2021/08/31

口伝鈔 6章 ポルトガル語翻訳 原文 現代文付き note



 今日紹介するのは、私のもう一つのブログnoteに掲載しているものです。普段は日常のあまり宗教的でない話を書いていますが、私の本職はブラジルでの僧侶をしていて、毎日のYouTubeでの朝のお勤めのライブ配信の後の法話(感話)で使用するテキストをnoteというブログに掲載しています。


 notoは広告がつかずレイアウトもスッキリしていてまさにnotoとしてシェアしやすいのが特徴です。

宣伝も兼ねて今回はこちらにもシェアさせてもらいます。よかったら登録して朝のお勤めも一緒にしましょう!毎日少し読経して、親鸞聖人や仏教のお話を聞くのは生活を潤すことになります。 拙いですがポルトガル語でも話すようにしています。

https://note.com/izushu


ポルトガル語です。この翻訳は東本願寺のオフィシャルの確かなポルトガル語です。

 Capítulo 6 


Sobre o Ícone Sagrado e as Escrituras Sagradas 


Quanto a disputas entre discípulos e companheiros de busca, privando alguém do Ícone Sagrad24 e das escrituras sagradas, e advertindo contra tais coisas. 

   Uma vez quando Mestre Shinran estava presente, Shingyō Niizutsumi, proveniente da província de Hitachi25, intencionalmente discorreu contra um ponto doutrinário explicado pelo Mestre e foi excluído, sendo mandado de volta para casa. O discípulo Ren'i disse: "Sendo que Shingyō vai deixar a Irmandade e voltar para casa, devemos pedir-lhe para retornar seu Ícone Sagrado e as escrituras sagradas em sua posse, especialmente porque você assinou suas cópias do ensino sagrado como Shaku Shinran. Pergunto à Irmandade: ele vai tratar esses itens com respeito?" 

   Mestre Shinran respondeu: "Nunca devemos exigir o retorno do Ícone Sagrado ou escrituras sagradas. Especialmente porque eu não sou um professor, nem chamo ninguém de discípulo. "Somos todos discípulos do Tathagata26. Nós somos companheiros de senda. Ao refletir sobre o ato de receber o Verdadeiro Coração Confiante do Ir-nascer através do Nembutsu ela aparentemente surge dos meios hábei27 dos dois Honrados do Mundo- Shakyamuni e Amida - e não por causa da minha intervenção. "Quando surgem diferentes opiniões no mundo, a terra se enche de demandas para devolver o Ícone Sagrado e escrituras sagradas, para devolver os títulos conferidos e para restituir o Verdadeiro Coração Confiante recebido. Após a contemplação, percebe-se que tais coisas não devem ser feitas. 

   "O Ícone Sagrado e as escrituras sagradas são pretendidos como 



24 Do japonês [gohonzon], objeto de devoção. 


25 Atual Prefeitura de Ibaraki 

26 Tathagata em sânscrito, literalmente "aquele que veio" (da Verdade) 

27 Em sânscrito: [upäya] 




meios hábeis que beneficiam seres vivos. Se alguém decidir cortar laços comigo e entrar na comunidade de outra pessoa, não tenho monopólio de tais materiais. Os Ensinamentos do Tathagata fluem livremente por todo o mundo. "Mesmo que alguém não goste da forma como eu, Shinran, exprimo os Ensinamentos, então leve as escrituras sagradas para as montanhas e despeje-as por lá e os seres vivos nesse lugar certamente serão salvos por aqueles escritos, destinados a beneficiar os seres em todos os lugares. Assim, um almejado desejo de beneficiar todos os seres vivos será cumprido." 

   "Temos que entender esses itens como um tesouro pertencente aos seres comuns não iluminados e não podemos nem mesmo pensar em exigir seu retorno. Leve isso a sério”.



原文は西本願寺のサイトを利用しています。東本願寺のサイトはふりがなの確認に使っています。 お西のサイトは言葉の意味のリンクがついているので活用しやすいのです。 お東のサイトは真宗聖典に則っている点で使いやすいです。



原文


本尊と聖教 (お東には小見出し無し)

(6)

一 弟子・同行をあらそひ、本尊・聖教を奪ひとること、しかるべからざるよしの事。

 常陸の国(ひたちのくに)新堤(にいづつみ)の信楽坊、聖人[親鸞]の御前にて、法文の義理ゆゑに、仰せをもちゐまうさざるによりて、突鼻(とっぴ)にあづかりて本国に下向のきざみ、御弟子蓮位房(れんにぼう)申されていはく、「信楽房の、御門弟の儀をはなれて下国のうへは、あづけわたさるるところの本尊・聖教をめしかへさるべくや候ふらん」と。「なかんづくに、釈親鸞と外題のしたにあそばされたる聖教おほし、御門下をはなれたてまつるうへは、さだめて仰崇(ぎょうそう)の儀なからんか」と[云々]。聖人の仰せにいはく、「本尊・聖教をとりかへすこと、はなはだしかるべからざることなり。そのゆゑは親鸞は弟子一人ももたず、なにごとををしへて弟子といふべきぞや。みな如来の御弟子なればみなともに同行なり。念仏往生の信心をうることは、釈迦・弥陀二尊の御方便として発起すとみえたれば、まつたく親鸞が授けたるにあらず。当世たがひに違逆(いぎゃく)のとき、本尊・聖教をとりかへし、つくるところの房号をとりかへし、信心をとりかへすなんどいふこと、国中(こくじゅう)に繁昌(はんじょう)と[云々]、かへすがへすしかるべからず。本尊・聖教は、衆生利益の方便なれば、親鸞がむつびをすてて他の門室に入るといふとも、わたくしに自専(じせん)すべからず。如来の教法は総じて流通物(るずうもつ)なればなり。しかるに親鸞が名字ののりたるを、法師にくければ袈裟さへの風情にいとひおもふによりて、たとひかの聖教を山野にすつといふとも、そのところの有情群類、かの聖教にすくはれてことごとくその益をうべし。しからば衆生利益の本懐、そのとき満足すべし。凡夫の執(しゅう)するところの財宝のごとくに、とりかへすといふ義あるべからざるなり。よくよくこころうべし」と仰せありき。


ふりがな 東本願寺 真宗聖典検索サイト

https://shinshuseiten.higashihonganji.or.jp/contents.html?id=1&page=655



現代文はKindleで購入することができます。

以下にリンクあります。ふりがなは私が打ち直しています。



現代文


 弟子や同行を争い、本尊や聖教を奪い取ることは、よろしくないということ。

常陸(ひたち)の国新堤(にいづつみ)の信楽房が聖人(親鸞)の前で経文の意味について聖人の仰せられることを故意に用いなかったためにおとがめを受けて、本国に帰って行くとき、お弟子の蓮位房(注4)が申し上げて、「信楽房がお弟子のあつかいを離れて帰国するうえは、お渡しになった本尊と聖教はお取りかえしになられたらいかがでしょう」と言った。[そしてさらに〕「とりわけ、釈親鸞と外題の(注5)下にみずからお書きになった聖教が多いのですから、ご門下を離れます以上は、きっと崇敬の念も無いのではないでしょうか」と言った。聖人のいわれるには、


 本尊や聖教を取りかえすことは適切なことではない。そのわけは、親鸞は弟子は一人も持たない(注6)からである。なにを教えたことで弟子と言うことができるのであろうか。だれもが如来のお弟子であるから、みな共に念仏のなかまである。念仏によって浄土に生れると信ずる心がえられるのは、釈尊と阿弥陀仏のお二方がてだてとして起して下さったものである、と説かれていることだから、これはまったく親鸞が授けたのではない。今日、おたがいに意見が異なる時、本尊や聖教を取りかえし、付けてやった房号を取りかえし、信心さえも取りかえすなどということが、国じゅう到るところでさかんに行われているといわれているが、これはかえすがえす適当ではない。本尊や聖教は、生あるすべてのひとを救うためのてだてであるから、親鸞との交りを捨てて、他の門下にはいるといっても、わたしだけで独占してはならない。如来の教えは総じて世間に広がって行くものだからである。ところが、親鸞の名前が載っているものを、法師が憎いときは袈裟まで憎いといった風に、厭わしく思って、たといその聖教を野・山に棄てるとしても、そこに住むさまざまなものたちがその聖教によって救われて、すべてがその恩恵をうることだろう。そうとすれば、生あるものに恵みを与えようという仏の本意は、そのとき満たされることになろう。愚かなひとが執着するところの財宝のように、取りかえすということは、あってはならないことである。よくよくこのことを心得なければならない。と仰せられた。


同行心をひとしくし、信仰を等しくして、同じ道にいそしむもの。親鸞には弟子はない、すべては同行であり、同朋である、と説かれた。ここから、等しく同行、同朋として相互に敬愛する風が生じたのである。


本尊 崇敬の対象として観想や礼拝・讃嘆される仏。菩薩などの像、またはそれを示す名号、符号などをいう。法然の「没後起請文」によると、かれは「三尺弥陀立像」を本尊としていたことが知られる(真宗聖教全書四・五三一)。六字の名号を本尊としたかどうかは明らかでない。また絵像が礼拝の対象とされたが、絵像のうちに「摂取不捨曼陀羅(まんだら)」とよばれるものが用いられたことは 『興福寺奏状』によって知られ、これが旧仏教側の反感を呼んだものの一つであった。親鸞では名号が重視され、南無阿弥陀仏の六字、南無不可思議光如来の九字帰命尽十方無得光如来の十字が用いられたことは、かれの書によって認められる。また 『改邪鈔』第二章参照。一七三ページ。



三 

信楽 『親鷺門侶交名牒(きょうみょうちょう)』万福寺本に下総「ニヰツ」の信楽をあげている。 『吾妻鑑』元久二年十一月十五日の条にかかげる念仏行者、相馬次郎師常(もろつね)の子で、親鸞の門弟の中でも重きをなしていたが、この時の勘気(かんき)で門弟を去ったらしい。しかし覚如がさだめた二十四輩(解説参照。二五四ページ)にはその名を連ねているから、改めて門弟のなかに加えられたのかもしれない。ただ 『ロ伝鈔』は明らかに常陸(ひたち)とするが、 『交名牒(きょうみょうちょう)』その他は下総(しもうさ)とし、新堤(にいつづみ)を新地とするから、同名異人の疑いはある。また二十四輩を定めたときに、生存していたひとではない。


蓮位 親鸞に常随した弟子。 『交名牒(きょうみょうちょう)』にも「洛中」として掲げる。 『末燈鈔』には、慶信が親鸞に送った手紙に「進上聖人の御所へ蓮位御坊申させ給へ」(同二・六七六)とあって、蓮位にとりつぎをたのんでいることが知られ、蓮位もまた病中の師に代って、長文の返事を慶信に書き送っている(同二・六七七ー六八0)。このことは随侍(ずいじ)の弟子であったことをよく語っているが、蓮位はまた師より 『教行信証』を付嘱された弟子の一人で、証巻・真仏土巻がかれに与えられたことは注目される。本鈔第十三章に、蓮位の夢の記をのせる。


外題  書物の表紙に書かれた標題。法然が親鸞に付嘱した 『選択集』には、「選択本願念仏集の内題の字と、并びに南無阿弥陀仏、往生之業念仏為本と釈綽空の字」とが法然の真筆で書きしるされた( 『教行信証』後序、同二・二〇二)という。またこのとき法然の肖像が描かれているが、これにも法然は真影の銘を書き与えている。


親鷺は弟子は一人も持たない 『歎異抄』第六章参照。二七ページ。





https://amzn.to/2Vp6yP0


歎異抄・執持抄・口伝抄・改邪鈔 (東洋文庫0033) Kindle版

親鸞 (著), 石田 瑞麿 (翻訳)



以下はネットで見つけた今回の6章に登場するお弟子さん信楽房のいわれです。

ネット社会になってこういう情報も手軽に手に入れることができるのでありがたいことです。 



浄土真宗本願寺派正法寺

親鸞聖人二十四輩より

http://www.sol.dti.ne.jp/~shiraka/24hai.html



 信楽房の俗姓は、鎮守府(ちんじゅふ)(陸奥(みちのく)・出羽二国の蝦夷(えぞ)を鎮定するために置かれた役所)将軍、村岡五郎良文の流れをくみ、千葉介(ちばのすけ)常将(つねまさ)四代の孫千葉介常胤(つねたね)の嫡子(ちゃくし)、相馬(そうま)二郎師常(もろつね)の子、三郎義清(よしきよ)とあり、いわゆる武家の出である。寺伝によると、義清は当時下総(しもうさ)の太守(たいしゅ)の任をもち「にいつつみ」に住んでいたが、建暦二年(1212)関東に入った親鸞聖人が伝道に力を入れはしめた頃、義清の守り本尊薬師如来の霊告により、聖人の法を聞いて弟子となった。義清は法名を信楽と賜り、自邸を改造して一宇を創建し親鸞聖人の教えを実行した。「仮初の教えにそむく言の葉は世々の誠を諌めしもかな」と歌った信楽房は、親鸞の忠実な弟子であったに違いない。しかし、信楽房は親鸞聖人の教えに異議を唱え聖人の元を去ったが、覚如上人が父覚恵上人と共に関東に行かれたとき(1290)、信楽房と会われ、信楽房は自分の非を悔い帰参を許されている。信楽房が亡くなる一年前のことである。



 以上のような形ですが、毎日少しづつ区切って、ポルトガル語の単語の意味と原文や日本語を検証しています。ちょっとした語学の勉強にもなっています。それに言葉を伝えるということの大切さを学べます。仏教はインドから中国、そして日本へと翻訳されてきた教えです。心や精神をどう伝えていくのか? 私たちが日本語で話していても伝わらないことがあります、言語が違えば尚更ですが、その言語を学ぶと同じ日本語で話していても伝え方の勉強になります。


「ブラジル・シュウちゃんねる」


2021/08/28

中日新聞 今週のことば   尾畑文正  ポルトガル語・英語翻訳付き 「私は花火の事を考へてゐたのです。我々の生(ヴィ)のやうな花火の事を。」 芥川龍之介「舞踏会」

2021/08/27

ブラジルの自動洗車機で愛車トヨタ・エチオスを洗った



 ここマリリアは人口が25万人くらいの小さな都市です。私の知る限りではこの紹介したガソリンスタンドにしか自動洗車機はありません。

 五十肩が痛くってとても自分の手で洗車できない日が続いているので、給油のついでに洗車をすることにしました。急遽動画を撮影しました。天気も良くって洗車日和でしたよ! 29レアルしましたが大満足です。日本円で六百円くらいです。


 日本では自動洗車の料金


はいくらくらいなんでしょうね? 今ネットで調べてみたら300円かららしいです。手洗いだと2500円くらいだそうです!

 ブラジルでは機会が一番下ランクが19レアル400円くらいからでした。私はフルコースのワックスまでして乾燥までしてくれるので600円だからいいですね!? でもブラジルと日本の物価は違うので一概に比べることはできませんが。 


ブラジルでの手洗い洗車


は車内の簡単な掃除も込みで50レアル1000円くらいです。ガラスコーティングワックスを先日見積もりしてもらいましたが、200レアル!4000円でした!!!!

でも軽い傷なら直してしまい、傷がつきにくく汚れも落ちやすくなるそうです。 いつかやってみたいです。


まあ、自動洗車は早く仕上がるのがメリットですね。天気も良く気持ちも良かったのです。動画でも述べていますが、子供の頃初めて父親と車の中に乗ったまま洗車機に入った楽しい経験を思い出しました。 ワクワクしますよね。 子供時代のワクワクをちょっと思い出してくれしかったです。

今度孫のニコラスを乗せて見せてあげたいな!

 

 ちなみにエチオスとはEtiosと書き、トヨタの世界戦略車の一つです。ギリシャ語の「精神、理念」を意味するEthos(エトス)という単語から作られた造語。とのことです。ブラジル以外でもアフリカインドで活躍しています。いまはもうヤリスにその座を奪われそうになっていますが、現在でも販売中!


なぜか愛知おすと変換されるので、やはりトヨタの本拠地である、愛知県推しのダジャレも意味に入っているのではないかと邪推してしまいます😀


それでは動画をご覧ください。チャンネル登録やいいね評価をよろしくお願いします。励みになります。


​ @Shu channel・ブラジルのシュウちゃんねる



「ブラジル・シュウちゃんねる」




       妻のファビア



2021/08/20

感動YouTube 紹介。 劇団ひとり「ウケすぎて天井が崩れた」ー 佐久間宣行のNOBROCK TV ー 【トーク】劇団ひとりがマジでお笑いを語った より 

  YouTubeで感動した動画を紹介。


 今年2021年は中田敦彦の予言通りたくさんの芸能人がYouTubeに登場してますね。みる側からしたら嬉しくて嬉しくて久しぶりにテレビを夢中でみていた楽しい時代を思い出しながら見ています。

ここ最近は芸能人だけにとどまらず、元テレビの有名プロデューサーが顔出しで出てきています。これもYouTubeならではの現象ではないでしょうか?

その中の一人、佐久間宣行さんのYouTubeが超絶面白いので紹介します。

 私は全く裏方の事情は知らなかったのですが「ゴットタン」という番組はユーチューブで知っていました。それを作っている人らしいのですが何気なく佐久間宣行のNOBROCK TVを見たら最初は企画ものであまり面白くなかったのですが、下に紹介する対談が最高に面白かったです。


劇団ひとりの「ウケすぎて天井が崩れた」。奇跡を目の当たりにした劇場での思い出話。「キス我慢選手権」は本当に全部アドリブだった話。

逆にドンずべりした経験話。ジョイマンの持ちギャグ「一歩、二歩、三歩、チンポ!」をいつでも100%振り切る話。などなど見どころ満載です。

アクセルを踏み込みやすいようにスタッフが空気を作ってくれる話も感動したなー

是非ご覧ください。 笑えて元気がもらえる動画になっています。そしてこれが導線となって、他の動画もどんどん見たくなると思います。

                       


 劇団ひとり「ウケすぎて天井が崩れた」





ー 佐久間宣行の
NOBROCK TV ー 【トーク】劇団ひとりがマジでお笑いを語った より。 

「ブラジル・シュウちゃんねる」





2021/08/16

終戦記念日 青木新門さんの終戦体験談紹介。 ポルトガル語訳 付き

 





2021年の8月15日

この日は日本では終戦記念日になっています。
私が毎日のように閲覧しているフェースブックの青木新門さんの言葉がある。
親鸞聖人の念仏の教えを伝える「念仏広場」と青木新門さん自身が名付けている。

終戦も76年目を迎え、歴史的には当然歳を重ね昔話になっていきますが、私にとっては若い頃よりは年齢も50を過ぎて自分が歳を取るに従って身近に感じるようになってきている。
人間50歳を過ぎたら過去が身近になり、逆に未来は乏しくなるのもある意味道理なのでしょう。
 私自身は昭和42年生まれなので戦争の厳しさや悲しみは直接味わっていないものの、現在はコロナというある意味戦争の状態に似ている世相なので、歴史で習ってきた戦争の悲惨さをより身近に感じるのかもしれません。

青木新門さんは映画「おくりびと」の原作である『納棺夫日記』の著者として有名だが、私にとっては現在はフェースブックでほぼ毎日親鸞聖人の念仏の功徳を説いて念仏をする人を一人でも増やそうとしている人として認識している。






その新門さんが8月15日に自身の悲惨な体験を吐露しつつ、同時にその悲惨さの中から全ての人を等しく救う宗教的境地を届けてくださっているので紹介します。

 私は毎朝YouTubeでここ南米のブラジルから朝のお勤めを届けていますが、そこでも朗読しているのでそちらもご覧ください。 動画は最初はお経を読んで最後に感話という形で、仏教の言葉を日本語とポルトガル語で届けています。
このブログでは動画の次の段から日本語とポルトガル語を紹介しています。
是非ご覧ください。



 


青木新門 フェースブックより。

{8月15日} 南無阿弥陀仏

今日8月15日は、76回目の終戦記念日である。

私が終戦を迎えたのは旧満州であった。八歳であった。

父は出兵していないし、母とまだ乳飲み児であった弟と三歳の妹と四人で難民になった時、弟は間もなく死んだ。母の乳が出なくなったからである。妹も引き揚げの途中で、栄養失調で歩けなくなり、私が背負っていた背中で死んだ。出発した時の難民の群れの数は、引き揚げ船の待つ大連に着いた時は半数になっていた。だから私は少年の日から無数の死を見て来た。特に私の場合、後に納棺夫となって、何千体もの死者に接する仕事をして来たわけで、常に死を見つめ、死について考えて来た人生だったと言っても過言ではない。

つねに<死>について思索していると、結局<生>について思索することになる。生と死は一つものだと気づかされる。仏教は生と死を分けて思考することはない。仏典であれ、親鸞聖人の『教行信証』であれ、生とか死といった言葉は見当たらない。すべて<生死>である。例えば生と死を分けて「生から死へ移ると心得るはこれ誤りなり。生死の中に仏あれば生死なし」(道元)とか、「証知生死即涅槃」といったように、生と死を分けて用いられることはない。近代ヨーロッパの思想などは、常に生か、死であって、生と死を分けて思考されている。清沢満之は「生のみが我等にあらず 死もまた我等なり」とおっしゃったが、大学で西洋哲学を教えておられた頃は生と死を分けて思考されてられたのが、結核で死に直面された時、ハッと気づかれたのだと思う。

孔子が「未だ生を知らず、況や死を」と言われたのも、生と死を分けて思考しておられるといえる。だから孔子の思想はこの世を生きる処世訓であっても生死を超えた宗教とは成り難い。あくまでも六道輪廻の輪から解き放されていない世界である。空海は、生と死を分けているかぎり闇であると詩的に表現して、仏教しか解脱はないのだと説かれたのであった。

生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く  死に死に死に死んで死の終りに冥(くら)し  ー「空海・秘蔵宝鑰」

この闇を破るには、弥陀の光明しかないのである。

「ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船。無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」-「教行信証・総序

私が8月9日のブログに「弟の死体を背負った少年」の写真を載せたが、あの少年は生と死を帯で結び、生死一如の瞬間に顕われる光明を浴びていたのだと私は思っている。私が満州の大地に妹の亡骸を捨てた時、何か大きな悲しみに包まれたような気がした。その大きな悲しみこそは如来大悲だったのだと、後に親鸞聖人の御教えに出遇って確信するようになった。

「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられれば、かへってまた曠劫を経暦せん(流転を繰り返す) まことなるかな、摂取不捨の真言、超世稀有の正法、聞思して遅慮することなかれ」(総序)

私の終戦記念日は、念仏に出遇った宿縁を慶び、恩徳讃を唱える日となった。

 如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし  南無阿弥陀仏


ポルトガル語
{15 de agosto} Namu Amida Butsu

Shinmon Aoki

Hoje, 15 de agosto, é o 76º aniversário do fim da guerra.

Terminei a guerra na Manchúria. Eu tenho oito anos.
Meu pai havia enviado tropas e meu irmão mais novo morreu durante um caso de refugiado com minha mãe, um bebê e uma irmã de três anos. Isso porque não saiu o leite da minha mãe. Minha irmã também durante estava voltar, desnutrida e andava, e ela morri na minha costas.

O número de refugiados no momento da partida era metade quando eles chegaram a Dalian, onde o barco de resgate estava esperando. Então, eu vi inúmeras mortes desde a infância. Especialmente no meu caso, mais tarde me tornei um coveiro e trabalhei e encorntoro com milhares de mortos, então não é exagero dizer que minha vida sempre foi olhando para a morte e pensando na morte.

Se você está sempre pensando em <morte>, acaba pensando em <vida>. Percebe-se que vida e morte são uma coisa. O budismo não pensa em vida e morte separadamente. Seja uma escritura budista ou do Mestre Shinran " Kyogyoshinsho ", não há palavras como vida ou morte. Todas são <vida e morte>. Por exemplo, vida e morte são separadas, e é errado saber que passar da vida para a morte. Se há um Buda em vida E a morte, não há vida ou morte (Dogen), ou "nirvana instantâneo de vida e morte". Não será usado separadamente. Os pensamentos na Europa moderna são sempre vida ou morte, e a vida e a morte são consideradas separadamente. Kiyozawa Manshi disse: “Só a vida não é nossa, e a morte também é nossa.” No entanto, quando eu ensinava filosofia ocidental na universidade, pensava na vida e na morte separadamente. Acho que fui notado de repente quando me deparei com a morte por tuberculose.

Pode-se dizer que Confúcio pensa sobre a vida e a morte separadamente porque disse: "Ainda não sei sobre a vida, e a situação e a morte." Portanto, o pensamento de Confúcio dificilmente será uma religião que transcende a vida e a morte, mesmo Se for um preceito para viver neste mundo. É um mundo que não foi liberado do círculo de Rokudo Rinkai. Kukai poeticamente descreveu-o como escuridão, desde que separasse a vida da morte, e foi dito que apenas o Budismo poderia ser liberado.

Nascido Nascido Nascido Nascido Escuro no início da vida Morte Morte Morte Morte no final da morte- "Kukai / Tesouro Tesouro"

Apenas a luz de Amitabha pode quebrar essa escuridão.
"Se você olhar para ele em segredo, o juramento misterioso é um grande navio que torna o mar difícil.

Postei uma foto de "um menino carregando o cadáver de seu irmão mais novo" em seu blog em 9 de agosto, e ele estava na luz da vida e da morte com um cinto. Acho que sim. Quando joguei o cadáver de sua irmã na terra de Na Manchúria, senti como se estivesse em grande tristeza. Mais tarde, vim a ser convencido pelos ensinamentos do Mestre Shinran de que a grande tristeza era a grande tristeza de Tathagata.

"Ah. Se você me perguntar, não vou conseguir repetir o Kalpa de novo (repetir o fluxo), me pergunto se é verdade, o mantra da ingestão, a rara lei do super mundo, não tenha medo de pensar sobre isso "(Introdução)

Meu aniversário do fim da guerra foi um dia para celebrar o caso do Nembutsu e elogiá-lo.

Mesmo que tenhamos de pulverizar nossos corpos,Devemos retribuir a Graça da Grande Compaixão do Tathagata;Mesmo que tenhamos de esmigalhar nossos ossos,Devemos agradecer os Benefícios dos Mestres.

Namu Amida Butsu



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