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2021/11/16

「私にとっての沖縄の学びとは」ポルトガル語翻訳付き  同朋大学名誉教授 尾畑文正

最後に私の感想も書いています。


「私にとっての沖縄の学びとは」

同朋大学名誉教授 尾畑文正

尾畑文正 同朋大学名誉教授





 今回が最終回となる。私にとって沖縄に真宗を学ぶことの意味を確認したい。私の課題は空理空論でなく現実に関わる真宗の教えに学ぶことである。親鸞聖人も現実を離さなかった。 『正信偈』には「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」とある。煩悩とは「煩は、みをわずらわす。悩は、こころをなやます」(唯心鈔文意)あり、私たちの生活そのものである。その現実の生活から生きることの意味を問う。それが浄土真宗である。

 それがなぜ沖縄であるのか。それは私の営みが沖縄の現実として表れているからである。沖縄の負の現実は沖縄の問題ではない。沖縄を構造的に差別する「私と私の世界」の歪みの問題である。そういう認識は歴史的事実であると共に、 『歎異抄』で「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は(略)そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまこと」と説く真宗の教えに繋がる問題である。

 沖縄はアジア・太平洋戦争では本土防衛の「捨て石」、敗戦後は二十七年間のアメリカの占領、その後は巨大な軍事基地を負わされ、生命と生活を脅かされ続けている。さらには辺野古に二本の滑走路を持つ軍事基地建設が行われ、ジュゴンの生活領域である辺野古沖も、サンゴ生育の大浦湾も、沖縄の美ら海は満身創痍である。それら一切は沖縄が望んだことではない。
 沖縄は「命こそ宝」の島である。その島を標的にして日米両政府が「軍事」の島を作り続けている。現在は与那国島、石垣島、宮古島なども軍備増強の渦中にある。軍事基地があるとは有事の際に最も攻撃を受ける場所となる。沖縄に対する「捨て石」は現在も継続している。この沖縄を犠牲にする構造的な差別に向き合い、どうすることが人間を回復する道であるのか私たちは問われている。その問いは真宗門徒として念仏もうすことと別のことではない。なぜなら南無阿弥陀仏は闇世を照らし出す光であり、私を真実の国に呼び戻す声である。だから南無阿弥陀仏と念仏もうすことは、自ら南無阿弥陀仏の名となって衆生を救わんとする阿弥陀仏の本願の心に出遇い、構造的差別に加担する我が身を知り、その本願の心に立ち返り構造的差別を克服する歩みを課題とすることである。



ポルトガル語はGoogle翻訳に私が少し手を加えました。正確ではない点をご了承ください。

Português é não certo uso tradução de google. 

 "O que estou aprendendo com Okinawa"


Professor Emérito da Doho University Bunsho Obata

    Este é o episódio final. Quero confirmar o significado de aprender o Budismo Shin de Okinawa para mim. Minha tarefa é aprender com os ensinamentos de Shinshu relacionados à realidade, não com a teoria aeroespacial. O Mestre Shinran também manteve a realidade. "Shoshinge" diz: “Sem extirpar as paixões, atingimos o Nirvana.” As paixões mundanos são "os desejos mundanos são problemáticos Vida de corpo . Os desejos mundanos são o sofrimento de coração" (YUISHINSYO MONI), que é a nossa própria vida. Pergunte o significado de viver dessa vida real. Esse é Jodo Shinshu.

    Por que é Okinawa? Isso porque minhas atividades se manifestam como a realidade de Okinawa. A realidade negativa de Okinawa não é um problema de Okinawa. É um problema de distorção de "eu e meu mundo" que discrimina estruturalmente Okinawa. Tal reconhecimento é um fato histórico, e o ensino do Budismo Shin, que prega em “Tanni Sho", "Entretanto, em minha natureza de homem vulgar carregado de paixões e neste mundo impermanente semelhante a uma casa incendiada, tudo é falso e mentiroso, nada é real. Só o Nembutsu é autêntico. “ É um problema que leva.

    Na Guerra da Ásia-Pacífico, Okinawa foi a "pedra abandonada" da defesa do continente, a ocupação dos Estados Unidos por 27 anos após a derrota, e depois disso foi infligida com uma enorme base militar, e a vida e a vida continuam a ser ameaçado. Além disso, uma base militar com duas pistas foi construída em Henoko, e a área de convivência dos dugongos perto de Henoko, a baía de Oura com cultivo de corais e o Churaumi de Okinawa estão cheios de ferimentos. Nenhum deles era o que Okinawa queria.

    Okinawa é uma ilha onde "a vida é um tesouro". Visando essa ilha, os governos dos Estados Unidos e do Japão continuam a criar ilhas "militares". Atualmente, a Ilha Yonaguni, a Ilha Ishigaki, a Ilha Miyako, etc. também estão no meio de um acúmulo de armamento. Ter uma base militar é o local com maior probabilidade de ser atacado em caso de emergência. "Pedras abandonadas" para Okinawa ainda estão em andamento.

    Nos perguntam qual é a forma de recuperar o ser humano enfrentando essa discriminação estrutural que sacrifica Okinawa. Essa questão não é diferente do Nembutsu como uma seita Shinshu. Porque Namu Amida Butsu é a luz que ilumina o mundo escuro e a voz que me traz de volta à terra da verdade. Portanto, Buda Namu Amida e Nembutsu são conhecidos no coração do Buda Amida, que está tentando salvar os seres senciente tornando-se o nome de Buda Namu Amida, e sabe quem está envolvido na discriminação estrutural. O desafio é voltar para o coração e superar a discriminação estrutural.


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ここからは私の感想です。

翻訳の難しさ

 沖縄別院東本願寺の発行する「ハイサイ沖縄」から引用させてもらいました。ポルトガル語に翻訳しましたが、グーグル翻訳を使って少し私のできる限りの訂正を加えています。『正信偈』と『歎異抄は』ブラジルにオフィシャルの翻訳本があるので正確ですが、『唯心鈔文意』はまだないのでGoogle翻訳を私なりに少し変えましたが難しかったです。
 その他「捨て石にする」など慣用句などは翻訳の難易度が一気に上がります、今朝生粋のブラジル人の青年に聞いてもらったらGoogleの翻訳のままでも文章の流れからわかるということでした。全体的にGoogleの翻訳能力は凄まじく進歩していますが、仏教用語の翻訳が完璧になるのはまだ数十年かかるのではないでしょうか?


沖縄思い出

 妻のファビアのおじいちゃん、おばあちゃんは沖縄移民です。3年前に彼女の先祖の生まれ故郷に行ってきました。とても感動的な旅になりました。
 そのときちょうど辺野古で埋め立て反対運動が行われていて、その現場に行ってきましたが、長い棒を持った逞しい警察が立っているのをみて、こういう警官の前で反対を叫ぶのは怖いだろうなと思いました。自分はできないだろうと思いました。
 また、沖縄を案内してくれたファビアの親戚の身近な人が埋め立て賛成の方だったので、表立って地元の賛成派の人と意見を交わす胆力もなく、「しかし、戦争は起こってほしくないですよね?」と言うことしかできませんでした。しかし賛成派も戦争を起こさないために基地が必要だと真剣に思っているのです。先の戦争で日本は正義のために戦ったのでしょうが、結果たくさんの庶民が命を落とし、悲惨な状況になったことを考えても武力ではなく、政治力、人間力を使ってこの世が平和になる方向へ世の中が動いてほしいと願っています。

 

2021/11/04

「幸せな人が 感謝するのではなく 感謝する人が 幸せてある」 ポルトガル語・スペイン語翻訳あり Não são as pessoas felizes que agradecem. As pessoas gratas que são felizes.

今月の法語


お寺の今月の法語


幸せな人が
感謝するのではなく
感謝する人が
幸せてある




もう11月になりました。毎月お寺の壁に「今月の法語」を書いています。以前にもブログに書いたような経緯で今年作ることができました。詳細は下のリンクからどうぞ。

ブラジルのお寺の掲示板の話 (破壊されにくいのがポイント)


今月の言葉はポルトガル語では

Não são as pessoas felizes que agradecem. 

As pessoas gratas que são felizes. 

となります。これは私の翻訳ではなく、オフィシャルの正式な翻訳です。もう一つスペイン語では・・・・

No es la gente feliz la que da las gracias. 

Es la gente agradecida la que es feliz.


となります。似てるけど違うんですよね。発音するともっと違いがわかりますよ。



世界の似ている言葉

今月の法語を読んで「あれ?聞いたことがあるな?」と思った方もおいでになると思います。たとえば・・・・


幸福だから笑うのではない。

笑うから幸福なのだ。


[E・アラン、エミール=オーギュスト・シャルティエ]

(19~20世紀フランスの哲学者、1868~1951)


有名ですね。上記の文章は要約したもので実際は『幸福論』にこう書いてあります。


 笑って楽しむ 

 喜びを呼び起こすには、はじめの合図のようなものが必要である。

  赤ん坊がはじめて笑うとき、その笑いはなにかを表現しているわけではない。幸せだから笑うのではない。わたしに言わせれば反対で、笑っているから幸せなのだ。食べて楽しむのと同じように、笑って楽しんでいるのである。 

 しかしそれにはまず食べてみなくてはならない。このことは笑い以外にもあてはまる。考えていることを知るためには、まずことばが必要なのだ。 (77 友情)



どうでしょう? 説明されるとわかったような気にもなりますが、なんだか難しくも感じますね。

喜びと言葉の関係を紐解くことで、心と身体が一つであることを教えていると思います。


日本にも古代からもっと簡潔な言葉があります。


笑う門には福来たる


もうこれでいいのではないかとも思いますね。

アラン風にいうと、

「福がきたから笑うのではない、笑うから福がくるのである」 

となるでしょうか?


ちびまる子ちゃんにも登場します。


幸せだから笑うんじゃないよ。

笑うから幸せになるんじゃ。


   (アニメ『ちびまる子ちゃん』)


 昔は日本ではおばあちゃんやおじいちゃんに、日常の生活の中でさりげなく教えられていた言葉なんですね。

そのおじいちゃん、おばあちゃんはお寺にもお参りして感謝の念仏をされていた人もいたのだと想像します。



 


 大切なのはこういう言葉は自分自身に刻むもので、他人に押し付ける言葉ではないという点です。

哲学者アラン自身も赤ちゃんの笑顔から教えられたことを表明しているので、決して「いつも笑いなさい」と言っているわけではないのです。

彼は第一次世界大戦前後の暗い世相の中、これらの言葉を発信しています。




 今月もお寺の塀に言葉を書いていたら近所のおじさんが「いつも美しい言葉をありがとう」と通りすがりに声をかけてくれました。お寺の向かいの子供も遊びに来て一緒にお掃除を手伝ってくれました。


お寺の掲示板が思った以上にコミュニケーションのきっかけになってくれています。ありがたいことです。





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ブラジル

マリリア真宗本願寺 東本願寺 





2021/10/30

口伝鈔 第13章 「蓮位房(れんに ぼう)夢想の記 」ポルトガル語、日本語原文 朗読動画あり。

今日のブログは毎日noteで更新しています。 たまにこちらのブログで宣伝をしています。


 Capítulo 13 

O registro das visões do sonho de Ren'i 


No nono dia do segundo mês na hora do tigre59 do ano 1256 em um sonho, Shaku Ren'i60, visualiza o príncipe Shōtoku proclamando um édito imperial. A forma nobre do Príncipe herdeiro apareceu na frente de Shaku Shinran e recitou o édito, respeitosamente prestando reverência ao Mestre. O édito dizia: "Eu presto reverência ao grande e amoroso Buda Amida. A fim de espalhar este Ensinamen- to maravilhoso, o Buda se manifestou em forma humana. Mesmo em meio aos tempos perversos das cinco impurezas em um mundo perverso, certamente o Buda alcançou a Iluminação mais elevada". Ao despertar desse sonho, Ren'i, especialmente honrado e mostrando reverência ao Príncipe Herdeiro, anotou esta passagem. 

Kakunyo observa: A isto eu digo, quando nós viramos as páginas deste registro de sonho, torna-se claro que nosso fundador Mestre Shinran emerge como a manifestação do Bodhisattva Avalokitesvara, apontando igualmente como manifestação do mestre original Amida. Embora os nomes Amida e Avalokitesvara se refiram ao mesmo corpo, nenhuma diferença existe entre eles. Em relação à transmissão e explicação dos pontos decisivos falados e por ele preservados entre as ramificações modernas de sua escola, seu ensino é absolutamente incomparável entre todos os ensinamentos budistas.  
Tomem nota cuidadosa sobre este ponto. 


59
Entre as 4 e as 6 horas da manhā " 

60
Discípulo erudito de Shinran, descendente do líder guerreiro Minamoto no Yorimasa


原文
蓮位房の夢想
(13)

一 蓮位房(れんに ぼう)[聖人(親鸞)常随(じょうずい)の御門弟、真宗稽古(けいこ)の学者、俗姓源三位 頼政卿順孫]夢想の記。
 建長八歳[丙辰(ひのえ たつ)]二月九日の夜寅時(とらのとき)、釈蓮位(れんに)、夢に聖徳太子の勅命をかうぶる。皇太子の尊容(そんよう)を示現して、釈親鸞法師にむかはしめましまして、文を誦(じゅ)して親鸞聖人を敬礼(きょうらい)しまします。その告命(ごうみょう)の文にのたまはく、「敬礼大慈阿弥陀仏 為妙教流通来生者(しょうじゃ) 五濁悪時悪世界中 決定即得無上覚也(や)」[文]。この文のこころは、「大慈阿弥陀仏を敬礼したてまつるなり。妙なる教(のり)流通のために来生せるものなり。五濁悪時・悪世界のなかにして、決定してすなはち無上覚(うえなきさとり)を得しめたるなり」といへり。蓮位(れんに)、ことに皇太子を恭敬(くぎょう)し尊重したてまつるとおぼえて、夢さめてすなはちこの文を書きをはりぬ。
 わたくしにいはく、この夢想の記をひらくに、祖師聖人(親鸞)、あるいは観音の垂迹(すいしゃく)とあらはれ、あるいは本師弥陀の来現と示しましますこと、あきらかなり。弥陀・観音一体異名、ともに相違あるべからず。しかればかの御相承、その述義(じゅつぎ)を口決(くけつ)の末流(ばつりゅう)、他(た)にことなるべき条、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)といひつべし。しるべし。


出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

蓮位房…
  蓮位の夢想は『御伝鈔』【四】にも記されている。(口伝鈔 P.895)
https://goo.gl/maps/YH2GMuUqDAcDH3nc6

稽古
けいこ
  学問をすること。 (口伝鈔 P.895)

建長八歳
けんちょうはちさい
  1256年。親鸞聖人84歳。「建…事」は包紙に別筆で記入。(口伝鈔 P.895,御消息 P.750)

寅時
とらのとき
   寅の時。午前四時頃。(正像 P.600, 口伝鈔 P.895, 御伝鈔 P.1044)


現代文
13


蓮位房 <聖人に常に随侍(ずいじ)の門弟で、真宗の学問を修めた学者である。俗姓は源三位(げんざんみ)頼政公(よりまさこう)の孫である>がみた夢の記。

  建長八年<丙辰(ひのえたつ)>二月九日の夜明け四時頃、釈蓮位(れんに)は夢の中で、聖徳太子のおおせをこうむった。皇太子の尊いお姿をあらわされて、釈親鸞法師にお向いになって、経典の文句をとなえられ、親鸞聖人にうやうやしく敬礼(きょうらい)された。その時お告げになった勅(みことのり)のお言葉には「大慈阿弥陀仏に敬礼したてまつる。妙教を流通するために来生された者である。五濁の(注1)悪時・悪世界の中にあって、断乎として、すなわち無上覚を得られたのである」とのべている。この勅(みことのり)の文の意味は、「大慈悲の阿弥陀仏を心から敬い礼拝したてまつる。尊い教えを世に広めるためにこの世に生れて来られた方で、五濁にまみれた穢れ多いこの時、この世界において、断乎として無上のさとりをえられた」というのである。蓮位(れんに)は、とくに皇太子を恭(つつし)み敬って心から礼拝をささげ奉った、と思ったところで夢がさめ、さめるとすぐにこの文章を書き終ったのである。

 ひそかにわたしの思うところでは、この夢の記の意とするところを汲みとってみると、祖師親鸞聖人があるいは観世音菩薩の垂迹とあらわれ、あるいは本師阿弥陀仏の来現を示しておられることが明らかである。阿弥陀仏と観世音菩薩とは一体で名が異なるだけであるから(注2)、ともに(注3)、間違いがあるはずはない。だから、聖人が承け伝えて、その義を述べられたのを、親しく伝えられた末流である以上、他宗と違っている点は他に比類がない、と言ってよいのである。よくこのことを知らなければならない。



五濁

濁は劣悪を意味する。飢饉・疫病・戦争などを含める劫濁、邪しまな思想や考え方が広まる見濁、煩悩がほしいままにされる煩悩濁、生を享けたものの資質低下を意味する衆生一濁、短命を意味する命濁の五である。時代がこうした状態になるのは末世と考えられている。



阿弥陀仏と観世音菩薩とは一体で名が異なるだけである……
不空訳の 『理趣釈』に「得自性清浄法性如来とは、これは観自在王如来の異名で、すなわちこれは仏としては無量寿如来と名づける。もし浄妙な仏の国土に現われたときは仏身と成り、雑染の五濁世界に住めば、すなわち観自在菩薩となる」(大正大蔵経一九・六一二上)と説いているように、早くからこの考えがあるが、源信の 『自行念仏問答』にこれを論ずる(大日本仏教全費三一・二一二下)ように、この思想は広く一般化したものと考えられる。


ともに
親駕が阿弥陀仏の化身でもあり、観世音菩薩の化身でもあるということを指す。


https://amzn.to/2Vp6yP0

歎異抄・執持抄・口伝抄・改邪鈔 (東洋文庫0033) Kindle版

親鸞 (著), 石田 瑞麿 (翻訳)

参考リンク

https://goo.gl/maps/YH2GMuUqDAcDH3nc6

http://www.zuikouji01.sakura.ne.jp/monngo/sinnrann/02nennpu/nennpu0730/1219/06reni/01.pdf


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2021/10/28

最終回 3、「宗教と差別」ジェアン哲慈 “Religião e Discriminação” Rev. Jean Tetsuji  

 今回はブラジルのお坊さんジアン哲慈さんのコラム第三弾を紹介いたします。
彼はレインボーサンガという宗派を超えて連帯し、差別をなくす運動をここブラジルで展開しています。
 僧侶になる前からエアーフランスの客室乗務員をなさっています。そのジアンさんが、サンパウロ別院の発行しているお便りに、差別と宗教というテーマで連載を始めました。

 ブラジルの現在のお坊さんは、この現代社会においてどのように仏教を学び、発信しているのでしょうか? このコラムを読めばその一端がわかると思います。
ポルトガル語の勉強にもなると思います。ぜひ読んでみてください。 
連載です。

ブラジルの別院サイト・オフィシャル

(過去の別院だよりも、このサイトにあります)

Rainbow Sangha - Budismo LGBT+

ブラジルの差別に反対するサイトです


「宗教と差別」  3   

                                ジェアン哲慈 ブラジル僧侶


 皆さん、こんにちは。お元気ですか。年末も近づき、真人先生が提案された最後のコラムとなりました。様々な社会の中で共に暮らすためには、差別について常に考え、継続的に練習することが必要であると思います。生き方を定義する良い物は何ですか?ある信念の善が他の信念よりも優先されるべきでしょうか?特定の人の、信念、文化が他の人よりも重要であり、不寛容、差別、苦しみをもたらすのはなぜですか?終わりのない課題だと思います。皆様のコミュニティーで絶えず話すことを勧めます。


 私は最近、ジョン・パラスケヴォポウロス先生の『The Immeasurable Life』(MotherofPearl出版社)という優れた作品を読みました。私たちの対話に貴重な説明をもたらしてくれていると思うのでいくつか紹介します。「私はより良い人になれますか?」の章でジョン師は、私たちの欲望と情熱が私たちの生活の中でどのように絶えず生じ、発揮されるかについて、親鸞の言葉を思い出します。彼は次のように指摘しています。「私たちは、私たちの生活の中で、そのような有害な考えを実行する権利を持っているという意味ではありません。私たちが他人や自分自身を害する行為をとる時、私たちの道徳的責任は間違いなく作用します。意図的で無いように見えても、私たちがコントロールを失い、
人や自分を傷つけるような欲求を追求することがあります。それでも、私たちはそのような行動に対応し、法律の罰や社会的屈辱または業の報復などを介して、この人生の結果に耐えるよう強いられます。」仏教徒としての生涯を通して責任について考えましょう。阿弥陀如来は法と真実としてはたらきかけてくださっています。欲まみれの人間を理解されているので、私達をそのまま受け入れてくださいます。自分を変える必要もなく、メリットや優しさなどを積み重ね、それをもって目覚めを求めることはできません。お浄土への道は、決して自力(限り有る人間の力)の実践で得るものではなく、他力(無限の超越的な力)によって得るものです。


 仏陀は皆をありのままに受け入れてくださいますが、だからといって我がままのままでいても良いということを意味するのではなく、その自分に気付いて、欲望の海にどれほど没頭しているかを認識し、それぞれの違いを理解し、同時にすべての人間に共通の性質を見つめなおすことを理解することを教えてくださいます。ジョン師は親鸞の一節を引用し、次のように述べています。「人々は仏の教えを深く信頼していくほど自分のエゴイズムを捨てようとし、生死の苦界から逃げられない自分を憐れみ、喜んでアミダの名前を呼び、本願を信じることができます。人々は、以前から間違った行動をとらないようにと考えていたのであろうが、それは頭の中からの命令のような発想であって、今度は心から間違ったことをやめようとしている事実は、確かに彼らがこの世界を嫌がることのしるしであると思えるでしょう。」ここに、謙虚さ、自己批判、応用力、内省の重要なポイントがあります。


 暗い部屋は、明るくする力がないため、外部の日光によってのみ明るくすることができます。「思いやりのある倫理的な行動は結果であり、精神的な目覚めの条件ではありません」と、ジョン師は結論を出されています。私たちが偉大な計り知れない生命の中に入っているにも関わらず、その生命を軽蔑することは、湖に落ちる水滴のようなものです。一滴の水は生命の湖を否定し、一滴であると考え続け、それはつまり、環境と自然と自分自身を区別してしまうことです。ここまで私の考え方を共にしていただきありがとうございました。なんらかの形で皆さんの生活の役に立てたら幸いです。


                                                                                南無阿弥陀仏




Religião e Discriminação”  3

Rev. Jean Tetsuji 


    Olá a todos, como vocês estão? Estamos chegando ao final do ano e à última coluna de reflexão proposta pelo Rev. Masato. Pensar a discriminação é um exercício contínuo de como viver juntos numa sociedade plural. Qual é o bem que define a forma de viver? O bem de uma crença deve prevalecer sobre outras? O que faz uma pessoa/crença/cultura ser mais importante que outra, resultando em intolerância, discriminação e sofrimento? É um tema inesgotável e convido-os a conversarem constantemente em suas comunidades. 

    Recentemente li a excelente obra do rev. John Paraskevopoulos (A Vida Imensurável, ed. Madrepérola) que traz elucidações valiosas para nossa conversa e gostaria de transcrever algumas delas. No capítulo “Posso me tornar uma pessoa melhor?”, Rev. John lembra das palavras do Mestre Shinran sobre como nossos desejos e paixões mundanas surgem constantemente e atuam no nosso viver. Porém, ele ressalta que: “isso não significa que temos, de forma alguma, o direito de pôr em prática tais pensamentos perniciosos em nossas vidas. Nossa responsabilidade moral definitivamente entra em ação quando realizamos atos que são prejudiciais aos outros e a nós mesmos. Pode acontecer de, às vezes, perdermos o controle e perseguirmos desejos que são prejudiciais, mesmo que pareçam não serem motivados por intenções ou impulsos. Mesmo assim, somos chamados a responder por tais comportamentos e de arcar com as consequências nesta vida, seja por meio pela punição da lei, de humilhação social ou de retribuição cármica”. 

    Estamos falando da responsabilidade ao longo da vida budista. O Buda Amida, sendo a ação do Dharma, da Verdade, da Lei, de fato aceita você como é porque entende a natureza humana das paixões. Você não precisa mudar ou acumular méritos ou bondades para acessar o Despertar. A proposta do caminho da Terra Pura não se faz pela prática do Poder Próprio (poder profano limitado) que acessa o Outro Poder (poder transcendental ilimitado). O Buda o aceita como tal, não para chancelar a continuar dessa forma, mas para fazer-se perceber e tomar consciência de quão imerso se está no mar das paixões mundanas, entender nossas diferenças e ao mesmo tempo entender a natureza comum a todos os humanos. Rev. John ainda cita uma passagem do Mestre Shinran, onde diz: “Quando a confiança das pessoas no Buda cresce profundamente, elas passam a abominar o ego e a lamentar sua contínua existência no mundo de nascimentos e mortes; tais pessoas dizem com alegria o nome de Amida, confiando-se profundamente ao Voto. O fato das pessoas procurarem parar de fazer coisas erradas, movidas pelo coração - embora anteriormente pensassem nessas coisas e se comprometessem com elas, submetidas que estavam ao autoritarismo de suas mentes - certamente é um sinal de que rejeitaram este mundo.” 

    Aqui entra o importante ponto da humildade, da auto-crítica, da resiliência, do olhar-se para dentro. Um quarto escuro só pode ser clareado pela luz externa do sol, pois ele não tem a capacidade própria de fazer. 

    “O comportamento compassivo e ético só pode ser uma consequência, não uma condição do despertar espiritual”, conclui Rev. John. Desprezar esta grande Vida Imensurável a que estamos inseridos é como a gota d’água que cai no lago e continua pensando que é gota, discriminando o ambiente e a natureza de sua própria existência enquanto gota. Obrigado por acompanhar estas reflexões e que tragam algum benefício em suas vidas! 

                                                                                                                    Namu Amida Butsu. 


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