「ただいま工事中・お寺に車椅子用の通用口がつきます」
ポルトガル語に翻訳
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今週のことば
尾畑文正
過去現在因果経 (意訳)
この経典は釈迦が後に国を捨て 出家する動機を「樹下の思惟(しい)」として語る。ある日、少年釈迦が父王と閻浮樹(えんぶじゅ)の下で休息していた時、農作業で掘り起こされた虫を鳥が啄(ついば)むのを見た。経典の原文は「互いに相吞食(あいどんじき)す(食べる)」と あるが、意は「殺しあう」である。 その姿に少年は深く悲しみ、その場に留(とど)まり、樹下で瞑想(めいそう)する。
やがて仏陀(ぶっだ)(目覚めた人)となる少年が自らも含む衆生の弱肉強食の現実に触れ、「生きるとは何か」の問いを抱えた場面である。
少年が見た互いに殺しあう衆生の現実は現在、戦争のかたちで世界を覆っている。日本はどうなのか。憲法で不戦を誓い、武力なき平和を掲げながら、戦争の悲しみを忘れたかのように、武器輸出を閣議決定している。
想像してみよう、戦闘機で命奪 われる人々の叫び、瓦礫の下で殺された命を。武器輸出で平和は創れない。少年の悲しみは今の私たちの愚かさを問うている。
(同朋大名誉教授)
"Piedade, os seres vivos matam-se uns aos outros"
A palavra desta semana
Por Bunsho Obata
Tradução interpretativa do Sutra das Causas e Condições Passadas e Presentes
Este sutra relata como o futuro Buda, ainda jovem, veio a renunciar ao seu reino e tornar-se monge, movido por uma reflexão sob uma árvore . Certo dia, enquanto descansava sob a árvore Jambu com seu pai, o jovem Siddhartha observou pássaros bicando insetos que foram desenterrados durante o trabalho agrícola. O texto original do sutra usa a frase "devorar uns aos outros", mas o significado é "matar-se uns aos outros". Profundamente triste com essa visão, ele permaneceu no local e meditou sob a árvore.
Eventualmente, o jovem que se tornaria o Buda (o Iluminado) confrontou a dura realidade do mundo, onde os fracos são presas dos fortes, levando-o a questionar "o que significa viver". A realidade de seres vivos matando-se uns aos outros que o jovem viu, hoje se manifesta na forma de guerras cobrindo o mundo. Como está o Japão? Apesar de jurar não guerra em sua Constituição e defender uma paz sem armas, o país parece ter esquecido a tristeza da guerra, decidindo pela exportação de armas em reuniões do gabinete.
Imagine os gritos das pessoas sendo mortas por caças, as vidas perdidas sob os escombros. A paz não pode ser criada com a exportação de armas. A tristeza do jovem questiona a nossa atual tolice.
(Professor Emérito Doho da Universidade)
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上記のポルトガル語のテキストから重要な単語を10個選んで、それぞれの日本語訳を以下に示します。
1.Piedade** - 慈悲、哀れみ
2.Seres vivos** - 生き物
3.Matar-se** - 殺しあう
4.Sutra** - 経典
5.Rei** - 王
6.Monje** - 僧
7.Reflexão** - 思索、瞑想
8.Realidade** - 現実
9.Constituição** - 憲法
10.Armas** - 武器
重要な構文の解説
1."o futuro Buda, ainda jovem, veio a renunciar ao seu reino e tornar-se monge"**
- 「未来の仏陀、まだ若い彼は、彼の王国を放棄し、僧侶になることなった」
- この構文は、主語「未来の仏陀」に対して、二つの動詞「renunciar」(放棄する)と「tornar-se」(~になる)が使われています。これにより、彼の人生の重要な転換点が強調されます。
2."enquanto descansava sob a árvore Jambu com seu pai, o jovem Siddhartha observou pássaros bicando insetos"**
- 「父と一緒に閻浮樹(えんぶじゅ)の木の下で休んでいる間、若いシッダールタは鳥が虫をつつくのを観察した」
- ここでの「enquanto」(~する間に)は、ある行動が他の行動と同時に起こったことを示しています。この同時進行の構文は、物語のシーンに動きを加え、時間の流れを感じさせます。
3."o país parece ter esquecido a tristeza da guerra, decidindo pela exportação de armas em reuniões do gabinete"**
- 「国は戦争の悲しみを忘れたようで、閣議で武器輸出を決定している」
- 「parece ter esquecido」(忘れたようだ)は「parecer」(~のように見える)と完了形「ter esquecido」(忘れた)の組み合わせで、推測や可能性を表現しています。これにより、日本の行動に対する著者の批判的な視点が強調されます。
https://zh.wikipedia.org/wiki/閻浮樹
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『凡夫(ぼんぶ)』とは
お経の鏡に映る
私の姿
"Ser tolo" é o meu verdadeiro reflexo no espelho dos Sutras.
資料
腹立たば 鏡を出して 顔を見よ
鬼の顔が ただで見られる
凡夫というは
今月のことばに出会い、親鸞聖人のことばを思い出しました。
「凡夫」は、すなわち、われらなり。 (中略)
凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、 ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと
(『一念多念文意』 真宗聖典544・545頁)
(試訳)
凡夫というものは、煩悩が我が身に満ち満ちています。欲も多くて、怒り、腹立ち、そねみ、ねたみ、それらのこころを多く持っています。しかも、それらのこころが時折顔をのぞかせるのではなく、一瞬の間もなく、臨終のそのときまで止まることがありません、消えることがありません、絶えることがありません。そんな凡夫とは、私のことですと(親鸞聖人は告白されました)
経は鏡なり
善導大師に、「経教(きょう)はこれを喩(たと)うるに、鏡のごとし」ということばがあります。「お経(お釈迦さまの教え)は、喩えるならば、私を映し出す鏡です」と。
「経といふは経〈たて〉なり。経よく緯〈ぬき〉を持ちて疋丈〈ひつじょう〉を成ずることを得て、
その丈用〈じょうゆう〉あり。経〈きょう〉よく法を持ちて理事相応し、定散〈じょうさん〉機に随ひて義零〈ぎれい〉落〈らく〉せず。」
『観経四帖疏』玄義分
「これ経教はこれを喩ふるに鏡のごとし。しばしば読みしばしば尋〈たず〉ぬれば、智慧を開発す。」
『観経四帖疏』序分義
経は教、鏡〈かがみ〉
お経は、悩み苦しみを取り除いて くれる有り難いことばではありません。あるがままを説いた当たり前のことばです。けれど、あるがままを受け容れることはなかなか難しいものです。
日常、鏡を見るとき、自分の良い面しか見ません。あるいは、良く見えるように体裁を整えます。鏡に映る自分の姿といっても、自分のお気に入りの所だけ見ていては、私の本当の姿を見ることはできません。
お経のことばに触れる、仏法聴聞するとは、私の本当の姿を映し出してもらうことです。耳障りの良いことばを聞くためでも、自分を正当化するためでもありません。あるがまま、そうなるようにしてなった、つまり、縁をいただいて成った私であることを聞くのです。
そしてもうひとつ。鏡は、光を集めて反射することによって、ものが映ります。同様に、鏡に喩えられる経を通して、阿弥陀如来の光明に照らされている私の姿が見えてきます。
煩悩は、自分で意識しているときだけ現われ出るのではありません。自分で意識していないときも常に煩悩は表出しています。臨終の一念まで煩悩のこころがなくなることがないという親鸞聖人の告白は、いつまでも阿弥陀如来の光明に照らされてある私ですという告白です。
腹が立ち、鬼の形相になったとき、本当は自分が一番つらいはずです。怒りのこころを持ち合わせる自分であるという気付きは、自分で自分に噛みつくような痛みを伴うものですから。とはいえ、怒りのこころを臨終の一念まで持ち合わせるのが私です。阿弥陀如来の支えと共に、私はあります。
わが心
鏡に映るものならば
さぞや姿の
みにくかるらん
田辺 親子
『凡夫』という言葉は、私たちが持つ無明や煩悩を指すものであり、これらは日々の行動や思考に深く根ざしています。お経、特に浄土真宗において重要視される教えでは、これらの煩悩が悟りへの道を阻む障害であるとされています。しかし、これらを認識し、受け入れることが、真の悟りへの第一歩となるのです。
お経は、まるで鏡のようなものです。この鏡には装飾もなく、ありのままの私たちを映し出します。日常生活で私たちが見る鏡は、時に自分の姿を良く見せようとしたり、欠点を隠そうとしたりします。しかし、お経の鏡は違います。お経の鏡は、私たちの内面、そして真実の姿を映し出します。私たちが持つ怒り、欲望、嫉妬などの煩悩は、この鏡を通じてはっきりと見えるのです。
親鸞聖人は、「凡夫」であることを自認しました。これは、自らの煩悩に満ちた存在であることを深く自覚し、それを受け入れることから始まります。私たちは、自らの煩悩を認め、それに直面する勇気が必要です。この勇気が、私たちを真の悟りへと導く鍵となります。
お経を聞くこと、仏法に触れることは、自己の真実を知ることです。耳障りの良い言葉を求めたり、自己正当化を目指したりするのではなく、自己の真実を受け入れることが重要です。そして、この過程で阿弥陀如来の光明に照らされることにより、私たちは自己の本質をより深く理解することができます。
煩悩は、私たちが意識しているときだけでなく、無意識のうちにも常に存在しています。親鸞聖人が語ったように、臨終の一念まで煩悩は消えることがありません。しかし、これを悲観するのではなく、阿弥陀如来の無限の慈悲と共に、私たちは存在するのです。怒りや憎しみを感じたとき、それは自己への苦痛でもありますが、同時に自己を深く理解する機会でもあります。
お経の鏡に映る「凡夫」の姿を通じて、私たちは自己の真実に目を向け、阿弥陀如来の慈悲の光に照らされることで、真の悟りへの道を歩み始めることができます。この道は容易なものではありませんが、お経と仏法の導きにより、私たちはその道を歩む勇気と希望を持つことができるのです。
A palavra "凡夫" refere-se às nossas ignorâncias e desejos incontroláveis, que estão profundamente enraizados em nossas ações e pensamentos diários. No ensinamento budista, esses desejos incontroláveis são considerados obstáculos no caminho para a iluminação. No entanto, reconhecer e aceitar essas paixões é o primeiro passo para a verdadeira iluminação.
Os sutras são como um espelho, sem adornos, refletindo-nos como realmente somos. Os espelhos que usamos no dia-a-dia podem, às vezes, ser usados para melhorar nossa aparência ou esconder nossas imperfeições. Mas o espelho dos sutras é diferente. Ele reflete nosso interior e nossa verdadeira forma. Através dele, nossas raivas, desejos e invejas, que são as paixões, ficam claramente visíveis.
Mestre Shinran reconheceu-se como um "凡夫". Isso começa com a profunda autoconsciência de ser um ser cheio de paixões e aceitá-lo. Precisamos ter a coragem de reconhecer nossas próprias paixões e enfrentá-las. Esta fé é a chave que nos leva à verdadeira iluminação.
Ouvir os sutras e entrar em contato com o Dharma é conhecer a verdade sobre nós mesmos. Não se trata de procurar palavras agradáveis ou tentar justificar nossos atos, mas de aceitar nossa verdadeira natureza. E, neste processo, ao sermos iluminados pela luz de Buda Amida, podemos entender mais profundamente nossa própria essência.
As paixões existem não apenas quando estamos conscientes delas, mas também inconscientemente, o tempo todo. Como Mestre Shinran disse, essas paixões não desaparecem até o momento de nossa morte. No entanto, em vez de desesperar, devemos reconhecer que existimos junto com a infinita compaixão de Buda Amida. Sentir raiva ou ódio pode ser doloroso para nós, mas também é uma oportunidade para um entendimento mais profundo de nós mesmos.
Através da imagem do "凡夫" refletida no espelho dos sutras, começamos a olhar para a verdade sobre nós mesmos e, iluminados pela compaixão de Buda Amida, podemos começar a caminhar no caminho para a verdadeira iluminação. Este caminho não é fácil, mas com a orientação dos sutras e do Dharma, podemos encontrar a coragem e a esperança para continuar nossa jornada.
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