2022/10/24

仏像の裏書の解読をお願いします

 どなたかこの文字読める方解読をお願い致します。


現在90歳代のブラジルに移民されたおばあちゃん結婚の時に父親から形見分けされた仏像の裏書です。

日本のルーツを忘れない様にと託され、現在息子さんがその文字意味を知りたくてクリチーバの酒井先生にお尋ねしたものです。

パラナ州のクリチーバから100キロのカストロ在住の方です。


おそらく寄進した人の名前と住所と日付さらに仏師の名前が書いてあるのかな? と思うのですがいかがでしょうか?




「ブラジル・シュウちゃんねる」



2022/10/14

お寺の猫住職、サラも菩薩なのでしょう  野川博之先生の漢詩 仏典には「菩薩は時として畜生に身を代えて相手を済度する」とある。  妙音菩薩の34種の分身の中に「畜生身」ありとするお経文(『法華経』妙音菩薩品)がそれだ。

たまに紹介しているまだ会ったことのない野川博之先生の漢詩を紹介します。


私もお寺にサラと名付けた道端で出会った猫がいます。おとなしくて可愛い雌猫です。一番お寺にいるのはサラなのでお寺の住職はサラなのです。
 サラは毎朝のお朝勤にも必ず参加します。野口さんの台湾の犬の漢詩が素晴らしいので転載させていただきます。

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 これは10数年以上も昔、もとの勤務先(台湾台南市の私立「立徳大学」。今の名称は「康寧大学台南校区」)で守衛さんに撮って頂いた校犬とのツーショットであります。


 このワンちゃんは2017年秋に死んでのち、
キャンパス内に葬られたと聞いておりますが、
草木の成長が東南アジア並みに早い台湾南部にあって、
そのお墓を探り当てるのは困難となっておりましょう。



9月11日夜
                      野川博之 敬上

       中秋憶立德大學校犬「小黃」(母狗,2006-2017)
(中秋に立徳大学の校犬・小黄〔シャオファン,♀,2006~2017〕を偲んで)
                  野川博之     
                                            2022.09.11
埋骨荒園垂五年,  ○●○○○●◎ 骨を荒園に埋(うず)めて 五年に垂(なんな)んとす
一生功就入西天;  ●○○●●○◎ 一生功(こう)就(な)って 西天(さいてん)に入(い)る
與君重會知何處,  ●○○●○○●  君と重ねて会(かい)す 知んぬ いずれの処(ところ)ぞ
不用臺南立墓前!  ●●○○●●◎ 用(もち)いず 台南にして墓前に立つを
  (仄起式,平聲先韻)


 君が荒れかけた校庭に骨をうずめてから、そろそろ丸五年になろうとしています
   (元の勤務先は、残り少ないすべての学生たちを送り出したら廃校と決定)。
 君は学園を守るという、今生での功績を成就して、遠く西方浄土へと赴いたことでしょう。
 君とどこで再会できるかはわかっております。
 それゆえ台南まで赴いて、荒れ果てた墓前に立とうとは思いません


    深謝「小黃」與「小黑」勵我良多

(「小黄」(前出)と「小黒」(シャオヘイ,♀,2011~2018)とが大いに私を励ましてくれたことを深く感謝して)
             野川博之                                                      2022.09.14

與我相親如善朋, ●●○○○●◎ 我と相(あい)親しむこと 善朋(ぜんぽう)の如し
悅他為樂發歡聲; ●○○●●○◎ 他を悦ばしむるを楽と為し 歓声を発す
經文有證君知否? ○○●●○○●  経文 証あり 君 知るや否(いな)や
卅四分身含畜生! ●●○○○●◎ 卅四(さんじゅうし)の分身(ふんじん) 畜生を含む
  (仄起式,平聲庚、蒸通韻)


 良き友人さながらに私と仲良くしてくれた君らよ。
 他者を喜ばせることに楽しみを見い出し、歓声をあげてくれたものだった。
 仏典には「菩薩は時として畜生に身を代えて相手を済度する」とある。
 妙音菩薩の34種の分身の中に「畜生身」ありとするお経文(『法華経』妙音菩薩品)がそれだ。



 詩題に出て来る「小黒」(シャオヘイ,♀,2011~2018)とは、雑種の台湾犬であります。
私を2011年9月以降2017年9月まで実に5年間も無料で置いてくださった「圓光仏学研究所」(台湾桃園市,国際空港そば)
で飼われておりました。

 番犬として大いに本分を尽くしてのち、2018年秋に死亡、
学校に隣接する庭園「智慧林」に葬られております。





       寵物度人,功不可沒
(ペットも人を救う。その功績は見落とせず)
                    野川博之                                               2022.09.15

菩薩分身數固多, ●●○○●●◎ 菩薩の分身(ふんじん) 数 もとより多し
萬機堪度績堪歌; ●○○●●○◎ 万機(まんき)度するに堪えたり績(せき)歌うに堪えたり
悲心不怕今生短, ○○●●○○●  悲心 怕(おそ)れず 今生(こんじょう)の短かきを
乘願重來志未磨! ○●○○●●◎ 願(がん)に乗じて重ねて来たり  志いまだ磨せず
   (仄起式,平聲歌韻)


 菩薩さまには何種類もの分身がおありで、
 だからこそさまざまな機根(きこん)の衆生を再度することができ
   その功績は謳歌するに値するのであります。
 その慈悲の心は、自己の今生での生涯が短いことを恐れず、
 誓願のままに再度この世へやって来ては、ペットの身で主人となった相手を済度するのだ、
   という意気に燃えていらっしゃいます。

9月16日午前
                        野川博之 合掌

「ブラジル・シュウちゃんねる」

2022/10/12

お寺の向かいの家が取り壊しに入りました。動画 ーブラジル散歩ー より

 久しぶりのYouTubeです。今朝から向かいの角の空き家が取り壊しを始めました。





去年おばあちゃんが亡くなり、今年おじいちゃんが亡くなりました。おじいちゃんは日系でお寺でも数回法事をされました。挨拶程度のお付き合いでしたが寂しい気持ちになります。

 養子の娘さんが、家に住んでしばらくお世話していましたが結局売りに出すことになったのです。空き家になったあと、家の部品を取る空き巣が来たり、ドラッグ売買の拠点になって環境が悪化していましたが、ようやく買主が取り壊しを開始しました。

 おそらく警察と市役所の要請で重い腰を上げたようです。この土地を買ったのは Marilanというブラジル全国に販売網を持つお菓子屋さんです。日本でいうところの明治や不二家みたいな大手です。ここマリリアに本店・工場があります。名前の通りマリリアが発祥の地とのことです。実はここマリリアには他にもネッスルやDoleという有名な工場があります。水がいいからと聞いたことがあります。

 しかしいざ家が取り壊されるのを見ると見慣れた風景が壊されているようで、少し寂しい思いになります。私もブラジルに来て15年、ここマリリアに来て9年目になるのです。

将来は大きなマンションが建つのでは?と妻のファビアは言ってます。




 そうはいっても、来年の今頃には慣れてしまうのかもしれません。


「ブラジル・シュウちゃんねる」




2022/10/11

「争いのない世界」が彼岸。「差別する楽しみ」を超える。 ブラジル・マリリア彼岸法要 法話 浦西真人 開教使 ポルトガル語翻訳付き 動画もあります。

マリリア真宗本願寺 お彼岸 

法話 浦西真人 開教使










 みなさんはじめまして。ブラジル別院から参りました浦⻄真人と申します。ブラジルに来て、 今は3年と3ヶ月になります。 

今日は、少しだけお時間をいただいて「お彼岸」についてのお話をさせていただきます。 「お彼岸」というのは、ご存知の方も多いかと思いますが、お浄土のことです。お浄土を彼岸、 そして、今、私達が生きている娑婆世界を此岸と言います。 

そんなお浄土とは、どういう世界だと思いますか? お浄土は、極楽浄土とも言います。みな さんは、お浄土にはどんな楽しみがあると思いますか。想像してみて下さい。私が持つ楽しみの イメージですが、おいしい食べ物があって、おいしいお酒もあって、空気がきれいで、仕事をす ることもせず、いつも休みで旅行に行って温泉に入って。というのが、私が持つ楽しみのイメー ジです。 

ただ、お浄土の世界というのは、もちろんそういう世界ではありません。お浄土とは、端的に 言えば、「争いのない世界」です。それが、私達にとっての本当の楽しみでなければならないんで す。 

三つの楽しみ

昔、曇鸞大師というお坊さんが中国におられました。皆さんも何度も聞いたことのある「正信偈」の中に出てきます。その曇鸞さんが、私達には3つの「楽しみ」があると教えてくれていま す。 

1つ目は、「五感による楽しみ」です。きれいな景色を見たり、心地よい音楽を聞いたり、フカ フカの布団に触れたり、美味しいものを食べたり、良い匂いを嗅いだりするような楽しみです。 私が想像する楽しみも大体がこんなものです。皆さんの中でも、今日の法要の後に食べる「ぼた 餅」が楽しみな方がおられると思います。そういう楽しみが1つ目の楽しみになります。 

次に2つ目の楽しみですが、この2つ目の楽しみがとても心に刺さります。それは「差別する 楽しみ」です。差別することが楽しみだと聞くと「頭がオカシイのではないか」「そんなものが楽 しいわけがないだろう」と思う人がほとんどだと思います。しかし、みなさん、少しだけゆっく りと考えてみて下さい。日本には、「他人の不幸は蜜の味」という言葉があります。嫌いな人が、 誰かに怒られていたら「ざまあみろ」と、楽しくなってしまうことはありませんか?私達は気づ いていないだけで、いつの間にか、他人の不幸が楽しみになってしまっていることはあるのでは ないでしょうか。 

実は、私達の生活の中で最も深刻に根付いていのが、この「差別する楽しみ」なんだと思いま す。私自身もそうですが、日常生活のことを思い返すと、差別をしたり、人をバカにすることで 知らず知らずのうちに、満足したり、楽しんでいる自分がいます。 

そんな私たちを悲しんでいるのが仏様なのです。人をバカにしたり、差別することで楽しもう としている私達を悲しんで、「本当にあなたが願っていることは、何ですか?」と問いかけてくだ さるのが、阿弥陀仏のはたらきです。それが実は言うと、3つ目の楽しみなんです。「仏様の功徳による楽しみ」です。それが、私達にとっての本来の楽しみであり、先程言いました浄土という争いのない世界の楽しみです。

ゴミがあるから綺麗 

浄土真宗を明らかにされた親鸞聖人は、お浄土の世界を海に例え、人間を川に例えられます。 

川には色んな川がありますね。きれいな川があったり、汚れた川があったり、温かい川や冷たい 川、流れが速い川やゆっくり流れる川。いろいろあると思います。そして、私たち人間も、様々 な違いがあります。私たちは、必ず生まれと育ちが違います。生まれで言えば、男と女で違って きます。育ちで言えば、私自身、まだまだブラジルのことが詳しくありませんが、ブラジルの中 でも環境や文化が違うと思います。そういった、違いの中で生きていますので、誰もが全く違っ た人生を歩んでいます。そして、その違いのなかで争ってしまったり、差別してしまったりして います。 

そんな川のようなバラバラな存在である私たちに対して、親鸞聖人は争いが無い世界である浄 土を海に例えられました。海と聞くと皆さんは、どういうイメージを持ちますか?私は綺麗だな あというイメージを持っています。しかし、よく見ると海にはたくさんのゴミが落ちてます。日 本ですと、ペットボトルのゴミがとてもたくさん落ちています。海はきれいだという風なイメー ジを持ちますが、実はたくさんのゴミが落ちていて汚いんです。 

ただ、ある人は、ゴミがあるからこそ奇麗なのだとおっしゃいました。なぜだか皆さん分かり ますか?その人は、ゴミなど色んなものを包むからこそ海はきれいなのだ、とおっしゃいました。 これは、汚いから入れないということがないんです。そういった、なんでも包み、受け入れるの が海であり、だからこそ綺麗なんです。日本では、海のことを「母なる海」と言います。それは、 母親というのは、いくら我がままな子供であっても、やんちゃで悪さばかりしてしまう子供でも 受け入れてくれるんです。私自身、母親が苦手ですが、だからといって、母親は私を見捨てるこ とはありませんでした。ですので、親鸞聖人が、浄土を海に例えられたということは、一人たり とも見捨てないという事なんです。浄土に入れない人なんていないということなんです。私たち が川であれば、川は必ず海にまで流れますから。人間同士、様々な違いがありますが、それでも、 何があっても見捨てない仏様の功徳こそが私達にとっての楽しみになるんです。 

最後になりますが、どんな人も争いが好きな人はいないと思います。喧嘩した後などは、後悔 することの方が多いです。それでも、些細なことで私達は争って傷つけ合ってしまっています。 そんな私達に「あなたの本当の願いに気づきなさい、本当の楽しみに気づきなさい」と呼びかけ、 「あなたが本当の願っていること、本当の楽しみは、争いなどせず色んな人と一緒に生きていく ことでしょう」と教えてくださっているのが仏様です。回りくどい話になったかも知れませんが、 その願いを改めて聞いていくのが、彼岸会法要です。 

今日は、ご清聴いただきありがとうございました。 

              



Prazer em conhecê-los. Meu nome é Masato Uranishi, e vim do Betsuin em São Paulo. Já estou no Brasil a três anos e três meses.

Hoje, eu gostaria de falar sobre a "Ohigan". Como muitos de vocês devem saber, "Ohigan" refere-se à Terra Pura. A Terra Pura é chamada a outra margem, e o mundo atual em que vivemos é chamado de o esta margem.

Que tipo de mundo você acha que é a Terra Pura? A Terra Pura também é chamada da Terra Pura da Paz e Alegria. Que tipo de Alegria você acha que existe na Terra Pura? Imagine isso. Tenho esta imagem de Alegria: boa comida, bom álcool, ar puro, sem trabalho, sempre de férias, viajando e me banhando nas fontes termais. Essa é a imagem que eu tenho de Alegria.

Mas o mundo da Terra Pura, é claro, não é assim. Em poucas palavras, a Terra Pura é um mundo sem conflitos. Esse deve ser a verdadeira Alegria para nós.


No passado, havia um monge na China chamado Mestre Tanluan. Ele é mencionado nos “Shoshinge“(poema de verdadeiro fé) que você já ouviu muitas vezes. Ele nos ensinou que temos três tipos de Alegria.

O primeiro é "o Alegria através dos cinco sentidos". 

A primeira é "desfrutar através dos sentidos", como ver belas paisagens, ouvir música agradável, tocar a roupa de cama fofa, comer comidas deliciosas e sentir bons cheiros. Estes são os tipos de Alegrias que eu imagino que a maioria de nós desfruta. Tenho certeza de que alguns de vocês estão ansiosos pelos Botamochi (bolos de arroz) que comeremos após o serviço cerimonial de hoje. Esse é o primeiro tipo de Alegria.

A segunda Alegria é realmente que se mantém na minha mente. É o "divertimento da discriminação". A maioria das pessoas que ouvem que é divertido discriminar pensam que não é verdadeiro ou que tais coisas não podem ser divertidas. No entanto, por favor, reserve um momento para pensar sobre isso. 

No Japão, há um ditado: "O infortúnio humano tem gosto de mel". Se alguém de quem você não gosta está com raiva de você, você não se sente às vezes feliz ? Podemos nem perceber isso, mas antes de sabermos, estamos desfrutando da desgraça dos outros.

Na verdade, acho que foi este "gozo da discriminação" que mais seriamente se enraizou em nossas vidas. Quando penso em minha própria vida cotidiana, dou por mim inconscientemente desfrutando e ficando satisfeito por discriminar e fazer troça dos outros.

O Buda tem compaixão e tristeza por nós como tal. Ele se entristece com nossas tentativas de nos divertir fazendo pouco e discriminando os outros, e nos pergunta: "O que é que você realmente deseja? A ação de Amitabha Buda é nos perguntar: "O que é que você realmente deseja? Esse é na verdade o terceiro tipo de diversão. É "o gozo através dos méritos do Buda". Esta é a Alegria original para nós, a Alegria da Terra Pura, um mundo sem conflitos, como mencionei anteriormente.



Mestre Shinran que revelou Jodo Shinshu, comparou o mundo da Terra Pura com o mar e as pessoas com os rios.


Há muitos tipos de rios, há rios limpos e rios sujos, rios quentes e rios frios, rios de fluxo rápido e rios de fluxo lento. Existem muitos tipos diferentes. Nós, humanos, também somos diferentes em muitos aspectos. Todos nascemos e fomos educados de maneira diferente. Em termos de nascimento, homens e mulheres são diferentes. Em termos de educação, eu mesmo ainda não estou familiarizado com o Brasil, mas acho que, mesmo dentro do Brasil, o meio ambiente e a cultura são diferentes. Vivemos em um ambiente e uma cultura tão diferentes, portanto, a vida de cada um é completamente diferente. E por causa dessas diferenças, as pessoas lutam e discriminam umas contra as outras.

Mestre Shinran comparou a Terra Pura, um mundo onde não há conflito, com o mar. Que imagem você tem quando ouve a palavra 'oceano'? Eu tenho uma imagem de como é bonito ,entretanto se você olhar com atenção, verá que há muito lixo no mar. No Japão, há muito lixo de garrafas plásticas. As pessoas têm uma imagem de que o mar está limpo, mas na verdade, há muito lixo na praia e está sujo.

No entanto, uma pessoa disse que é por causa do lixo que o mar está limpo. Você sabe por quê? Ele disse que o mar está limpo porque aceita muitas coisas, inclusive lixo. Isto significa que você não pode deixar nada entrar porque está sujo. É o oceano que envolve e aceita tudo, e é por isso que ele está limpo. 

No Japão, o mar é chamado de "mar-mãe". Isto porque uma mãe aceita uma criança, não importa o quão egoísta ele seja, não importa o quão malicioso ou maliciosa ele seja, mas isso não significa que mãe abandona o filho.                 

Portanto, quando Mestre Shinran compara a Terra Pura ao oceano, significa que ele não abandonará nem mesmo uma pessoa. Não há ninguém que não possa entrar na Terra Pura. Se formos um rio, o rio sempre fluirá para o mar. Nós humanos temos muitas diferenças, mas ainda assim, o mérito e a virtude do Buda, que não nos abandonará aconteça o que acontecer, é o que temos que esperar ansiosamente.

Por último, mas não menos importante, não acho que ninguém goste de lutar. Depois de uma briga, muitas vezes nos arrependemos. Mesmo assim, ainda lutamos e nos magoamos uns aos outros por coisas triviais. O Buda nos chama para "realizar seu verdadeiro desejo, realizar sua verdadeira Alegria" e nos diz que “seu verdadeiro desejo, sua verdadeira Alegria, é viver junto com várias pessoas sem lutar". Pode parecer uma forma rotunda de dizer isto, mas o Rito Cerimonial do Higan-e (Equinócio de primavera ) é um momento para ouvir este desejo mais uma vez.

Muito obrigado por sua atenção de hoje.





17504-010 Rua 24 Dezembro, 1587 Marilia Sao Paulo Brasil Bairro Alto Cafezal Organização Budista Sinsyu Honganji em Marília Higashi Honganji マリリア真宗本願寺 東本願寺 Tel templo 3301-6230 / Cel monje 99731-5598 Monge Shu Izuhara facebook https://www.facebook.com/higashi.marilia




「ブラジル・シュウちゃんねる」




2022/10/07

「願いは人を動かす。 空過する人生からの解放 」 尾畑文正 名誉教授  中日新聞コラムより。ポルトガル語翻訳付き 

 中日新聞コラムから

今週のことば


仏の本願力を観ずるに、偶(もうお)うて空しく過ぐる者なし


世親『浄土論』



 空過する人生からの解放は仏の本願力に出遇うことだとインドの世親菩薩は説く。随分前、日本で働くタイ人女性を私が住職する寺で預かった。半年してタイの弁護士たちの努力で、彼女の仮パスポートもでき帰国の目処がついた。

だが、彼女は突然「アイ (仮名)は帰りたくない」と訴えた。タイ人とラオス人の間に生まれ、転々とする中で幼児労働も強いられ、自分を捨てた両親を恨んでいた。


 私は弁護士から彼女の出生証明書では彼女の本名が両親の名からできていると聞いていた。そこで彼女にあなたの親は自分たちの名に託して、小さな命にいっぱいの願いをかけていたんだよと語った。彼女は大粒の涙を書類に落とし、「私、タイに帰る」と決意し日本を出た。願いは人を動かす。 ならば、歪んだ現実が続く今、仏の本願力に出遇うとは、その現実を「それでいいのか」と問う仏の人間回復の願いに気づき立ち上がることでないか。


(同朋大名誉教授) 尾畑文正





Palavras da Semana


“Quando vemos o poder do verdadeiro Voto de Buda, não há ninguém que possa passar por ele em vão.”


O Bodhisattva Vasubandhu,  “Tratado da Terra Pura”


O Bodhisattva Vasubandhu  indiano nos diz que a libertação de uma vida vazia é encontrar o verdadeiro poder do Voto de Buda. Há muitos anos, uma tailandesa que trabalhava no Japão foi colocada aos cuidados do templo onde vivo. Seis meses depois, graças aos esforços dos advogados tailandeses, ela tinha um passaporte temporário e estava pronta para retornar ao Japão.

No entanto, ela reclamou repentinamente: "Ai (pseudônimo) não quer ir para casa". Ela nasceu de uma Tailandesa e um Lao, foi forçada a trabalhar quando criança, ao ser transferida de um lugar para outro, e ressentiu-se com seus pais por tê-la abandonado.


  O advogado dela me disse que em sua certidão de nascimento seu nome verdadeiro era formado pelos nomes de seus pais. Então eu lhe disse que seus pais haviam colocado muitos desejos em sua pequena vida em nome deles. Ela deixou cair uma grande lágrima no documento e deixou o Japão, determinada a voltar para a Tailândia. Voto movem as pessoas. Então, neste tempo de realidade distorcida, não está encontrando o verdadeiro poder do Voto de Buda de realizar e defender o Voto de restauração humana do Buda, que pergunta: "Isso é bom o suficiente?


(Professor Emérito, Doho-Universidade) Bunsho Obata



「ブラジル・シュウちゃんねる」



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