しかし、その後のアントニオ猪木の活躍は日本人なら誰でも知っている。恩師力道山の期待を遥かに上回る偉大なレスラーとなった。

 

一族でパラオへ旅行した際の写真

 日本のプロレス界有数のスターとなってからも、猪木は妹ら親族や親しい友人がいるブラジルを毎年のように訪れ、政財界の人々とも交流を持つなど、生涯を通じてブラジルと深く交わった。
 アントニオ猪木がブラジルに住んだのは、わずか3年だった。それでも、彼のレスラーとして、また人間としての原点がブラジルでの少年時代にあったのは間違いない。
 このことを、我々ブラジルに住む日本人は大きな誇りとしていいのではないだろうか。



参考2

https://news.goo.ne.jp/article/shueisha/sports/shueisha-162154.html




きょうだいだけが知るアントニオ猪木


9月12日には菩提寺の横浜市鶴見区の総持寺で新日本プロレスの坂口征二相談役ら関係者120名が参列し、猪木さんの一周忌法要が営まれた。法要後には改修した猪木家の墓所に建立した「ブロンズ像」の除幕式が行われ、参列者はそれぞれ猪木さんの雄姿に手を合わせた。


法要、除幕式には、猪木さんの兄・康郎さん(98歳)、妹の佳子さん(76歳)、弟の啓介さん(75歳)が参列した。11人きょうだいの6男だった猪木さんは、14歳を迎えたばかりの1957年3月に祖父・相良寿郎さん、母・文子さん、そして7人のきょうだいと共に横浜港から船に乗ってブラジルへ移住した。



 

写真左から兄の康郎さん、妹の佳子さん、弟の啓介さん。一周忌の法要にて



1948年2月に石炭商だった父・佐次郎さんが急逝した一家にとって、ブラジルに新たな生活の場を求めた末の移住だった。しかし途中、パナマ運河で祖父が急逝する悲劇に見舞われる。このブラジルへの移住を猪木さんと共に体験したのが佳子さんと啓介さんだった。


最初に暮らしたのは、サンパウロ州の南西部に位置する都市、リンス。ここで一家は、珈琲農園に住み込み、豆の収穫などの労働に従事した。啓介さんが当時を振り返る。


「毎日、朝5時に農園を管理する監視者に鐘を鳴らされて起こされるんです。そこから食事をして8時間、農園で労働です。豆の収穫は素手でやるんです。だからすぐに掌は血がにじんでね。そのうちマメができて痛みなんかなくなります」


中でも過酷だったのは、背丈ほどに伸びた雑草を刈る作業だった。


「大きな鎌で雑草を刈り取るんですが、これを引くのがとてつもなく重くてね。今、思い出してもつらい作業でした」(啓介さん)


そんな過酷な労働の中で思い出す猪木さんの姿は「黙々と仕事をしていました。兄は、当時ですでに身長180センチ以上あってきょうだいの中でも群を抜いて体が大きかった。ですから、物を運ぶのも誰よりも重い物を持たされるんです。だけど嫌な顔をひとつせず、黙って仕事をしていました」と目をうるませた。


そして「雑草を刈り取ったり、荷物を運ぶことで自然とあの頑丈な体が作られたんだと思います。兄の肉体を築いたベースは、まさにあのときの労働あったと私は思っています」と話した。



毎日2時間、暗闇の中で砲丸を投げる猪木


珈琲園では、男は労働し、母・文子さんら女性は、家事などで生活を支えたと佳子さんが振り返る。


「厳しい仕事が終わった後も寛至兄さんが泣き言を漏らしたことなんかありませんでした」


プロレスラーとしての言動から、一般的に猪木さんには“過激さ”を思い浮かべるが、妹の佳子さんは真逆の印象を抱いているという。


「子供のころから兄さんは、とてもおとなしくて口数が多い人ではありませんでした。穏やかでおとなしい兄でした。よく歌を口ずさんでいました。歌っていたのは日本の唱歌です。『荒城の月』なんかよく歌っていましたよ」


きょうだいは夜になると、兄の寿一さんは空手、快守さんはランニングなど、それぞれの趣味に没頭した。その中で猪木さんが取り組んだのが砲丸投げ、円盤投げ、やり投げといった投てき競技だった。電灯などない真っ暗闇の中、猪木さんは毎日、1~2時間ほど砲丸を投げ続けたという。練習には啓介さんが付き合った。


「明かりがありませんから、私がランプを持って兄を照らすんです。そして、砲丸を投げると私がランプの明かりを頼りに砲丸を探して兄に渡しました。そんな練習を毎日、2時間ぐらい繰り返していました。農園での労働と同じように黙々と夜空に向かって投げ続ける兄の背中を今も憶えています」(啓介さん)



 

弟の啓介さんと妹の佳子さん



リンスの珈琲農園での労働は、1年ほどで引き上げ、一家は新たに同じサンパウロ州の南東部に位置するマリーリアに移住し、今度は自ら綿の栽培に着手する。しかし、これが失敗。代わって手掛けた落花生の栽培が大当たりし、ようやく生活は軌道に乗った。このマリーリア時代に佳子さん、啓介さんが共に思い出す猪木さんの姿は、「馬」だった。


「落花生を馬に乗せて運ぶんですが、寛至兄さんは背が高かったから馬に乗ると足が地面に着いてしまうんです。その馬が小さかったのかもしれませんが、それぐらい兄さんの体は大きかったなぁって思い出します」と2人は微笑んだ。


落花生で成功した一家は、1960年から大都会サンパウロに移り、青果市場で働くことになる。そのころ、猪木さんはブラジル在住の日本人を対象にした陸上競技大会に出場し、砲丸投げで優勝する。これが日系人向けの新聞で報道され、ブラジル遠征中の力道山にスカウトされ、4月に日本へ帰国することになった。



「私にとって『アントニオ猪木』と『猪木寛至』は違うんです」


「ブラジルへ行く前から『レスラーになりたい』と兄は言ってましたから、迷うことなく力道山についていきました。家族も反対することなくみんな背中を後押ししました」と啓介さんは当時を振り返る。


そして猪木さんは1960年9月30日にプロレスデビュー。以後の活躍は、誰もが知る通りだ。



 


猪木家のきょうだいは、日本へ帰国する者もいたが、佳子さんはブラジルに残り結婚。2人の子供をもうけ、今もサンパウロに住んでいる。

2019年8月27日に猪木さんは田鶴子夫人と死別。それからほどなく猪木さんも難病「心アミロイドーシス」に冒されていることを公表した。晩年、猪木さんは毎日のようにサンパウロの佳子さんへ電話をかけていたという。


「話す内容は、『元気にしてる?』とかとりとめもないことでした。ただ、兄さんと話すと必ずあの農園で働いていた時代のことを互いに思い出すんです。あのときはものすごく苦労してつらかったんですけど、きょうだいみんな仲良くて一致団結して働いていたんですね。たぶん、兄もあの時代のことが懐かしかったんだと思います」


自ら、ブラジルは「俺の原点」と言った猪木さん。佳子さんとの電話は、人生の礎を育んでくれた広大な大地へ思いを馳せる時間だったのかもしれない。亡くなる3か月前に佳子さんはいつもの電話で猪木さんの異変を悟った。


「こっちの時間で夕方の3時に電話が来たんです。12時間の時差がありますから日本は午前3時。こんな深夜になんで電話を、と胸騒ぎがしたら兄が『つらくて眠れないんだ』と漏らしました。兄の弱音をこのとき、私は初めて聞きました。よほど体がつらいんだろうなと悟りました」


そして、亡くなる1週間前の電話が最後となった。


「テレビ電話だったんですけど、ベッドに横たわりながら、周りにはいろんな差し入れがありました。『こんなにいろいろあっても食べられないのにな』と言っていました」


2022年10月1日、猪木さんは79歳の生涯に幕を閉じた。


佳子さんは打ち明けた。


「私にとって『アントニオ猪木』と『猪木寛至』は違うんです。プロレスラーとしての兄は、いつも周りに大勢の人がいて何か遠い存在になってしまったと感じていました。だけど、きょうだいだけになると『猪木寛至』に戻るんです。私にとっての兄は、あの穏やかで優しい姿なんです」


猪木さんはブラジルの珈琲農園で「荒城の月」を口ずさんでいた。


「むかしの光 いまいずこ」


迎えた一周忌の10月1日。猪木さんの「光」を多くの人々が探し求める時間になるだろう。


取材・文・撮影/中井浩一



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