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2024/05/02

南米佛教の先驅者 岡田英定氏 大舘誓

南米佛教の先驅者

岡田英定氏

大舘誓

 昨年八月南米同行から本山へ特使 派遣を要請したのが發端となり、途に九月末に至り本山より南米開教事情視察を命ぜられた。御法主台下の特別の思召で御本尊と御消息とを下附された。尚その上南米同行から先年來御法主台下及裏方の御渡伯招請運動が起きて居たので、その準備のため十一月中旬バークレーを出發空路ニューヨークを経て約八千哩を翔破してブラヂル國サンパウロ空港に無事到着したのは炎暑の激しい十一月二十六 日であつた。往路羅府(ロサンゼルス)に立寄った時、加州(カリフォルニア州)大學教授足利演正師から 南米に念佛行者岡田英定氏のある 事を聞いた。氏は二十余年前渡伯 する以前から真宗のみ教を深く信じ、渡伯後は益々熱心に教化して居らるゝ、との事で、自分もかゝる有難いお方に是非お会いしたいも のと思つた。
 着伯後ブラヂル第二位の大都市サンパウロに、同行の熱願によって南米本願寺を創建し近き將來駐在開發使を招く事に議決し、開教本部を設けて本由の正式認可を得て本格的南米開教の幕を切って落したのであつた。御法主台下より頂 いた御本尊と御消息とを捧持してバラナ。ソロカバナ。バウリスタ。 ノロエステ各鉄道沿線を町から村へ、村から村へ、或時は山間僻地まで巡講した。何分北半球と南半球とは気候が全然反對である。自分は十一月から三月迄の降雨期に着伯したのであるが、今年は割合に降雨が少く晴天の日が後くも炎烈続くが如く全く紅塵万丈の惡道路に随分悩まされた。交通狀態、衛生狀態は完全の域に達して居ないので全くの難行路であつた。四五百哩の處は同國自慢の航空路を利用した。全くみ佛と旅寝々々の 念佛行路であったのである。巡講の行程約五千哩、延回數百八十回に及んだが、開拓先亡者追悼法要 戦歿英霊追悼法要を勤め御消息披露、宗務総長暁烏欲師の在伯同朋へのメッセーヂ傳達、複演、青年講話、信仰座談會、御示談も開き深更まで蚊の群を追いつゝお同行と語り明した事は数限りなくあつた。此の巡講に於て御兩方様御渡伯準備の事を懇談したが何處に行つても快よく承諾してくれた。
 此の旅の先々で豫て羅府で足利教授からその高徳を聞いて居た岡田英定氏の御遺徳を細々と聞かせて頂いた事は誠に大きな収穫であつた。氏の業績は大きく強化の 跡は廣く、そして深いのに敬服した。全くの念佛行者で南米の妙好人、南米開数の先驅者と云っても決して過言では無い。自分は同氏より親しく法を聞かして頂き度いと思つて居たが、既に故人となつて居られた事は誠に残念至極であった。

 同氏は和歌山縣出身で大谷派門徒の家に生れ神戸高等商業學校(現在の商科大學)教授の要職に在つたが、大正十五年大いに志す所あつて開拓精神に燃えて家族同伴し渡伯されたのであつた。神戸高等商業學校在職時代より常時の知識階級が宗教無関心であつたに反して大谷派の耆宿で足利教授の實父足利瑩含師、蜂屋賢喜代師の御手厚い薫陶を受け途に入信して親鸞聖人のみ教を身を以って体験した熱烈な信仰家であつたのである。 遙々と一万二千理の波濤を越えて七十餘日の長航海を終えてブラヂルサントス港に御家族同伴して上陸された。上陸後一先づノロエステ線リンス驛近くバルボーサ耕地へ当事の渡伯の手続き上止むなく一介の農業移民として入植されたのであった。

 その當時一般在留邦人は布哇(ハワイ)北米の最初の移民が歩いたと同じ様に唯出稼根性一杯で、物質慾のみに走り唯働く一方で精神的教養に心掛ける者は極めて稀れで、宗教なんか無関心のものが大部分であつた。唯一家全部渡伯した一部の人 が日本に居る時からの先祖の宗風を守っつて佛像や先祖の位牌を飾り朝夕禮拝して居た程度であつた。 此は明治四十四年第一回移民着伯以来、日伯移民條約によつてカトリック教が國教として偉大な勢力を以って社會民衆に君臨して居たので、佛教開教使も基教牧師も正式に宗教家として渡航を禁ぜられて居たので精神的滿足を得る方法も無く又自然に宗教無関心になるといふ誠に氣の毒な狀態であったのである。

 唯當時在留邦人は日本から同伴した子女や同國で生れた二世に對する教育方面には関心を持つて居た。同國の官立學校は勿論ブラヂル語に依る教育であるが現今とても同じ様であるが小學一年生から四年生迄しか義務教育制度が無かつた。それで母國語を忘れない様にする計りでなく知的教育を補充 して大いに向上せしめる爲めに、 父兄の力で日本語學校を方々に建設して通學せしめたのであつた。 此には日本の出先官憲や日本の文部省も非常に力を入れて講師や指導者を送ったり、或處では建設資金さへ下附した處もあつた。又強育普及会が創立され研究や奨励に力を注いで居た。

 岡田氏は此の会の懇望(こんもう)によって購師として各植民地を巡回して教育奨励に大いに努力せられ、その功績は非常に大きいものがあつた。 然し同胞間には真の落付きのある宗教的方面は空白状態であった。 僅かに日本で少し經文を讀誦し御法話の出来る程度の人があると、 その方に頼んで法事や葬儀を行つて貰ふ狀態であつた。況んや深く信仰の世界を語る人とてなく一般の邦人は求めようともしなかつたのである。岡田氏は此を見るに忍びずして自ら各地に赴いて親鸞聖人の他力本願を語った。當時は此の尊い体験の告白にも馬耳東風の人が大部分であったが、氏の熱烈な捨身說法に耳を傾けるものが段々増加して来た。氏は常に遥々日 本から御伴して来た畏れ多くも明治天皇の御名のある如来様の御絵像を各地に捧持して、自らは僧の風姿を決してせず唯々洋服の上に御法主台下御下附の輪袈裟を掛け恩師足利瑩含師より頂いた聖典を持ち歎異鈔中心に淳々と法を説いて廻った。年月が経つにつれ渡伯前多少聽聞して居た者や全然無關心であつた者も、漸次(ぜんじ)氏の倦まず撓まざる傳導に敬服し聽聞する様になつて行つた。當時熱烈に法を求め途に入信して岡田氏の隨行まで志す中年の方があつた。此れが後年佛門に入りブディストダイゼスト誌に南米の親鸞とまで賞掲されるに至つた廣島縣出身伊藤空眞氏である。伊藤氏は岡田氏に隨喜渇仰し師事すると同時に自らも當時開拓に余念なかった平野運平氏を主班とする平野植民地及近郊の人々に法を語り法雨をそそいで行った。
 後年岡田氏の教化がノロエステ線及各線一帯に亘り浸み込んで行つて、氏はサンパウロ市に移転さるるに當りノロエステ線カフエランジャ驛近くトレスバレスの地に同行の懇念(こんねん)に依って一宇が建立せられ、此に伊藤助一氏(後の空眞)を 住せしめられた。伊藤氏は此の一宇の堂守となつて居られたが後年サントス港に上陸した計りの廣島縣出身で本派に借籍のあつた井上白道氏を住職として迎へ、井上氏他界後伊藤氏は住職代理を勤められた。此の一宇こそ終戦後約五百コントス(邦貨五百万圓)を投じて完成され全伯隨一の伽藍となつた現在の光明寺である。伊藤氏は七十二才の老軀を押して本年訪日し、正式に得度を受けて開教使に補せられたのであつた。

 岡田氏の教化は遂に寺を建て信を育てるに至ったと云へよう。 其後岡田氏はノロエステ線一帯の同行達に惜しまれつゝ遂にサンパウロ市に移った。氏はサンパウロ市に居を定め日本語普及の為め巡講の傍ら有縁の地に真宗を説いた。氏の教化を受け篤く他力本願の教えを頂いて居る同行達の追憶談によると、同行より一宇を建立せん事を度々申出たが氏はれを聞き入れず、飽迄一居士一念佛行者として進んで行かれた。各處で催された報恩講や家庭法話会は常に滿堂で あつた。當時カトリック教は国教として絶大な勢力があったが、 田氏の言動にしては格別厭迫(えんはく(えんぱく))を 加へる様な事はしなかったそうで ある。

 氏は又同行達の不便を見るに忍びず全く新しい型の真宗勤行聖典を編纂出版した。片假名の横書きであつて、いつも横書きの葡語を見つけて居る同行達への深い思ひやりであろう。十餘年前の出版聖典に佛教聖典数篇入れてあるのも新味があった事と思く。自分は未開の地で手垢のついた聖典を見て尊く思った。又氏は着伯後地方教化の傍ら同氏の恩師の一人たる蜂屋賢喜代師の信仰月刊雑誌成同を相當多量に送附を受けて同行に配布して信心のおすすめとせられ太平洋戦勃發迄続けられた。此は岡田氏の法徳を遥かに敬慕された大阪の製藥王武田長兵衛氏が、毎月相當な費用を投じて寄進された尊い報恩の行であつたのである。此が伯國開教史上文書傳道の嚆矢(こうし)と云へ よう。(つづく)

南米佛教の先驅者 岡田英定氏(讀)
大舘誓

 此の岡田氏の法態は年月と共に擴大(かくだい)し深化して、お念佛同行として 育て上げられたものは無限りなくある。
終戦後、憲法は改正されて信教の 自由が認められ、明治四十四年第 一回移民渡伯以來一人の正式な開教使も居ず、勿論、寺とてもなく蔭の如き存在であつた佛教、特に真宗が、公然と社会に浮び出て、 篤信の同行によつて御法の取持ちをなす様になり、新寺院も建立せ らる、に至つたが、これは全く岡田氏の不退轉の教化がその原動力 となり推進力となったといつても決して過言ではない。氏は全く南米開教、特に真宗發展の為めの大恩人、先驅者として、滿腔の感謝を捧げるものである。自分の過去六ヶ月間滞伯中の色々の経験から すれば、あの交通機関の不完全な衛生狀態も思はしくない土地で、常時は餘程文化の低い生活に甘んじて居た在留邦人間に、困苦缺乏(こんく けつぼう)に堪えて、よく名身命を賭して教化せられたものと、岡田氏の信仰力に感服せざるを得ない。信は力なりとは、全く氏の生活態度を 云ふものであらう。

 岡田氏は、日伯交断絶後、伯國官憲の指命によつて、止むなく夫人を同伴し子女を残し、又多年育て上げたお同行と別れて、常時の日本官憲と共に交換船で歸國された。當時既に在留邦人の旅行の自由も束縛されて居たが、少数の同行は涙と共にサントス港から同氏夫妻を見送った。交換船で歸國されたことを聞いた奥地の同行は、 泣いて別れを惜んだといふことである。

 同氏夫妻は歸國後、佐賀縣に疎開して居られたが、遂に病を得て往生の素懐を遂げられたとの事である。現在生存して居る岡田氏お育ての同行で現在開教本部顧問をして居る七十三才の富山縣出身の高田良藏翁から詳しく模様を聞き、 益々岡田氏に對する敬慕の念をあつくした次第である。

 同氏は、渡伯後數年にして先夫人に先立たれたが、六人の子女の事を思ひ、一度歸國して現夫人と再婚し同伴し再渡伯せられたのである。現在の岡田未亡人にも二人の子女があり、共々に成長して立派な農業家として成功して居られるのもあるし、又他家に嫁(か)して良き母となつて居られるのもある。岡田未亡人は二年前、子女に呼び寄せられて、現在サンパウロ市で静 かにお念佛の生活を送って居られるのである。    (完)



(掲載の写真は、交換船で歸國前の岡田氏夫妻のスナップで、 篤信の同行、高田良藏翁の秘蔵のものである。)

以上のお話は、今年ブラジルに来てくださった、現在ニューヨークで開教をしている、名倉幹(なくら みき)先生が送ってくださった資料を書き起こしました。先生ありがとうございます。

静坐会を開いておいでですので是非ご参加ください。


 ・静坐会:毎週水曜、土曜朝9時から1時間(日本時間)
 このリンクをクリックしてご参加ください。
https://us06web.zoom.us/j/6270065912?pwd=MUZmTVg0SHFFQVA4aGd1em1ZV0Vydz09
ミーティングID: 627 006 5912
パスコード: kikou

静坐とは、腰をしっかり立てて物理的に最も安定した姿勢を作り、長く鼻から息を吐き続け、同時に臍下丹田に力を入れていく坐・呼吸法です。座布団、または椅子に腰掛けて行います。毎回丁寧にお伝えします。

 会費:なし


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2024/02/26

2024年時点・Google Meetを解約したわけ お朝勤と法話と座談の動画付き 「Budismo Bádico 土曜日のお朝勤 『凡夫(ぼんぶ)』とはお経の鏡に映る私の姿" Ser tolo" é o meu verdadeiro reflexo no espelho dos Sutras.」

Google Meetを一時解約したわけ 

Google MeetからZoomへの移行の決意

Googleが開発したGoogle Meetには、YouTubeとのシームレスな連携を期待していました。一ヶ月の契約を試み、その機能性を探求しましが、期待に反していくつかの技術的な障壁に直面しました。特に、音声のハウリングが頻発し、オンライン法要で20名近くの参加者との円滑なコミュニケーションが困難であることが明らかになりました。参加者からのフィードバックも同様で、以前Zoomを使用した場合にはこれらの問題が発生しなかったとのことでした。

 そこで私は、Zoomを使用してのオンラインイベントの可能性を探ることに決めました。もちろん、遭遇した問題がアプリ自体の問題なのか、それとも私の使用方法に起因するものなのかを見極めることも重要です。私の目標は、ネットを通じた法事や勉強会をより効果的に、より参加者にとって魅力的にする方法を見つけることにあります。理想としては、YouTubeでのライブ配信を行いつつ、オンライン座談会への参加と切り替えがスムーズに行えるようなシステムを構築することです。Google Meetではそのような機能は見つけられませんでしたが、技術の進化には常に目を光らせ、より良い解決策を模索し続けます。

技術は日々進化しています。私たちのコミュニケーション方法もまた、それに合わせて変化し続けるでしょう。今回の体験は、その進化の一部であり、私は引き続き最新のテクノロジーを学び、理想的なオンラインイベントの実現に向けて努力を続けます。

以下実際の動画

Budismo Bádico 土曜日のお朝勤 にて。

以下は動画内の法語の解説です。

『凡夫(ぼんぶ)』とはお経の鏡に映る私の姿" 

Ser tolo" é o meu verdadeiro reflexo no espelho dos Sutras.


以下法語を受けての感話です。




『凡夫』という言葉は、私たちが持つ無明や煩悩を指すものであり、これらは日々の行動や思考に深く根ざしています。お経、特に浄土真宗において重要視される教えでは、これらの煩悩が悟りへの道を阻む障害であるとされています。しかし、これらを認識し、受け入れることが、真の悟りへの第一歩となるのです。


お経は、まるで鏡のようなものです。この鏡には装飾もなく、ありのままの私たちを映し出します。日常生活で私たちが見る鏡は、時に自分の姿を良く見せようとしたり、欠点を隠そうとしたりします。しかし、お経の鏡は違います。お経の鏡は、私たちの内面、そして真実の姿を映し出します。私たちが持つ怒り、欲望、嫉妬などの煩悩は、この鏡を通じてはっきりと見えるのです。


親鸞聖人は、「凡夫」であることを自認しました。これは、自らの煩悩に満ちた存在であることを深く自覚し、それを受け入れることから始まります。私たちは、自らの煩悩を認め、それに直面する勇気が必要です。この勇気が、私たちを真の悟りへと導く鍵となります。


お経を聞くこと、仏法に触れることは、自己の真実を知ることです。耳障りの良い言葉を求めたり、自己正当化を目指したりするのではなく、自己の真実を受け入れることが重要です。そして、この過程で阿弥陀如来の光明に照らされることにより、私たちは自己の本質をより深く理解することができます。


煩悩は、私たちが意識しているときだけでなく、無意識のうちにも常に存在しています。親鸞聖人が語ったように、臨終の一念まで煩悩は消えることがありません。しかし、これを悲観するのではなく、阿弥陀如来の無限の慈悲と共に、私たちは存在するのです。怒りや憎しみを感じたとき、それは自己への苦痛でもありますが、同時に自己を深く理解する機会でもあります。


お経の鏡に映る「凡夫」の姿を通じて、私たちは自己の真実に目を向け、阿弥陀如来の慈悲の光に照らされることで、真の悟りへの道を歩み始めることができます。この道は容易なものではありませんが、お経と仏法の導きにより、私たちはその道を歩む勇気と希望を持つことができるのです。



A palavra "凡夫" refere-se às nossas ignorâncias e desejos incontroláveis, que estão profundamente enraizados em nossas ações e pensamentos diários. No ensinamento budista, esses desejos incontroláveis são considerados obstáculos no caminho para a iluminação. No entanto, reconhecer e aceitar essas paixões é o primeiro passo para a verdadeira iluminação.


Os sutras são como um espelho, sem adornos, refletindo-nos como realmente somos. Os espelhos que usamos no dia-a-dia podem, às vezes, ser usados para melhorar nossa aparência ou esconder nossas imperfeições. Mas o espelho dos sutras é diferente. Ele reflete nosso interior e nossa verdadeira forma. Através dele, nossas raivas, desejos e invejas, que são as paixões, ficam claramente visíveis.


Mestre Shinran reconheceu-se como um "凡夫". Isso começa com a profunda autoconsciência de ser um ser cheio de paixões e aceitá-lo. Precisamos ter a coragem de reconhecer nossas próprias paixões e enfrentá-las. Esta fé é a chave que nos leva à verdadeira iluminação.


Ouvir os sutras e entrar em contato com o Dharma é conhecer a verdade sobre nós mesmos. Não se trata de procurar palavras agradáveis ou tentar justificar nossos atos, mas de aceitar nossa verdadeira natureza. E, neste processo, ao sermos iluminados pela luz de Buda Amida, podemos entender mais profundamente nossa própria essência.


As paixões existem não apenas quando estamos conscientes delas, mas também inconscientemente, o tempo todo. Como Mestre Shinran disse, essas paixões não desaparecem até o momento de nossa morte. No entanto, em vez de desesperar, devemos reconhecer que existimos junto com a infinita compaixão de Buda Amida. Sentir raiva ou ódio pode ser doloroso para nós, mas também é uma oportunidade para um entendimento mais profundo de nós mesmos.


Através da imagem do "凡夫" refletida no espelho dos sutras, começamos a olhar para a verdade sobre nós mesmos e, iluminados pela compaixão de Buda Amida, podemos começar a caminhar no caminho para a verdadeira iluminação. Este caminho não é fácil, mas com a orientação dos sutras e do Dharma, podemos encontrar a coragem e a esperança para continuar nossa jornada.



わが心

鏡に映るものならば

さぞや姿の

みにくかるらん

        

                            田辺 親子



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2024/02/21

老・病・死を見て世の非常を悟る 『 無量寿経』 今週のことば 尾畑文正   中日新聞コラムより ブラジルポルトガル語翻訳あり

老・病・死を見て世の非常を悟る

『無量寿経』







今週のことば 尾畑文正


王族であった釈迦は、城郭の外に出て苦の現実を見たとされる。門の外とは、インド社会の貧困と差別を象徴している。そんな現実を土壌にする仏教に引かれて、何度もインドを旅した。ある年、ガンジス川沿いのベナレスの火葬場付近に一週間滞在した。


 毎日、死者たちが焼かれて灰になるまで見ていた。その炎が、与えられた命を弄んで、共に生きる世界を見失っている私を叱責するように感じられた。それは、自ら善とし他を悪として自己を絶対化して生きる私に「おまえは何者か」と問いただす炎であった。


 自己絶対化と言えば、その典型 は「やつは敵だ。敵は殺せ」とする究極の人権侵害としての戦争である。戦争が続く現在、私たちには、かつての日本の侵略戦争への無反省、現在に続く民族差別への無頓着が改めて問われている。その問題を抜きに、現在の戦争をひとごとに論じてはいないだろうか。自己絶対化は正義の顔をして現れる。


(同朋大名誉教授)






“Ao ver a velhice, a doença e a morte, a pessoa se dá conta da impermanência do mundo”


“Sutra da Vida Imensurável”


Palavras da semana 


Bunsho Obata


Diz-se que o Buda, que era da realeza, saiu dos portões do castelo para ver a realidade do sofrimento. O lado de fora do portão simboliza a pobreza e a discriminação da sociedade indiana. Atraído pelo budismo, que suja essas realidades, viajei para a Índia muitas vezes. Em um ano, passei uma semana perto do crematório em Benares, no rio Ganges.


 Todos os dias, ele observava os mortos queimarem até virarem cinzas. As chamas pareciam uma repreensão a mim por brincar com a vida que me foi dada e perder de vista o mundo em que vivemos juntos. Foi uma chama que me perguntou: "Quem é você?", pois vivo minha vida me absolutizando como bom e os outros como maus.


 Falando em auto-absolutização, o epítome disso é o direito humano supremo de dizer: "Ele é o inimigo, mate o inimigo. A guerra é a maior violação dos direitos humanos. Hoje, enquanto a guerra continua, mais uma vez somos convidados a refletir sobre a falta de remorso pela guerra de agressão do Japão no passado e sobre nossa indiferença à discriminação étnica que continua até hoje. Sem essa questão, será que não estamos discutindo a guerra atual caso a caso? A auto-absolutização aparece em face da justiça.


(Professor Emérito, Universidade de Doho)



ポルトガル語の単語とその日本語訳:


1. velhice - 老年

2. doença - 病気

3. morte - 死

4. impermanência - 無常

5. sofrimento - 苦しみ

6. pobreza - 貧困

7. discriminação - 差別

8. realidade - 現実

9. crematório - 火葬場

10. cinzas - 灰

11. repreensão - 叱責

12. inimigo - 敵

13. guerra - 戦争

14. violação - 侵害

15. direitos humanos - 人権

16. remorso - 反省

17. agressão - 侵略

18. discriminação étnica - 民族差別

19. justiça - 正義


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翻訳にあたっての大事な構文:


1. "Ao ver a velhice, a doença e a morte, a pessoa se dá conta da impermanência do mundo” - 「老・病・死を見て、人は世の無常を悟る」

   - 主語「人」が後に来るのがポルトガル語の特徴。


2. "Diz-se que o Buda, que era da realeza, saiu dos portões do castelo para ver a realidade do sofrimento.” - 「王族であった釈迦は、城郭の外に出て苦の現実を見たとされる」

   - 関係代名詞「que」を使用して関連付ける表現。


3. "Atraído pelo budismo, que suja essas realidades, viajei para a Índia muitas vezes.” - 「そんな現実を土壌にする仏教に引かれて、何度もインドを旅した」

   - 「Atraído pelo budismo」の「pelo」は「por」+「o」で「仏教によって」を意味する。


4. "Todos os dias, ele observava os mortos queimarem até virarem cinzas.” - 「毎日、死者たちが焼かれて灰になるまで見ていた」

   - 時間を示す「Todos os dias」の表現。


5. "Falando em auto-absolutização, o epítome disso é o direito humano supremo de dizer: 'Ele é o inimigo, mate o inimigo.” - 「自己絶対化と言えば、その典型は「やつは敵だ。敵は殺せ」とする究極の人権侵害としての戦争である」

   - 「Falando em」で「~について言えば」という意味になる。


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2024/02/17

「海を渡った仏教:伊原太平とマリリアの真宗本願寺建立譚」マリリア真宗本願寺の最初の僧、侶伊原太平(伊原善行)とは ポルトガル語と日本語

  1. 「海を渡った仏教:伊原太平とマリリアの真宗本願寺建立譚」




このテキストは伊原太平の孫の伊原妙子さんによって作成されました。
2023年12月3日京都からおいでになった大谷裕開教司教をマリリア真宗本願寺に迎え、伊原妙子さん自身がお寺建立の歴史を読み上げてくださいました。


このビデオは私がお朝勤の時に読んだ日本語です。
 

Quem foi Tahei Ihara


Tahei e Mitino e 2 filhos Natsuyo (12 anos) e Minoru (2 anos), partiram do Porto de Kobe, na 5ª leva, em 05/03/1913 no navio Daini Unkai Maru e chegaram no Porto de Santos em 07/05/1913..

Tahei veio com a formação de monge budista, além de ser construtor e carpinteiro no Japão. Trouxe em sua bagagem o seu material de carpintaria.

Ele teve dificuldades de adaptação na lavoura e após 5 anos, em 1918, decidiu chamar o seu filho primogênito que ficou no Japão, Taigoro (16 anos).

Shigueyo (9 anos) ficou para dar continuidade à família.

E assim foi na 21ª leva, no navio Hakata Maru, saindo de Nagasaki, no dia 11/07/1918 e chegando no Porto de Santos em 02/09/1918 que Taigoro chegou ao Brasil.

E assim a família trabalhou na lavoura por 10 anos, de 1918 a 1928, quando então conseguiram ter dotação financeira para adquirir terreno na cidade de Marília. 

Em 1932, já com a residência construída, migraram da Fazenda Palmital para a cidade de Marília, Tahei e Mitino com seus 7 filhos: Taigoro (30 anos), Minoru (21 anos), Tieko (17 anos), Iossiko (14 anos), Kimiko (12 anos), Yukimassa (9 anos) e Xiromu (7 anos). 

Tahei então passou a se dedicar para o seu trabalho de monge para disseminação dos ensinamentos budistas.

Na cidade de Marília, e Região, residiam muitas famílias japonesas. Não havia como saber o número exato dessas famílias porque na época não havia pesquisa oficial da população diz o IBGE.

Tambem foi nessa época que Tahei como monge e construtor demonstrou seu desejo de construir um templo na cidade.

O contato que ele manteve com o Rvdo Eijo Okada que em 2015, fundou em Tres Barras, Cafelâ ndia, o Templo Shinshuji, posteriormente, Komyoji suponho deve tê-lo motivado pela construção do templo.

E para atender esse desejo de Tahei, Taigoro, adquiriu em 1935, esse terreno, para construção do templo.

A construção teve que ser adiada pois, o principal objetivo na época foi a manutenção da família e a educação dos irmãos menores, segundo Taigoro. 

Em 1938, Iossiko (20 anos) e Yukimassa (16 anos) foram enviados para São Paulo para estudarem, ela em corte e costura e ele na área comercial.

Iossiko ao retornar abriu um curso de corte e costura nas dependências da residência e Yukimassa quando retornou com experiência em comércio iniciou junto com os seus irmãos nesta área, abrindo uma loja de armarinhos, com bons resultados.

Em 1946, considerando haver possibilidades de realizar o desejo de Tahei, os irmãos e junto com os demais familiares decidiram pela construção do templo.

De início, Tahei contou segundo sua filha Iossiko, com a enorme colaboração do casal Noto, jovens que contribuíram muito na angariação de doações.

A construção contou com doações de todas as famílias da cidade e região, além de pessoas voluntárias em marcenaria e carpintaria, inclusive na escultura do ícone sagrado por Azuza Ogawa.

Ainda, Toshio Saizaki, Akune Senzaki e Yoshito Senzaki foram ativos voluntários nessa construção.

Em 1949, o templo foi concluído, já para uso conquanto, ainda sem a finalização da parte externa.


Sobre a gestão do Templo

Eleita a 1ª Diretoria, que elaborou e registrou o Estatuto em Cartório.

Surgiram questões relativas a especificação do templo se “Higashi e ou Nishi”, e a questão tramitou em Juizo, concluindo para não especificação da mesma.

Alteração estatutária foi feita, seguindo o resultado do Processo Judicial.

Tahei residiu no Templo de 1951 a 1954.

Parte de seguidores, descontentes com esse resultado, reativaram o processo em 1957, com a eleição da nova Diretoria.

Processo esse concluído em 1961, dando ganho de causa a antiga Diretoria.

Concluindo, a parte vencida decidiu pelo afastamento do templo e fundar seu próprio templo.

伊原太平とは


太平とミチノは、2人の子供、夏代(12歳)と実(2歳)を連れて、191335日に第5次移民団として神戸港から第二雲海丸に乗り、191357日にサントス港に到着しました。

太平は、日本で僧侶の教育を受けたうえで、建設業者兼大工でもありました。彼は大工道具を荷物として持ってきました。

彼は農業に適応することに苦労し、1918年に日本に残した長男の太吾郎(16歳)を呼び寄せることにしました。

重世(9歳)は家族の継続のために残されました。

そして1921年、太吾郎(たいごろう)が第21次移民団として長崎から出発し、博多丸に乗り、191892日にサントス港に到着しました。

そして家族は1918年から1928年までの10年間農業を営み、その後マリリア市に土地を購入するための財政的基盤を築くことができました。

1932年、マリリア市に家を建てた後、太平とミチノは7人の子供たち、太吾郎(たいごろう)(30歳)、実(21歳)、ちえこ(17歳)、よし子(14歳)、君子(12歳)、幸正(9歳)、しろむ(7歳)と共にパルミタル農場からマリリア市に移住しました。

太平はその後、仏教の教えを広める僧侶としての仕事に専念しました。

当時、マリリア市とその周辺には多くの日本人家族が住んでいました。国立統計局によると、当時は公式の人口調査がなかったため、これらの家族の正確な数は分かりませんでした。

また、この時期に太平は僧侶兼建設業者として、市内に寺院を建設する願望を示しました。

彼が2015年にカフェランディアのトレス・バハスに真宗寺を設立した後、光明寺に改名したえいじょう岡田との接触が、寺院建設への動機付けになったと思われます。

そして太吾郎(たいごろう)は、1935年にその土地を購入し、寺院建設のために太平の願いに応えました。

建設は、主な目的が家族の維持と弟妹の教育だったため、一時延期されました。

1938年、よし子(20歳)と幸正(16歳)が、彼女は裁縫、彼は商業分野で学ぶためにサンパウロに送られました。

よし子は帰郷後、家の敷地内で裁縫のコースを開設し、幸正は商業経験を培って帰郷後、兄弟たちとともに商売を始め、手芸店を開いて良い結果を出しました。

1946年、太平の願いを叶える可能性があると考え、兄弟たちは他の家族メンバーとともに寺院の建設を決定しました。

初め、太平の娘よし子によると、能登夫妻の大きな協力を得て、寄付金の集めに大いに貢献しました。

建設は、市内および周辺のすべての家族からの寄付、および大工や木工、小川あずさによる阿弥陀仏像彫刻のボランティアを含め、多くの人々の協力を得ました。

さらに、斉崎敏夫、阿久根仙崎、嘉人千崎もこの建設における積極的なボランティアでした。

1949年、寺院の建設が完成し、外部の最終仕上げがまだされていないものの、使用が可能になりました。



寺院の管理について

初代理事会が選出され、定款が法務局に登録されました。

寺院の「東派か西派か」という問題が生じ、裁判で処理され、特定しないことに決定されました。

法的手続きの結果に従って、定款の変更が行われました。

太平は1951年から1954年まで寺院に住んでいました。

一部の信者がこの結果に不満を持ち、1957年に新しい理事会の選出とともにプロセスを再開しました。

このプロセスは1961年に終了し、旧理事会に勝訴が認められました。

結局、敗れた側は寺院を離れ、自分たちの寺院を設立することにしました。


以上



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