2023/02/23

ポルトガル語教室 『ブラス・クーバスの死後の回想』を読む-3 1. O EMPLASTO・貼り薬 MemóriasPóstumas deBrás CubasMACHADO DE ASSIS

  • 2023/02/22

ポルトガル語の授業の様子です。YouTubeで先生の授業を録画させてもらっています。予習復習を少しノートにしているので貼り付けていますが、間違えもあると思います。ノートは正解ではなくあくまでも学習過程の様子なのでその点ご注意ください。



2. O EMPLASTO


Com efeito, um dia de manhã, estando a passear na chácara, pendurou-se-me uma ideia no trapézio que eu tinha no cérebro. Uma vez pendurada, entrou

a bracejar, a pernear, a fazer as mais arrojadas cabriolas de volatim, que é possível crer. Eu deixei-me estar a contemplá-la. Súbito, deu um grande salto, estendeu os braços e as pernas, até tomar a forma de um X: decifra-me ou devoro-te.


Essa ideia era nada menos que a invenção de um medica- mento sublime, um emplastro anti-hipocondríaco, destinado a aliviar a nossa melancólica humanidade. Na petição de privilégio que então redigi, chamei a atenção do governo para esse resultado, verdadeiramente cristão. Todavia, não neguei aos amigos as vantagens pecuniárias que deviam resultar da distribuição de um produto de tamanhos e tão profundos efeitos. Agora, porém, que estou cá do outro lado da vida, posso confessar tudo: o que me influiu principalmente foi o gosto de ver impressas nos jornais, mostradores, folhetos, esquinas, e enfim nas caixinhas do remédio, estas três palavras: Emplasto Brás Cubas. Para que negá-lo? Eu tinha a paixão do arruído, do cartaz, do foguete de lágrimas. Talvez os modestos me argúam esse defeito; fio, porém, que esse talento me hão de reconhecer os hábeis. Assim, a minha ideia trazia duas faces, como as medalhas, uma virada para o público, outra para mim. De um lado, filantropia e lucro; de outro lado, sede de nomeada. Digamos: – amor da glória.

Um tio meu, cônego de prebenda inteira, costumava dizer que o amor da glória temporal era a perdição das almas, que só devem cobiçar a glória eterna. Ao que retorquia outro tio, oficial de um dos antigos terços de infantaria, que o amor da glória era a coisa mais verdadeiramente humana que há no homem, e, conseguintemente, a sua mais genuína feição.

Decida o leitor entre o militar e o cônego; eu volto ao emplasto.







貼り薬


ある日、私が庭園を散歩していると、脳内にある空中ブランコにアイデアがぶら下がってきました。ぶら下がっていると、ラテン語で最も驚くべき前転をしたりしていました。私はそれを見守っていました。突然、彼女は大きく跳び上がり、腕と足を伸ばしてXの形を取った。「私が出す謎を解け、さもないとお前を食う」という意味である。

 そのアイデアは、超一流の薬剤である、抑うつ症状に効く貼り薬の発明であった。当時私が書いた特許申請書には、この本当にクリスチャンな結果について政府に注意を喚起した。しかし、私は友人たちに、このような深刻な影響を持つ商品の配布によって得られる金銭的利益を否定しなかった。しかし、今、私がこの世界の反対側にいるので、すべてを告白することができる。私を最も影響したのは、新聞、看板、パンフレット、コーナー、そして薬箱にこれらの3つの単語が印刷されるのを見る楽しみであった。「Emplasto Brás Cubas」。隠さないでおこう。私は騒音、ポスター、涙の花火の情熱を持っていた。謙虚な人々にはこの欠点を指摘されるかもしれないが、有能な人々は私の才能を認めてくれるだろう。つまり、私のアイデアには、メダルのように2つの顔があった。一方は、公衆のための慈善活動と利益、もう一方は、名声のための渇望。言い換えれば、名声への愛。

私の叔父である完全な予算のカノンは、世俗的な名声への愛は魂の失墜であるとよく言っていた。魂は永遠の名声を追求すべきであると。しかし、もう一人の叔父は、古い歩兵の一隊の軍人で、世俗的な名声への愛は人間にとって最も真に人間的なものであり、したがって最も本来的な特性であると主張した。

読者は軍人とカノンの間で判断することができる。私は貼り薬に戻ります。



emplastro - 貼り薬

trapézio - トラペーズ

cérebro -

vo-latim - ラテン語で話す

ideia - アイデア、考え

aliviar - 和らげる、軽減する

humanidade - 人類、人間性

privilégio - 特許、特権

pecuniárias - 金銭的な、経済的な

vantagens - 利点、メリット

resultado - 結果、成果

amigos - 友人たち

jornais - 新聞

folhetos - パンフレット

caixinhas - 箱、小箱

paixão - 情熱、熱中

arruído - 騒音、大騒ぎ

cartaz - ポスター、広告

talento - 才能、能力

glória - 栄光、名誉


"pendurou-se-me uma ideia no trapézio que eu tinha no cérebro" - この文での構文は「Dativização」です。つまり、動詞 "pendurar" が目的語 "ideia" をとり、そのあとに間接目的語 "me" が来て、最後に主語 "eu" がきます。つまり、直訳すると「アイデアが私の脳にあるトラペーズにぶら下がりました」となります。


"Uma vez pendurada, entrou a bracejar, a pernear, a fazer as mais arrojadas cabriolas de vo- latim, que é possível crer." - この文での構文は「Gerúndio」です。つまり、動詞の後に "-ando" "-endo" などの接尾辞をつけることで、動作や状態が継続していることを表します。この文では "pendurada" に対して "entrou a bracejar" などの動詞が続いているため、"ideia" が脳に浮かんだ後、そのアイデアがどんどん展開されていることを表しています。


"Agora, porém, que estou cá do outro lado da vida, posso con- fessar tudo" - この文での構文は「Subordinada adverbial temporal」です。つまり、時間や条件、原因などの意味を持つ副詞節が主節の前に来ることで、その副詞節が主節の意味を補完する構造です。この文では、「今では、生きているうちには言えなかったことを告白できる」という意味で、"que estou cá do outro lado da vida" が主節の前に来ています。



「ブラジル・シュウちゃんねる」


2023/02/18

今月の言葉 2月 「失ったものを数える人あり 与えられたものに感謝する人あり」

 失ったものを数える人あり
与えられたものに 感謝する人あり


ポルトガル語


Algumas pessoas contabilizam as perdas, e outras agradecem o que recebem.

スペイン語

Algunas personas cuentan las pérdidas y otras agradecen lo que reciben.

 この言葉は一般的には、「失ったものにばかり目を向けて悲しんでいる人もいれば、与えられたものに感謝し喜ぶ人もいる」ということを表しています。つまり、同じ状況でも人によって捉え方が異なるということを示しており、前向きに物事を考えることが大切であるということを示唆しています。

しかし実際自分にコトが起こった時は「前向き(プラス思考)」ではどうにもならないことも多いのではないでしょうか?

私が小さい頃「sachiko 」という歌が流行りました。

「sachiko 」

ばんばひろふみ 

幸せを数えたら 片手にさえ余る
不幸せ数えたら 両手でも足りない
いくら心がキレイでも
醜いアヒルの子では嫌だと
泣いた夜さえ いつの日か
笑い話になるものさ
SACHIKO 思い通りに
SACHIKO 生きてごらん
それが悲しい恋でもいい
笑いかたも忘れた時は
思い出すまで そばにいるよ

この歌も最初は視点が変わる日が訪れると励ましてくれていますが、グッとくるところは「思い出すまで そばにいるよ」ではないでしょうか。見方をを変えようとしても変えることなんてできない悲しみに寄り添おうとする愛情が感じられます。

2番の歌詞も素敵です。

幸せを話したら 5分あれば足りる不幸せ話したら 一晩でも足りないSACHIKOと言う名は 皮肉だと自分に宛てた 手紙燃やして窓に額を 押し当てて家を出たいと つぶやいたSACHIKO 思い通りにSACHIKO 生きてごらん一人ぼっちの 旅でもいい倒れそうに 疲れた時は僕の両手に 戻ればいいさ

SACHIKO 思い通りにSACHIKO 生きてごらんそして心が 傷ついたなら泣きながら 帰っておいで僕はお前の そばにいるよSACHIKO 思い通りにSACHIKO 生きてごらんそして心が傷ついたなら泣きながら 帰っておいで僕はお前のそばにいるよSACHIKO 思い通りにSACHIKO 生きてごらんそして心が傷ついたなら...

一人ぼっちの 旅でもいい 倒れそうに 疲れた時は僕の両手に 戻ればいいさ
そして心が 傷ついたなら 泣きながら 帰っておいで 僕はお前の そばにいるよ

今月の言葉の背景には「寄り添ってくれる存在」があるのです。これがなければ、「視点を変えてみればどんな辛いことでも有り難く受け取れる」だから頑張れ。ということにもなりかねません。悲しいのはありがたいと思えないお前が卑しいからだ。ほら満足して頑張っている人もいるではないか。というほったらかしに転化してしまうのです。

失ったものを数える人あり
与えられたものに 感謝する人あり

浄土真宗でいう「与えられたもの」とは、どんな時も寄り添ってくれる仏様の慈悲のことを言います。

「ブラジル・シュウちゃんねる」



2023/02/15

2023年 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 2022年はコロナが徐々に緩やかになり

ここブラジルのマリリアのお寺にも、法要や法事が戻ってきた一年でした。元通りになった以上に法事を行う方々が増えた一年でもありました。

私自身は良くて以前の状態に戻ればいいという考えでしたが、逆に増えることになるとは思ってもみませんでした。

ところが実際には増え、今年2023年も増え続けている傾向にあります。その理由を尋ねてみると。 ChatGPTに聞いてみると・・・・


コロナ後にお寺の法事の件数が上がった理由は、以下のようなものが考えられます。

  1. コロナ禍での死者数の増加 コロナ禍において、感染症のために亡くなる方が増えたことが、お寺の法事の件数の増加につながった可能性があります。 この答えは私にはあまり関係がありませんでした。ブラジルでは亡くなった人はほとんど葬儀に僧侶を呼びませんし、ましてや仏式の葬儀を求める人はもともと少ないのです。  ただし、コロナ後、以前よりは葬儀に僧侶を呼ぶ人が増えたような気がします。

  2. 葬儀の制限 コロナ禍での葬儀において、参列者の制限や密集を避けるための措置がとられることが多かったため、葬儀に参列できなかった人々が、お寺での法事に参列する機会を求めた可能性があります。 これは実際にそういう方がおいでになりました。一理あると思います。

  3. 緊急事態宣言の影響 緊急事態宣言の発令により、人々が外出自粛することが求められたため、自宅で法事を行うことができなかった人々が、お寺での法事を希望するようになった可能性があります。

私もこの動機はあると思います。コロナでの悲惨な体験が法事の大切さを教えてくれたと思います。

  1. 身内への思い コロナ禍により、命の危険を感じるようになった人々が増えたことから、身内を大切に思う気持ちが強まったことが、お寺での法事の需要増加につながった可能性があります。

これは実際にそのようなことをおっしゃった人はないですが、私自身が法事の大切さを再認識しました。きっとご門徒方もそういう人が多かったと思います。

以上のような理由が考えられますが、地域によっては法事の件数が減少する傾向にあるところもあります。また、宗派や地域によっても状況は異なるため、一概には言えません。

以上がChatGPTのこたえです。

最後のまとめが秀逸ですね。ここマリリアのお寺では(今のところ)増えているのですが、今後はどうなるかは実際わかりません。 法話会の要望も増えているので今のところお寺はまだ地域の役割があるということを感じて嬉しく思っています。


なにより地元の役員やご門徒がコロナでの自粛中も頻繁にお寺に来てくれて世話をしてくださったのが嬉しかったです。 今後ともよろしくお願いいたします。













「ブラジル・シュウちゃんねる」

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