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2021/09/02

ブラジル、アラサツーバで起こった事件、(動画あり)重武装20人超が深夜に銀行連続襲撃 ATM爆破に人質を盾に銃撃も


まずはニュース記事と動画をご覧ください。

その後最後にアラサツーバに住んでいる私の知り合いから聞いた話と私の感想を書いています。


以下ニュース

《ブラジル》重武装20人超が深夜に銀行連続襲撃=ドローンで警察監視、ATM爆破に人質を盾に銃撃も

https://www.nikkeyshimbun.jp/2021/210831-13brasil.html

ニッケイ新聞より


 30日深夜0時過ぎ、約10台の車に分譲した20人以上の重武装した強盗団が、サンパウロ州アラサトゥーバ市中心部に立ち並ぶ銀行3軒を約2時間がかりで次々に襲い、町中がパニックに陥った。近隣住民が人質とされた上、数多くの爆破行為や銃撃戦などが行われた末、3人が死亡、5人が重傷を負う惨事となった。30日付現地サイトが報じている。

 サンパウロ州北西部の人口20万人の中核都市アラサトゥーバが恐怖に包まれた。発端はルイ・バルボーザ広場近くで、20人ほどの強盗団がサフラ、ブラジル、連邦貯蓄(CAIXA)の三つの銀行支店の現金引き落とし機(ATM)を襲ったことにあった。


犯人たちは10台の車で移動し、通りにいた人たちを捕まえて人質にし、車の屋根やボンネットに乗せて、警察からの銃撃を避ける盾代わりにした。警察によると、犯人たちはドローンを使って警察の所在や自分たちの位置を確認していたという。
 強盗団は少なくとも14カ所で爆破行為を行った。市内20カ所に40の爆発物を仕掛けたとの通報を受けた警察が特殊戦術行動グループ(Gate)を派遣し、爆発物の処理を行う一方、外出しないよう市民に警告を流した。

 この事件は事件発生直後からSNS上で話題となり、強盗たちが警察と銃撃戦を行う様子をSNSに投稿するために録画していて銃弾を浴びた住民もいた。
 住民2人と強盗団の1人が死亡。強盗3人が逮捕された。住民5人がサンタカーザ病院に運ばれ、1人はケガの治療後に退院した。だが4人は重傷で入院しており、うち3人は銃弾を浴びたが容体は安定している。もう一人、25歳の男性は自転車で走行中に爆発に巻き込まれて、両足と手の指を失う大ケガを負い、手術後も酸素吸入などを受けているという。
 犯人はなおも逃走を続けている。アラサトゥーバ市は夜が明けた後、市民感情などを考慮し、同日は市立校の授業を中止すると発表。州立校もそれにならった。
 同市では、爆発物が爆破した後の処理や、仕掛けられた爆発物処理の必要のため、商店や保健所が休業状態となった。また、同市から周辺地域へのコロナワクチンの配布も止まったため、ビリグイ市でも接種が中止された。




動画

動画

事件があったアラサツーバ市



ここからは私の聞いた話と感想です。


 アラサツーバは私が住んでいるマリリア市から車で2時間ほどの小都市で、私も何度も行き来している場所です。マリリアの方が少し大きいくらいの市なので、今回の事件は他人事ではないと思いました。
 アラサツーバ在住の友人によると、深夜12時頃に「パンパン!」という音が聞こえてきて、最初は若者が花火をあげている(ブラジルでは、サッカーの試合後によくある)のかと思ったが、なかなか終わらずしかも大きな爆発音や機関銃掃射の音らしきものが聞こえてきたので(友人は日本で自衛隊の駐屯地の近くに住んでいたので、演習の時の音に似ていたと言っています)、若者がおもちゃで兵隊ごっこをしているのか?と思った後に窓を開けて音のする方向を眺めていたら、なにやら焦げ臭い匂いをかんじたので、「マフィアの抗争かな?・・・・」くらい思っていたそうです。

 その日はそのまま就寝、翌朝近所の様子がいつもと違って静かすぎるので、何かの休日日か?と勘違いするほどだったそうです。 しかしその後ニュースや、心配の電話、連絡が来て事態を知ったそうです。
 その後の具体的な事件は上記に書いてある通りです。 私的には友人が無事でほっとしました。
 
怖かったのは、爆薬を色々なところに仕掛けた、そして実際それで両足を失い指が吹き飛んだ若者がいること。痛ましいことです。 
こういう事態が起こった時は何も触らず、避難することだと思います。

さらに事件の様子を携帯カメラで撮っていた人が撃ち殺された事実。
私もYouTubeをやっていますので、動画を撮った人の気持ちが分かります。事件が起こった時は「自分は大丈夫。だって関係ないんだから」と勘違いすることがあります。
しかし、この場合も速やかにその場から離れることに集中すべきだと思います。私自身も肝に銘じたいと思いました。 

 こう言った銀行を武装した集団が襲う事件は定期的に起こっています。今後電子マネー化がブラジルでもさらに加速すると思われます。

これ以上このような痛ましい犠牲が出ないようにと、こころから思いました。

「ブラジル・シュウちゃんねる」




2021/08/16

終戦記念日 青木新門さんの終戦体験談紹介。 ポルトガル語訳 付き

 





2021年の8月15日

この日は日本では終戦記念日になっています。
私が毎日のように閲覧しているフェースブックの青木新門さんの言葉がある。
親鸞聖人の念仏の教えを伝える「念仏広場」と青木新門さん自身が名付けている。

終戦も76年目を迎え、歴史的には当然歳を重ね昔話になっていきますが、私にとっては若い頃よりは年齢も50を過ぎて自分が歳を取るに従って身近に感じるようになってきている。
人間50歳を過ぎたら過去が身近になり、逆に未来は乏しくなるのもある意味道理なのでしょう。
 私自身は昭和42年生まれなので戦争の厳しさや悲しみは直接味わっていないものの、現在はコロナというある意味戦争の状態に似ている世相なので、歴史で習ってきた戦争の悲惨さをより身近に感じるのかもしれません。

青木新門さんは映画「おくりびと」の原作である『納棺夫日記』の著者として有名だが、私にとっては現在はフェースブックでほぼ毎日親鸞聖人の念仏の功徳を説いて念仏をする人を一人でも増やそうとしている人として認識している。






その新門さんが8月15日に自身の悲惨な体験を吐露しつつ、同時にその悲惨さの中から全ての人を等しく救う宗教的境地を届けてくださっているので紹介します。

 私は毎朝YouTubeでここ南米のブラジルから朝のお勤めを届けていますが、そこでも朗読しているのでそちらもご覧ください。 動画は最初はお経を読んで最後に感話という形で、仏教の言葉を日本語とポルトガル語で届けています。
このブログでは動画の次の段から日本語とポルトガル語を紹介しています。
是非ご覧ください。



 


青木新門 フェースブックより。

{8月15日} 南無阿弥陀仏

今日8月15日は、76回目の終戦記念日である。

私が終戦を迎えたのは旧満州であった。八歳であった。

父は出兵していないし、母とまだ乳飲み児であった弟と三歳の妹と四人で難民になった時、弟は間もなく死んだ。母の乳が出なくなったからである。妹も引き揚げの途中で、栄養失調で歩けなくなり、私が背負っていた背中で死んだ。出発した時の難民の群れの数は、引き揚げ船の待つ大連に着いた時は半数になっていた。だから私は少年の日から無数の死を見て来た。特に私の場合、後に納棺夫となって、何千体もの死者に接する仕事をして来たわけで、常に死を見つめ、死について考えて来た人生だったと言っても過言ではない。

つねに<死>について思索していると、結局<生>について思索することになる。生と死は一つものだと気づかされる。仏教は生と死を分けて思考することはない。仏典であれ、親鸞聖人の『教行信証』であれ、生とか死といった言葉は見当たらない。すべて<生死>である。例えば生と死を分けて「生から死へ移ると心得るはこれ誤りなり。生死の中に仏あれば生死なし」(道元)とか、「証知生死即涅槃」といったように、生と死を分けて用いられることはない。近代ヨーロッパの思想などは、常に生か、死であって、生と死を分けて思考されている。清沢満之は「生のみが我等にあらず 死もまた我等なり」とおっしゃったが、大学で西洋哲学を教えておられた頃は生と死を分けて思考されてられたのが、結核で死に直面された時、ハッと気づかれたのだと思う。

孔子が「未だ生を知らず、況や死を」と言われたのも、生と死を分けて思考しておられるといえる。だから孔子の思想はこの世を生きる処世訓であっても生死を超えた宗教とは成り難い。あくまでも六道輪廻の輪から解き放されていない世界である。空海は、生と死を分けているかぎり闇であると詩的に表現して、仏教しか解脱はないのだと説かれたのであった。

生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く  死に死に死に死んで死の終りに冥(くら)し  ー「空海・秘蔵宝鑰」

この闇を破るには、弥陀の光明しかないのである。

「ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船。無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」-「教行信証・総序

私が8月9日のブログに「弟の死体を背負った少年」の写真を載せたが、あの少年は生と死を帯で結び、生死一如の瞬間に顕われる光明を浴びていたのだと私は思っている。私が満州の大地に妹の亡骸を捨てた時、何か大きな悲しみに包まれたような気がした。その大きな悲しみこそは如来大悲だったのだと、後に親鸞聖人の御教えに出遇って確信するようになった。

「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられれば、かへってまた曠劫を経暦せん(流転を繰り返す) まことなるかな、摂取不捨の真言、超世稀有の正法、聞思して遅慮することなかれ」(総序)

私の終戦記念日は、念仏に出遇った宿縁を慶び、恩徳讃を唱える日となった。

 如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし  南無阿弥陀仏


ポルトガル語
{15 de agosto} Namu Amida Butsu

Shinmon Aoki

Hoje, 15 de agosto, é o 76º aniversário do fim da guerra.

Terminei a guerra na Manchúria. Eu tenho oito anos.
Meu pai havia enviado tropas e meu irmão mais novo morreu durante um caso de refugiado com minha mãe, um bebê e uma irmã de três anos. Isso porque não saiu o leite da minha mãe. Minha irmã também durante estava voltar, desnutrida e andava, e ela morri na minha costas.

O número de refugiados no momento da partida era metade quando eles chegaram a Dalian, onde o barco de resgate estava esperando. Então, eu vi inúmeras mortes desde a infância. Especialmente no meu caso, mais tarde me tornei um coveiro e trabalhei e encorntoro com milhares de mortos, então não é exagero dizer que minha vida sempre foi olhando para a morte e pensando na morte.

Se você está sempre pensando em <morte>, acaba pensando em <vida>. Percebe-se que vida e morte são uma coisa. O budismo não pensa em vida e morte separadamente. Seja uma escritura budista ou do Mestre Shinran " Kyogyoshinsho ", não há palavras como vida ou morte. Todas são <vida e morte>. Por exemplo, vida e morte são separadas, e é errado saber que passar da vida para a morte. Se há um Buda em vida E a morte, não há vida ou morte (Dogen), ou "nirvana instantâneo de vida e morte". Não será usado separadamente. Os pensamentos na Europa moderna são sempre vida ou morte, e a vida e a morte são consideradas separadamente. Kiyozawa Manshi disse: “Só a vida não é nossa, e a morte também é nossa.” No entanto, quando eu ensinava filosofia ocidental na universidade, pensava na vida e na morte separadamente. Acho que fui notado de repente quando me deparei com a morte por tuberculose.

Pode-se dizer que Confúcio pensa sobre a vida e a morte separadamente porque disse: "Ainda não sei sobre a vida, e a situação e a morte." Portanto, o pensamento de Confúcio dificilmente será uma religião que transcende a vida e a morte, mesmo Se for um preceito para viver neste mundo. É um mundo que não foi liberado do círculo de Rokudo Rinkai. Kukai poeticamente descreveu-o como escuridão, desde que separasse a vida da morte, e foi dito que apenas o Budismo poderia ser liberado.

Nascido Nascido Nascido Nascido Escuro no início da vida Morte Morte Morte Morte no final da morte- "Kukai / Tesouro Tesouro"

Apenas a luz de Amitabha pode quebrar essa escuridão.
"Se você olhar para ele em segredo, o juramento misterioso é um grande navio que torna o mar difícil.

Postei uma foto de "um menino carregando o cadáver de seu irmão mais novo" em seu blog em 9 de agosto, e ele estava na luz da vida e da morte com um cinto. Acho que sim. Quando joguei o cadáver de sua irmã na terra de Na Manchúria, senti como se estivesse em grande tristeza. Mais tarde, vim a ser convencido pelos ensinamentos do Mestre Shinran de que a grande tristeza era a grande tristeza de Tathagata.

"Ah. Se você me perguntar, não vou conseguir repetir o Kalpa de novo (repetir o fluxo), me pergunto se é verdade, o mantra da ingestão, a rara lei do super mundo, não tenha medo de pensar sobre isso "(Introdução)

Meu aniversário do fim da guerra foi um dia para celebrar o caso do Nembutsu e elogiá-lo.

Mesmo que tenhamos de pulverizar nossos corpos,Devemos retribuir a Graça da Grande Compaixão do Tathagata;Mesmo que tenhamos de esmigalhar nossos ossos,Devemos agradecer os Benefícios dos Mestres.

Namu Amida Butsu



2021/08/07

核のない世界へ 対談 真宗大谷派僧侶 泉原寛康 詩人 アーサー·ビナード 東本願寺 月間 同朋 2021年8月号より

今回は以下の対談を紹介します。私の兄が真宗大谷派の出している月刊誌「同朋」に登場しました。広島生まれで私の実家の法正寺も8月6日の原爆で全焼してしまいました。ひいおばあちゃんもその時に亡くなっています。

 私が幼い頃はまだ街中にケロイドを負ったお年寄りが歩いておられました。母に理由を聞いたり、その後学校で原爆の悲惨さを習ったりしてその理由を知りました。

このビナードさんと兄の対談が素晴らしいので文字起こし機能を使って掲載させていただきました。

 ぜひご一読願います。


核のない世界へ
対談
真宗大谷派僧侶
泉原寛康
詩人
アーサー·ビナード


東本願寺 月間 同朋 2021年8月号より


体験者でなくても、国籍が違っても

自分なりの言葉で伝えていこう。

核のない世界を目指していくために、私たち一人ひとりにできることとは?


米国に生まれ、現在は広島に住んで、核や戦争について言葉を紡ぎ続けるビナードさんと、

広島のお寺で住職をしながら、非核非戦の願いを発信する泉原さんとの対談です。

大きい嘘を見抜くきっかけを

広島が与えてくれた



泉原


今日はまず、アメリカで生まれ育ったビナードさんが、なぜ現在は広島にお住まいになり、原爆のことを題材にした絵本などを書かれるようになったか、その歩みをお聞きしたいと思います。


ビナード

もともと、ニューヨーク州の大学で英米文学を学んでいたんですが、4年生になって卒業論文を書いていた時、ひょんなことで、とんでもなくぶっ飛んだ言語に出会ったんですね。文字は漢字とひらがな、カタカナが混ざりあい、擬音語や擬態語などが渦巻いて、その多様性ときたら、まるで砂漠から熱帯雨林に放り込まれたような気がして……。

そこから道を踏み外してしまったんですね()。大学を卒業した1990年に日本へ来た時は、純粋に日本語に対する言語欲と興味があふれていただけで、広島のこと、原爆のことはいっさい意識していませんでした。はじめは、東京の池袋でアルバイトをしながら日本語学校で学んでいたんですが、その頃の商店街の大檀那たち、お母さんのお母さんたちは空襲を知っている世代だったんですね。八百屋のおじいさん、豆腐屋おばあさんと徐々に親しくなり、家に上がってお茶またはお酒をいっしょに飲んでいると、その体験の話が出てくるのです。日々の暮らしでお世話になっている人たちが、たったの4年前には焼夷弾で焼け出されたり、炎を避けて川に飛び込んだり、池袋から板橋の方まで裸足で逃げたりしているわけですよ。自分が住むここが、自分の母国機の爆撃に焼かれた。アメリカで僕は広島、長崎への爆撃はちょっとだけ聞いていたけど、東京大空襲のことは全く知らなかったんですよ。一夜にして10万人が亡くなったことを、何も教わっていなかった。そして、広島、長崎のことだって、本当は何も知らなかったんです。初めて広島に来たのは25年前、1996年でした。平和記念資料館で、知らなかった被爆を実際に体験した方々の話を聞いて、世界を捉える立ち位置が変わりました。「原爆は必要だった」、「原爆投下は正しかっのた」、「原爆のおかげで戦争が早く終わった」などアメリカの中学や高校で教わってきた話が、ゆらいだんですね。これまで自分が疑わなかった歴史の物語が、実はペテンだった。

原爆投下と終戦はそんな関係じゃなかった。そして、原子力の平和利用なんて言われた原発も、作り話の上に建てられている。広島は、そういうフィクションを見抜くきっかけを与えてくれたんですね。

ていねいに聞きとった話を語り直し、共有する





泉原

 今日の対談のテーマは「核のない世界へ」ということですが、"核のない世界"という理想郷が、今の自分たちが置かれた現実から離れたところにぽっかり浮かんでいるわけじゃないですよね。これは、「お浄土」が私たちの生活から離れてどこかに

ある世界ではないのと同じだと思うのです。

お釈迦さまは、「対機説法」といって、話す相手一人ひとりの問いに合わせて、仏法をさまざまな形でお説きになられたそうです。それと同じように、ビナードさんがどうして広島と出会われたのかをお聞きすることが、核のない世界を願うというテーマを考える糸口になるのではないかと思い、まずそのことをお聞きしたわけです。


ビナード

 語弊があるが、核のない世界を目指すといった大きなスローガンは、あまり重要じゃないと思います。じゃあ何が重要なのか。僕は人生の前半、広島について勘違いさせられていたのだから、大事なのはインチキの定説を真に受けずに、実体を掘り下げていくことです。そのためには、被爆させられた方一人ひとりの体験を具体的に聞いていく。そして、その方々の体験を自分の視点から捉え直して、また語り直すということです。視点が変われば、体験者には見えていなかったことがあぶり出される可能性がありますから。そうやって聞いた話を、みんなと共有することでもしかして未来を生き延びることにつながるかもしれない。



泉原

ビナードさんのお仕事は、戦争体験者の話をじっくり聞き取った『知らなかった、ぼくらの戦争』(小学館)など、ていねいな聞き書きにもとづくものが多いですね。さらに、被爆者の遺品たちが語り部になって自分の体験や思いを語り出す『さがしています』(童心社)や、原爆ドームが自分の歴史を語りだす『ドームがたり』(玉川大学出版部)にしても、広島で多くの人の言葉に耳を傾けてきた経験がもとになっているんだろうなと感じます。


ビナード

僕が広島に住みついたのは11年前。いまおっしゃった『さがしています』をちょうどつくっている最中でした。あの本は、ときおりよそから広島に通ってきてつくれるようなものじゃなかったので、いよいよ住みつくしかないな、と思って。


泉原

『さがしています』は、平和記念資料館が所蔵していた21千点の遺品の中から、14点の遺品を選んで、それぞれの背景にある物語を多くの人に教えてもらって書かれたのでしょう。すごく手間がかかっている本だと思います。



ビナード

「手間」といっしょに、たくさんの「力添え」も必要でした。登場する遺品のひとつに横谷菊美さんという女性が使っていた鉄瓶が出てくるのですが、その方が住んでいたところに建てられたマンションの一室を借りたんです。


泉原

本の最後に書かれていますが、横谷菊美さんはお子さんと二人で朝食をとっている時に被爆して亡くなられたそうですね。焼け焦げた遺体の下からお子さんの遺体が出てきて、おそらく被爆の瞬間に子どもをかばおうとされたのだろう、と。

ビナード 

広島で教わった人びとの体験が、いまここにいる必然性だと思います。もちろん自分の先祖や親や家系も大事だけれど、もっと大きいのは、物ごとの本質をつかめるように導いてくれた師匠ですね。例えば、シェークスピア、近松門左衛門、小熊秀雄、中原中也などは、僕にとって文学的に重要な存在で、広島とのつながりもその類なんです。




泉原

今日、ビナードさんに広島市中区宝町にある東本願寺広島別院に来ていただいて対談しています。広島別院は、元は爆心地に近い大手町にあったのですが、原爆で全焼し、戦後間もなく現在地に再建されました。さらに2014年、老朽化のため、別院と教区同朋会館広島を併設する形で再建されました。いまは、真宗大谷派の山陽教区の中で、非核非戦の願いを発信していく拠点という役割も担っています。被爆された洋画家の増田勉さんが描この別院の本堂の壁には、広島でいた絵が掛けられています


本堂の壁に掛けられた絵が物語る原爆への怒り




ビナードさんは、丸木俊(まるき とし)さんと丸木位里さんの「原爆の図」を素材にして、『ちっちゃいこえ』(童心社)という紙芝居もつくっておられますね。増田さんの絵は丸木さんらの絵と違って抽象画ですから、一見すると何が描かれているのかわかりませんが、道端や河原に落ちていたものを貼りつけるという技法も使って、原爆への激しい怒りが伝わってくるような絵です。終戦の年、増田さんは29歳で、当時の小中学校にあたる国民学校の教員でした。86日、爆心地から1·6キロの比治山橋の近くで、生徒たちと建物疎開作業中に被爆され、多くの子どもたちを亡くされたそうです。増田さんは私の寺のご門徒でしたから、生前にお会いしたことがあります。その時に、「自分は子どもたちをだましてきた」とおっしゃっていました。その罪をずっと背負って生き、その罪の意識から、核のない世界を願い、生涯原爆をテーマにした絵を描き続けられました。




ビナード 

丸木俊さんと位里さんの「原爆の図」は、分類すれば具象画になるでしょうけど、よく見ると部分的に抽象画なんですね。たぶん必然的にそうなるんですよ。被爆の現場は、悠長なリアリズムで表現できるものじゃない。そこで強烈に影響を引き起こしているのは、目に見えない放射線と放射性物質でしょう。その脅威と悪影響を絵画で表現しようとすると、どうしても増田さんや丸木さんのような激しい抽象表現にならざるを得ないのだと思います。丸木俊さんはデッサン力抜群の洋画家で、人物をていねいにリアルに描いていきます。一方、位里さんは日本画家で、墨の世界に生きていますから、俊さんが描いた具象画の上に墨をぶっかけるような勢いで筆を加えていく。それの繰り返しの中から、目に見えない放射能の破壊力が僕らのか弱い肉体を襲った時に起きるせめぎ合いの比喩的表現が出てくるんですね。被爆者の体験を未来に語り継いでいくために




泉原

僕はたまたま縁あって広島で生まれ、広島市内の寺の住職をしています。ただ、両親とも県外から入寺したので被爆者ではありません。そして、僕は被爆二世の世代ですが、僕自身はそうじゃないんですね。ですから、アメリカから来たビナードさんほどじゃありませんが、僕もまた原爆に対してちょっと距離を感じるのです。でもその距離を少し縮めてくれたのは「月参り」での経験でした。僕が20代で大学を卒業して寺へ帰った頃は、仏間に軍服姿の遺影が飾られていましたし、過去帳はその多くが86日が開かれて、複数の法名が記載されていました。


ビナード

同じ日に原爆で亡くなった方がそれほど多かったわけですね。


泉原

ええ。でも、故人のことやご悲しみの日はめぐり語は連上 人は代り 世相は変っても「あの日、のことを忘れてはならな、、ノーモマ·ヒロシマを叫にながら

真宗大谷派広島別院の本堂の壁に掛けられた増田勉さんの絵




本人の体験とかなかなか聞けなかったし、門徒さんも話されませんでした。そんな中、何年もたって、ふと話してくださることがあるわけです。ある時、聞くことを許されたのかなと思います。「話してもええか」と思ってくださったんですかね。そうすると、いつもニコニコしている穏やかなおばあちゃんが、壮絶な体験をされていることがわかったりするんです。そんな体験をされた人たちは、黙々と普段の生活をしておられる。その姿に生きることの厳粛さを見させていただき、僕も何かあってもご門徒のように淡々と日暮らしすればいいんだと、力をいただいた思いがしました。日常の生活の中で、時が来れば語りもするし、語りたくなかったら語らない時もある。そうやって地道に伝わってきたし、耳をすませてきたんだなあと。

ビナード 暮らしに根ざした話が力強いですよ。「核のない世界へ」とスローガンを大声で繰り返したって実現しません。


泉原

だから、ビナードさんのように一人ひとりの体験をていねいに聞き、それを人に伝えていくしかないと思うんですね。ただ、月日がたつうちに被爆体験のある方が少なくなり、原爆の記憶が薄れていく中で、体験をいかに語り継ぐかがいま課題になっています。例えば、僕の従兄弟に「被爆体験伝承者」の会で活動している僧侶がいます。きっかけは入寺した先の住職がいわゆる原爆孤児で、さまざまなご苦労をされてこられた。終戦間際、学童疎開しており、被爆は免れましたが、家族を失った。そうやって、被爆体験のある語り部から話を聞き取り、その方に代わってお伝えする「伝承者」が少しずつ増えています。自分が体験していないことを語ることはできないのか?ビナード 記憶の風化というのは、いまに始まったことじゃありません。例えば『原爆詩集』を書いた詩人のとうげさんきち峠三吉は、1940年代の終わりごろから同人誌をつくって出版していたんですが、その雑誌の特集号にはすでに「原爆の記憶は消える」、「語り継ぐための工夫が必要」、「マンネリ化している」などと書いてあるんですね。まだ10年もたっていないのに警鐘を鳴らしている。ということは、最初から問題はあるんです。どう語り継ぐのか。直接の被爆体験がない人だけになってしまった場合、それが難しいという。じゃあ体験者がいらっしゃれば伝わるかというと、必ずしもそうじゃない。そう考えると、自分がどういう課題を背負っているかが少し見えてくるんですよ。僕は体験者じゃないし、国籍も違う。だけど僕にできる語りはある、と。ある時、秋田県で比較的若いご住職の集まりに呼ばれ、話をする機会がありました。その参加者の多くは『知らなかった、ぼくらの戦争』という本を読んでくださっていて、戦争体験をどう伝えるかという話題になりました。すると、"お寺で門徒さんから戦争の話を聞くことはあるが、自分は体験者じゃないから語ることができない"と皆さん口々におっ

しゃるんですね。僕はそれを聞いてだんだん不思議になってきました。やがて僕がしゃべる番が来た時に、叱られる覚悟で訊いてみたんですよ。「ところで今日お集りの皆さんの中で、釈迦本尼に直接お会いになった方はどれぐらいいらっしゃるんですか?」って。すると、答えはゼロでした()



泉原

そりゃそうですよね()。ビナードでも、皆さんは、2500年ほど前に亡くなった釈迦牟尼の教えと体験を、翻訳の翻訳のそのまた翻訳のようなお経で読み、また聞き

のまた聞きのまた聞きのまた聞きみたいなものを聞き、それなのにいつも自信ありげにお説教されてるじゃないですか。だから、体験していないから語れないなんてことはないんですよ。ただし、「これは絶対に自分が語り継がなきゃ駄目だ」と思って、必死になって掘り下げて語れるかどうかがポイントですけど。


泉原

面白いお話ですね。シャカが「釈尊」になられたのをどこに見るかという問題に通じていると思います。シャカはそれまでの苦行を離れられ、菩提樹のもと瞑想されさとりを得たと、その時を、釈尊の誕生とされます。しかしそうじゃなくて、シャカが、目覚められた内容を言葉にして人語った時こそが「釈尊」の誕生なんだと僕は思います。つまり、大切なのはさとりを得ることでなく、人に語りかけ伝えること、まさに「さとりをひらく」ことだと思うんですよ。これまで聞いてきた言葉を自分の言葉で語り伝える責任



泉原

もうひとつ、釈尊の生涯で大切な点は、亡くなられた時だと思います。別れの時、仏弟子は「これまで何を聞いてきたのか?」「何に出会ったのか?」と問われてくる。もう明日から釈尊の説法が聞けないとなったら…。


ビナード 

自分が釈尊の代わりに語らなきゃだめですね。


泉原

そうなんですよ。そこが伝承ということの大切なポイントだと思うのです。


ビナード

 その時は、これからは自分が教えを背負っていくという覚悟、ある意味では釈尊の上を行くというぐらいの覚悟が必要でしょう。


泉原

上を行くというか、自分を通して語るということです。つまり、これまでは釈尊の言葉に頼ってきたけれど、これからは自分の言葉で、次世代の人々に向けて語っていかなければ、という責任が出てくるんだと思います。だから、被爆体験者がだんだん少なくなり、いつかおられなくなる日が来る。そうすると、これまで語ることに口を閉ざしていた方が、「伝えないと」と思いたち、語りだすこともあったりします。


ビナード 

もうひとつ大事な要素は覚悟だと思います。代わって話す覚悟ですね。死ぬ覚悟で語られた話は伝わります。そもそも死ぬ覚悟がなくて、核のない世界をつくるって、無理でしょう。核は、詐欺師たちの経済と権力の道具です。命がけでその

道具を無力にできます。


泉原

命がけですか…。確かに戦争中には命がけで自分の信念を貫いて亡くなった方もいましたし、そういう人の生き様を伝え、聞くことも大切なことだと思います。ただ、ビナードさんのように強くてマッチョな人なら()、それもできるでしょうが、

その勇気がなくて力のある人に妥協してしまう人もいますね。そういう人をどうするんだ、ということがテーマだと僕は思っています。


ビナード

僕はマッチョじゃないですよ()。何も正面衝突するだけが恰好いいと思ってるわけじゃない。例えば戦時中、落語家の団体に対して、このご時世に風紀を乱すような噺を高座でやっちゃいけないという自粛要請があったんですね。そこで噺家さんたちはその要請に従って、くるわばなし廓噺のような風俗を扱った落語のネタを53選び、浅草のお寺に「噺塚(はなしづか)」を建てて葬ったのです。当然その塚には、葬った演題が刻まれていたので、逆にみんなはその噺を聞きたくなり、リクエストががんがん来たとか()。そんなふうに、弾圧を逆手に取るユーモアが大切です。反核運動の欠陥は、ユーモアを欠いていることですよ。



「願いをかけられた身」
であることを自覚する


泉原

井上ひさしさんの『父と暮せば』も、伝えることにユーモアを大切にされていますね。今年の真宗教団連合のカレンダーに、「己れに願いはなくとも、願いをかけられた身だ」という藤元正樹(ふじもと まさき)さんという僧侶が遺した言葉が載っています。この「願いをかけられた身」という言葉は大切だなと思うんですよ。以前、東京大空襲を描いたドキュメンタリーで、空襲を生き延びたおばあさんの話に感銘を受けました。その方は空襲の時に看護師をしていて、患者さんを連れて避難をされた。その時、その方は運よく生き延びたけれども、たくさんの同僚が逃げ遅れて亡くなったそうです。そして、80歳を過ぎ、「そろそろお迎えが来る頃だ」となった時、あの世へ行って同僚に会えるのは楽しみだが、心配事が二つあると言うんですね。ひとつは、同僚はみんな若くして亡くなったから若い頃のままの姿でいたから、わかってもらえないんじゃないかと。

自分は皺くちゃのばあさんになってしまった。


ビナード 

なるほど。


泉原

そしてもうひとつ、これが凄いなと思ったんですが、「同僚たちに、自分はちゃんと生きてきたと報告できるだろうか」と言われるんですね。同僚の多くが死んで、自分はたまたま生き残ることができた。その与えられた命をきちんと生きてきたと同僚たちに報告できるだろうか、と。僕はそこに「願いをかけられた身」の自覚を感じるんですね。弱くて駄目な自分かもしれないが、自分一人の思いで生きているんじゃない。さまざまな願いを担って命を生き切っていくその責任があると。



ビナード

「核のない世界へ」という願いであれば、それをスローガンとしてとなえるのではなくて、自分の体内に宿して、汗といっしょに出して、喜怒哀楽とつなげて、願いが根づく立ち位置に立つ。たくさんの人が、それぞれしっかり宿して揺るぎない覚悟で立てば、可能性は出てきます。



泉原

「核のない世界」をユートピアのようなものと考えると無理が生じると思います。仏教では僧伽という集まりを大事にしますが、これは例えば「核のない世界」を願う人だけではなく、それを信じられない人もためらう者もいる。いろんな考えをもった人が話し合える集いだと思います。考えが違っていても、まことに向かって共に歩む。そして答えを簡単に出すのではなく、問うことを止めない。そんな世界を開いていければと思います。





泉原寛康 (いずはらひろやす)

1964年広島市生まれ。大谷大学卒業。現在、真宗大谷派山陽教区法正寺住職。山陽教区教区会議長。2014年に再建された広島別院明信院の再建委員を務めたのち、現在は同別院責任役員を務めている。


アーサー·ビナード

Arthur Binard

1967年、米国ミシガン州生まれ。コルゲート大

学で英米文学を学び、卒業と同時に来日、日本語

での詩作を始める。詩人、翻訳家、エッセイスト、

ラジオパーソナリティとして幅広く活躍。詩集『釣

り上げては」(思潮社)で中原中也賞、『日本語ぽこ

りぽこり」(小学館)で講談社エッセイ賞、『ここが

家だーベン·シャーンの第五福竜丸」(集英社)

日本絵本賞、詩集『左右の安全」(集英社)で山本

健吉文学賞、『さがしています」(童心社)で講談社

出版文化賞絵本賞、『ドームがたり』(玉川大学出

版部)で日本絵本賞を受賞。他に『知らなかった、

ぼくらの戦争」(小学館)など著書多数。近著は『そ

もそもオリンピック』(玉川大学出版部)

さがして

『さがしています』

います

/アーサー·ビナード

写真/岡倉禎志

発行/童心社

定価/1,430(税込)

『ドームがたり(未来への記憶』

/アーサー·ビナード

/スズキコージ

発行/玉川大学出版部

定価/1,760(税込)

『知らなかった、

ぼくらの戦争』

編著/アーサー·ビナード

発行/小学館

定価/1,650(税込)



東本願寺 月間 同朋 2021年8月号より



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