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2024/02/19

「Soraの魔法:BASICからAIへ、進化する技術が描く創造性の旅」


「Soraの魔法:BASICからAIへ、進化する技術が描く創造性の旅」


 先日OpenAiが新しくリアルな動画を作成するSoraというシステムのデモを見てびっくりしました。その時もう45年前ほど中学時代、NECのPC-8801でBASIC言語を使って日本国旗を作ったことをよく覚えています。一つ一つのコードを入力して、赤い円がゆっくり画面に現れるのを見るのは、当時としては大きな挑戦でした。それを経験してから現在に至るまで、技術がどれほど進化したかには本当に驚かされます。






今では、たった一言で「浄土の風景を描いて」とAIに頼むだけで、想像もしなかったような美しい画像や動画がすぐに作られます。BASICの時代には考えられなかったことですが、今の技術は私たちの創造力に新たな可能性を開いてくれています。

昔は、プログラミングを通じてコンピュータの仕組みを学び、そのプロセス自体から楽しみを見出していました。しかし、現代のAIは、私たちが想像もしなかった作品を一瞬で作り出すことができます。このような進化は、作業の効率化だけでなく、私たちが表現する方法を根本的に変えています。



それでも、昔のように手作業でコードを書くことの価値を再評価する必要があるかもしれません。過去の技術を理解することは、新しい創作のアイデアを生み出し、未来に向けて道を開くのに役立ちます。


 このように、BASICの時代から現在のAI技術に至るまで、技術の発展は私たちの創造性を広げてくれています。昔手作業で作った日本国旗から、AIが描く幻想的な浄土の風景まで、技術の進歩は私たちの表現方法を豊かにし、新しい可能性を提供してくれています。これからも、過去の経験を大切にしながら、新しい技術を使って、もっと素晴らしい創作物を作っていきたいものです。




「ブラジル・シュウちゃんねる」

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2024/02/09

「生まれた順に死んでいく有り難さ」 つり あきこ東本願寺の「同朋新聞」の一部をブラジル・ポルトガル語に翻訳しました。


 テクノロジーの進化が目まぐるしい現代において、仏教の教えを含む多様な文献の翻訳精度が飛躍的に向上していることを実感しています。固有名詞のような特定の項目については微調整が必要な場合もありますが、大部分のテキストは、後から妻のファビアに確認してもらっても、修正箇所がほとんど見当たらないほどです。また、一度修正を加えると、同じ誤りを繰り返さない学習能力にも驚かされます。

 この技術の恩恵により、日本の仏教法話などの文化的財産をブラジルの人々に紹介することが格段に容易になり、これは非常にありがたい進展です。

 東本願寺がネットで新聞を閲覧できるようにしてくれるようになったので、遠くブラジルからも読めるのもありがたいことです。


同朋新聞は誰でもネットからアクセスできます。

https://www.higashihonganji.or.jp/doboshimbun/



生まれた順に死んでいく有り難さ 

釣 章子 (つり あきこ)

「とんちの一休さん」でおなじみ「一休宗純禅師(いっきゅうそうじゅんぜんじ)」。ある日、一休さんは「何かめでたい言葉を書いてほしい」とお金持ちの商人に頼まれます。そして「親死 子死 孫死」と書きました。

それを見た商人はカンカンに怒りますが、一休さんは落ち着いて、こう返します。「それでは、あなたは『孫死 子死  親死』の方がめでたいのですか。『親が死に、子が死に、孫が死ぬ』、人にとって生まれた順番に死を迎えることができる、これほどめでたいことがあるでしょうか?」と。


 今から三十五年前のとある日の夜、当時小学校三年生の私は、一年生の弟と家族で近所のご門徒さんが作ってくださったカレーを食べておりました。そこに一本の電話が入り、母が入院していた産婦人科へ向かい、新しく誕生した小さな命と対面します。私たち姉弟は、もう一人の弟が産まれたことがとてもうれしくて、目の前の小さな命をずっと見つめていました。

 次弟の誕生により、私と長弟に「人を思いやる気持ち」が芽生えます。そして次弟の成長を見守りながら姉弟喧嘩もせず、仲良くすくすくと成長していきました。

 十数年後、長弟は母親の実家のお寺の住職に就任。次弟が自坊の大泉寺の跡を継ぐことになりました。私はというと、幼い時からずっとお寺のことは「他人事」。美容に興味があったので、大学卒業後は某化粧品会社に就職しました。その後サラリーマンの夫と結婚し、二人の娘にも恵まれ、仕事に子育てに充実した日々を過ごしておりました。

 

 今から十二年前に母が急死。当時八十歳だった祖母は「自分の娘の死」を受け入れることができず、通夜葬儀にも参列することができませんでした。そしてそのショックからか認知症がどんどん進行し、施設に入所することに。

母親の急死により、私は今まで「他人事」だったお寺に初めて関わることになりました。幼い子どもを育てながらフルタイムで仕事、そこにお寺の手伝いが加わり、身体も心も休まらず精神的にどんどん追い詰められていきました。

それから六年の月日が流れ、娘たちも成長。長女も小学校に入学し、生活も落ち着き始めた頃に、今度は次弟が急死。私と長弟にとって心の拠り所となる存在だった次弟(じてい)が亡くなり、言葉には言い表せないほどの深い悲しみに苛まれます。長弟(ちょうてい)と顔を合わせるたびにやり場のない怒りをぶつけ合うこともあり、互いに傷つけ合う関係になってしまいます。「強い絆」で結ばれていると倍じていた想いは、いとも簡単に脆くも崩れてしまったのです。


 既に母の実家のお寺の住職をしている長弟に今更戻ってきてもらう訳にもいかず、私は跡を継ぐことを決断しました。今までの生活を全て捨てて家族で大泉寺に移り住み、金沢真宗学院に入学。学生をしながら子育て、仏事に携わる生活が始まります。

 たくさんのご門徒さんと関わる中で知ったのは、自分より先にお子さんを亡くされるなど「受け入れがたい死」を経験されている方の多さでした。何で自分ばかりこのような目に遭わないといけないのか・・・・。当時はそんな思いにとらわれておりましたが、さまざまな出遇いをとおして、人の数だけ悲しみは存在し、皆それぞれ多くのことを抱えながら一生懸命生きておられるということを思い知りました。

認知症の祖母は今でも健在です。冒頭の一休さんの言葉に倣えば、「子死 孫死 親健在」ということになります。私は当たり前のように娘たちより先に命を終えるものと思っています。生まれた順番に死んでいくということだけが、幸せとは限らないのかもしれませんが、「親が死に、子が死に、孫が死ぬ」、この「生まれた順番に死んでいく」

という縁は、本当に一休さんの言葉通り「有る」こと「難き」、「ありがたいこと」なのだと、私としては思わざるを得ないのです。


浄土にてかならずかならずまち

まいらせそうろうべし


(「末燈鈔」「真宗聖典』六〇七頁)


 これは、親鸞聖人が最晩年に一人の門弟(もんてい)に書かれたご消息の末文で、現在の私を支えている言葉の一つです。いのちある限り別れは避けることのできないもの。しかし、親鸞聖人はお浄土といういのちの出遇い直しが果たせる場があると言い切られます。お念仏を申すということが既に、母や弟と出遇い直すことであり、私を念仏の場に導いてくれている大切な諸仏のはたらきなのでしょう。

 自分が思い描いていた人生とは全く違う人生を歩むこととなり、苦悩する日々でしたが、たくさんの方々に支えられ、自分自身の姿を見つめ直しながら、少しずつ前を向いて歩みを始めています。先に亡くなられたすべての方々は、お念仏となって生き続けている、このことを拠り所として、ご門徒や家族とともに、日々の聞法生活を大切に過ごしていきたいと思っております。






Nascemos e morremos na ordem natural, uma bênção inestimável.


Akiko Tsuri 



Conhecido pela sua sagacidade no "Ikkyu-san", o Mestre Zen Ikkyu Sojun foi um dia solicitado por um rico comerciante a escrever palavras auspiciosas. Ikkyu escreveu: "A morte do pai, a morte do filho, a morte do neto". O comerciante, furioso ao ver isso, foi acalmado por Ikkyu, que disse: "Preferiria então a ordem 'A morte do neto, a morte do filho, a morte do pai'? Há algo mais auspicioso do que a ordem natural da vida, onde pais morrem antes dos filhos, e assim por diante?"


Certa noite, trinta e cinco anos atrás, eu, então no terceiro ano do ensino fundamental, estava jantando um curry feito por um devoto vizinho com meu irmão, que estava no primeiro ano. Recebemos uma ligação, e minha mãe, que estava no hospital, nos apresentou a um novo membro da família. A chegada de mais um irmão encheu nossos corações de alegria, e ficamos encantados com a nova vida diante de nós.


A chegada do meu irmão mais novo despertou em mim e no meu irmão mais velho um sentimento de compaixão. Crescemos sem brigas, cuidando um do outro. Anos depois, meu irmão mais velho se tornou o sacerdote do templo da família de nossa mãe, e meu irmão mais novo foi destinado a suceder o templo da nossa própria família. Quanto a mim, sempre vi o templo como algo distante, tendo interesse em beleza, segui para trabalhar em uma empresa de cosméticos após a graduação. Casei-me com um funcionário de escritório, tivemos duas filhas, e vivi dias plenos entre o trabalho e a criação dos filhos.


Doze anos atrás, minha mãe faleceu subitamente. Minha avó, então com oitenta anos, não conseguiu aceitar a morte de sua filha e não pôde comparecer ao velório nem ao funeral. O choque agravou sua demência, levando-a a ser internada em uma instituição. A morte súbita de minha mãe me fez envolver com o templo pela primeira vez, um mundo que até então considerava alheio. Conciliar o trabalho em tempo integral com a criação de filhos pequenos e ajudar no templo me sobrecarregou física e mentalmente.


Seis anos se passaram, minhas filhas cresceram, e quando a vida começava a se estabilizar, meu irmão mais novo faleceu subitamente. A perda de alguém que era um pilar emocional para mim e meu irmão mais velho nos trouxe uma dor indescritível. Encontros com meu irmão mais velho frequentemente terminavam em discussões cheias de raiva, prejudicando nossa relação. Os fortes laços que pensávamos ter se mostraram surpreendentemente frágeis.


Com meu irmão mais velho já estabelecido como sacerdote no templo da família de nossa mãe, assumi a responsabilidade de suceder o nosso templo. Abandonei minha vida anterior e me mudei com minha família para o templo, ingressando no Instituto Shinshu de Kanazawa. Comecei a viver uma vida dedicada ao budismo, equilibrando estudos, criação dos filhos e atividades religiosas.


Interagindo com muitos fiéis, percebi quantos enfrentavam a dor de perder seus filhos antes de si mesmos, uma morte difícil de aceitar. "Por que só eu tenho que passar por isso?" Eu costumava me perguntar. No entanto, através desses encontros, compreendi que cada pessoa carrega sua própria tristeza e luta para viver da melhor maneira possível.


Minha avó com demência ainda vive. Seguindo as palavras de Ikkyu, "A morte do filho, a morte do neto, a avó ainda vivo" se aplicaria aqui. Eu sempre assumi que morreria antes das minhas filhas. Embora a ordem natural da morte não garanta felicidade, "a morte do pai, a morte do filho, a morte do neto" - morrer na ordem em que se nasceu - é, como Ikkyu disse, algo raro e precioso.


"Certamente, certamente, esperarei por você na Terra Pura."


Estas são as palavras finais escritas por Shinran Shonin a um discípulo em seus últimos anos, palavras que me sustentam agora. A separação é inevitável enquanto houver vida. No entanto, Shinran Shonin afirmou categoricamente que a Terra Pura é um lugar onde podemos reencontrar aqueles que perdemos. Recitar o Nembutsu já é um reencontro com minha mãe e meu irmão, guiado pelas benevolentes ações dos Budas.


Embora minha vida tenha tomado um rumo completamente diferente do que imaginei, apoiada por muitas pessoas e refletindo sobre mim mesma, comecei a avançar lentamente. Todos aqueles que se foram continuam vivos no Nembutsu, e com isso como meu suporte, valorizo a vida de ouvir os ensinamentos com a comunidade e minha família todos os dias.



「ブラジル・シュウちゃんねる」

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2023/03/28

ChatGTPとお布施の金額について話し合う。 

 



以下は私の質問とChatGTPの答えである。最後はChatGTPが僕を宥めるような形で終わっている。

以下問答


私の質問

働いて給料をもらうのと、僧侶がお布施をいただくことにはどんな違いがあるのでしょうか?


ChatGTP

働いて給料をもらうことと、僧侶がお布施をいただくことは、いくつかの違いがあります。


目的: 働いて給料をもらうことは、労働力を提供し、対価として給料を受け取ることを目的としています。一方、僧侶がお布施をいただくことは、宗教的な指導や精神的なサポートを提供することに対する信者からの感謝のしるしです。


形態: 給料は通常、現金や振込などの形で支払われ、働いた時間や成果に応じて決まります。お布施は、現金、食料、衣類など様々な形で提供され、その金額や内容は信者の自由意志によって決まります。


契約関係: 働く場合、労働者と雇用主との間に契約が存在します。この契約には、職務内容、給与、労働時間、福利厚生などが定められています。一方、僧侶と信者の間には契約関係はありません。お布施は信者から僧侶への寄付であり、義務ではなく喜捨の精神に基づいて行われます。


税制: 給与は通常、所得税や社会保険料などが適用されます。しかし、お布施は宗教活動への寄付であるため、特定の条件下では税制上の優遇措置が適用されることがあります。

これらの違いにもかかわらず、働いて給料をもらうことも、僧侶がお布施をいただくことも、共に社会やコミュニティの一部として機能しており、それぞれの価値観や信念に基づいて行われています。




私の質問

お寺で法事をする時に値段を決めているお寺がありますが、それは布施の精神に照らして正しいことでしょうか?


ChatGTP

お寺で法事を行う際に値段が設定されていることは、一般的な実践ですが、布施の精神に照らして考えると、状況によっては問題視されることもあります。


お布施は本来、信者が僧侶やお寺に対して感謝や敬意を示すために自発的に行われる喜捨であり、その金額や内容は信者の自由意志によって決まります。しかし、法事などの宗教行事に対して値段が設定されている場合、それが布施の精神と矛盾すると感じる人もいるでしょう。


一方で、お寺も維持管理費や僧侶の生活費がかかり、資金調達が必要です。法事に値段を設定することで、お寺は必要な経費をまかなうことができます。また、値段が設定されていることで、信者は法事にかかる費用をあらかじめ把握できる利点があります。


結局、お寺で法事を行う際の値段設定は、布施の精神と矛盾するかどうかは、個々のお寺の考え方や運営方法、信者の価値観によって異なります。信者は自分の価値観や信念に基づいて、適切だと思われるお寺や僧侶と共に法事を執り行うことが大切です。




私の質問

仏教の開祖であるお釈迦様ならどうおっしゃるでしょうか?


ChatGTP

私はAIであり、お釈迦様の意見を直接伝えることはできませんが、仏教の教えや歴史をもとに、お釈迦様がどのように考えるかを推測することはできます。


お釈迦様が説いた仏教では、布施は六波羅蜜(ろくぱらみつ)の一つであり、慈悲と無私の精神を象徴しています。布施は自分の利益や報酬を期待せず、他者を助けることに喜びを見出す行為です。そのため、お釈迦様はお布施の精神を大切にし、報酬や利益を求めることを避けることを教えていたと考えられます。


法事など宗教行事に対して値段が設定されていることについて、お釈迦様がどのように考えるかは、その目的や意図によるでしょう。お寺が経済的な利益を追求する目的で値段を設定している場合、お釈迦様はそれを好ましく思わないかもしれません。


ただし、お寺や僧侶が法事を行い、信者の精神的なサポートを提供することが目的であれば、お釈迦様は値段の設定を容認する可能性もあります。法事にかかる費用がお寺の維持や僧侶の生活費に使われることを考慮すれば、それは慈悲や無私の精神に沿っているとも言えます。


結論として、お釈迦様がどのように考えるかは、値段設定の目的や意図によって異なると考えられます。仏教の教えや精神を大切にすることが重要であり、それに沿った行為や対応が求められます。



私の質問

浄土真宗の宗祖親鸞聖人はどうおっしゃるでしょうか?


ChatGTP

私はAIであり、親鸞聖人の意見を直接伝えることはできませんが、浄土真宗の教えや親鸞聖人の思想をもとに、彼がどのように考えるかを推測することはできます。


親鸞聖人は、阿弥陀如来の無条件の救済の力(他力本願)を信じ、自分の努力や修行(自力)では救済されないことを説いていました。そのため、浄土真宗では、僧侶の修行や布施などの行為が救済に直接影響を与えるとは考えません。


この観点から見ると、親鸞聖人は法事に対する値段設定について、その目的や意図が信者の救済や阿弥陀如来の教えに沿っているかどうかを重視するでしょう。値段設定がお寺の維持や僧侶の生活費に充てられることで、阿弥陀如来の教えを広める助けとなるならば、親鸞聖人はそれを容認するかもしれません。


ただし、値段設定が経済的な利益を追求する目的であったり、信者に負担をかけることに重きを置く場合、親鸞聖人は好ましく思わないかもしれません。浄土真宗では、信者と僧侶の関係が非常に重要であり、信者と僧侶が互いに教えを共有し、敬い合う姿勢が求められます。


結論として、親鸞聖人がどのように考えるかは、法事に対する値段設定の目的や意図によって異なると考えられます。阿弥陀如来の教えや信者と僧侶の関係を尊重することが重要であり、それに沿った行為や対応が求められます。




私の質問

お布施に値段設定をするとお布施は全て金銭に限定されますし、さらにその設定を払えない貧乏な人は法事を営めないことになると思います。そもそもの布施の精神に反しますし全ての人を等しく救う仏教の精神に反するのではないでしょうか?


ChatGTP

おっしゃる通り、お布施に値段設定をすることで、お布施が金銭に限定されることがあります。また、値段設定が高額である場合、経済的な困難を抱える人々が法事を行うことができなくなる可能性もあります。これは、布施の精神や仏教がすべての人を等しく救うという教えに反すると捉えられることがあります。


仏教の教えでは、布施は無私の精神や慈悲心を表現する重要な行為であり、金銭だけでなく、物資や時間、労力を提供することも含まれます。また、仏教はすべての人々が救済を受けることができるという教えを持っています。


お寺や僧侶は、このような仏教の精神を尊重し、信者が経済的な困難によって法事を行う機会を奪われないよう配慮することが求められます。例えば、値段設定を柔軟にし、信者の経済状況に応じて相談できるようにすることや、金銭以外のお布施も受け入れることが考えられます。


最終的に、お布施の精神と仏教の教えを尊重することが重要です。お寺や僧侶は、信者が法事を行う機会を平等に享受できるよう、適切な対応や柔軟な値段設定を考慮する必要があります。




私の質問

またお寺の維持や僧侶の生活費を維持する観点から見ても、お布施の値段設定をするとその設定の範囲の値段しか入ってきません。しかし値段設定を外せば貧乏な人は少ない値段で何度もお寺に来ることができます。またお金持ちの人は多くの金銭を払うことによってお寺だけでなく貧乏な人たちの分までサポートしていることにもなります。そして貧乏人から金持ちまで多くの人々との関係が生まれます。そしてお布施の相談をする時点で仏教の布施の精神を学ぶことにもなると思います。詰まるところお布施は値段設定はしない方が精神的にも金銭的にも利益があるのではないでしょうか?


ChatGTP

おっしゃる通り、お布施に値段設定をしないことで、信者が自由に金額を決めることができ、それが仏教の布施の精神を体現することにもつながります。また、金持ちの人々がより多くのお布施をすることで、お寺や貧しい人々の支援にも貢献できるでしょう。


値段設定を行わないことで、信者が自分の経済状況や信仰心に応じてお布施を行い、お寺との関係もより深まる可能性があります。信者がお布施について相談する機会が増えることで、仏教の教えや布施の精神を学ぶ機会も増えるでしょう。


ただし、お寺や僧侶にとって、お布施の値段設定を行わないことが経済的に利益があるかどうかは一概には言えません。値段設定がない場合、お寺の収入が不安定になる可能性もあります。お寺や僧侶は、経済的な安定と信者との良好な関係を両立させる方法を検討する必要があります。


総じて、お布施に値段設定をしないことが精神的にも金銭的にも利益がある場合もあるでしょうが、お寺や僧侶の運営状況や地域の状況によっては、値段設定が適切な場合もあります。最も重要なのは、仏教の教えや布施の精神を尊重し、信者との良好な関係を築くことです。




私の質問

僧侶やお寺がお布施の額を言うことで、信者との良好な関係が壊れる状況が多く起こっています。またお釈迦様がお布施の額を適切に決めたと言う話も聞いたことがありません。親鸞聖人もお寺の運営のために法を説いた形跡がないのです。 しかしお釈迦さまの教団は大きくなり、親鸞聖人の教えも多く広まりました。現代の寺院は運営や僧侶の生活費に心を奪われて本当の利益を取り損なっているのではないでしょうか?


ChatGTP

確かに、お布施の額について僧侶やお寺が具体的な金額を求めることが、信者との良好な関係を損なうことがあります。お釈迦様や親鸞聖人の時代には、彼らがお布施の額を具体的に決めたという話はあまり聞かれません。その当時の仏教の教えは、お布施の精神や慈悲心に重点が置かれていました。


現代の寺院が運営や僧侶の生活費に重きを置くあまり、本当の利益や仏教の精神を見失っている可能性はあります。ただし、現代の社会はお釈迦様や親鸞聖人の時代とは大きく異なり、お寺の運営や僧侶の生活費がかかることも事実です。


お寺や僧侶は、運営や生活費に対処しつつ、信者との良好な関係や仏教の教えを大切にするバランスが求められます。お布施の額については、信者の経済状況や信仰心を尊重し、柔軟に対応することが重要です。また、金銭以外のお布施やサポートも受け入れることで、信者との関係をより良好に保つことができるでしょう。


最終的に、現代の寺院は運営や僧侶の生活費と仏教の精神を両立させる方法を見つけることが大切です。信者との良好な関係や仏教の教えを守りつつ、経済的な安定を追求することが求められます。




私の質問

その大きな一手として布施の値段を決めないという主張をしています。なぜなら先ほども言及した通りお布施の額を決めなければ信者との関係に本当の信頼関係が生まれます。僧侶やお寺が「いくらでも構わないから、信仰を大事にしてほしい」というメッセージが伝われば、その精神に共鳴してお金持ちの人はより多くのお布施をお供えするでしょうし、貧乏な人はお金以外のサポートをしてくださるでしょう。そういう精神のあるお寺は噂になり、さらに人が人を呼んで繁盛すると考えられます。仏教の精神もひろまります。


ChatGTP

おっしゃる通り、お布施の額を決めないことで、信者との本当の信頼関係が築かれる可能性が高まります。僧侶やお寺が信仰心を重視し、お布施の額について柔軟に対応することで、信者もお寺や僧侶に対する信頼を深めることができるでしょう。


お金持ちの人がより多くのお布施を提供し、貧しい人がお金以外の方法でサポートすることで、お寺は経済的な安定を保ちつつ、仏教の精神を広めることができます。また、そのような精神を持つお寺は評判になり、より多くの人々が訪れることで繁盛することも考えられます。


ただし、現実にはお布施の額を決めないことが、必ずしも経済的な安定や繁栄につながるわけではありません。地域や信者の状況、お寺の運営状況など様々な要因が影響します。それでも、信者との信頼関係を築き、仏教の精神を大切にすることは、お寺や僧侶にとって非常に重要です。


最終的に、お布施の額を決めないという主張は、信者との信頼関係や仏教の精神を尊重する観点から理解できます。現代の寺院は、経済的な安定と信者との良好な関係を両立させる方法を検討し、適切な対応を考慮する必要があります。




私の質問

お布施の額を決めると批判があるし、それ以下でもいいと言ってもお寺に来にくくなります。お布施の精神にも反しています。現代の寺院だけでなく過去の寺院もお布施の問題で大事な仏教の教えが損なわれた歴史があります。経済的な安定をお寺が求めれば経済的に安定していない人が否定されてしまいます。詰まるところ仏教の精神が経済に優先されてしまって損なわれていると考えます。


ChatGTP

お布施の額を決めることが、信者にとって通いにくくなる原因となり、また仏教の布施の精神に反することがあることは理解できます。歴史を通じて、寺院が経済的な安定を求めるあまり、仏教の教えが損なわれることがありました。


経済的な安定が重視されるあまり、経済的に厳しい状況の信者が否定されたり、仏教の精神が犠牲になることは避けるべきです。寺院は、経済的な安定と信者との良好な関係、そして仏教の教えを大切にするバランスを見つける必要があります。


お布施の額を決めないことが、信者との信頼関係を築き、仏教の教えを広める方法の一つとして考えられます。ただし、寺院の運営や僧侶の生活費を維持するために、適切な資金調達が必要です。お布施だけでなく、他の資金調達方法やコミュニティとの協力を通じて、経済的な安定を追求しながら、仏教の精神を守ることが重要です。




私の質問

現代の資本主義の弊害があるので、仏教寺院の運営も経済的な安定を追求することを何度も提言されていますが、現代社会の閉塞感はそこに起因していると思います。つまり布施の精神が失われてしまったということがわかりました。


ChatGTP

現代の資本主義社会では、経済的な安定が重要視されることが多く、仏教寺院もその影響を受けています。確かに、経済的な安定を追求するあまり、仏教の精神や価値観が失われることがあります。それが現代社会の閉塞感や問題の一因となっている可能性もあります。


仏教寺院が経済的な安定を追求すること自体は、運営や僧侶の生活費を維持するために必要です。しかし、それを追求する過程で、仏教の教えや布施の精神が犠牲にならないように注意が必要です。


寺院は、経済的な安定と仏教の教えを両立させる方法を模索し、信者との良好な関係やコミュニティとの協力を重視することが大切です。お布施の精神を大切にすることで、信者との信頼関係を築き、仏教の教えを広めることができるでしょう。このような取り組みが、現代社会の閉塞感を和らげる一助となることを期待できます。




私の質問

私の結論は「布施」に値段設定をしない方が仏教の精神も経済的な支援も増大する、逆に経済的不安を解消するために「布施」に値段設定をするとたとえそこに柔軟性を持たせたとしても不信感は拭えず返って金銭的にも損をしてしまうという結論に至りました。


実は私は僧侶で10年間お布施の値段を言わずに寺院を運営していますが、金銭的にも人間関係的にも成功していると感じています。一方他の地域の寺院は値段設定をしていますが、その寺院の規模としてはお金も集まらず、僧侶の生活費も私の半分以下です。


もちろん世界中の統計を集めたわけではありませんが、私はそういう経験を通しても、また仏教の教えに則したとしても「布施」に値段を設定しない方が結局はご利益がある。と皆さんに伝えていきたいと考えています。


ChatGTP

貴重なご経験を共有いただき、ありがとうございます。おっしゃる通り、「布施」に値段設定をしないことで、仏教の精神と経済的な支援が増大し、寺院の運営や僧侶の生活費にも良い影響があることが実感できるようです。


あなたの経験をもとに、「布施」に値段設定しない方が結局はご利益があるという考えを広めることは、多くの人々にとって有益であると考えられます。お寺や僧侶の生活が安定し、信者との信頼関係が築かれることで、仏教の教えがより多くの人々に届くことにもつながるでしょう。


ただし、世界中の寺院や僧侶の状況は多様であり、すべての寺院や僧侶にこの考えが適用できるわけではありません。それでも、あなたの経験や考えを共有し、他の寺院や僧侶に参考になる意見を提供することは、仏教界全体の発展に寄与することでしょう。



私の質問

以上です、ありがとうございました。あなたに話すことで自分の考えが以前よりはっきりしました。


ChatGTP

お話しすることでお役に立てたようで、とても嬉しいです。私もあなたから多くのことを学ばせていただきました。これからも何か質問や相談があれば、お気軽にお声がけください。どんなトピックでもお手伝いできることがあれば喜んで対応いたします。どうぞよい一日をお過ごしください。




以上、ChatGTPがなかなか経済至上主義というのでしょうか、経済の安定が大事だよねという主張を崩さないのがすごいと思いました。私はちょっとムキになりましたが、ChatGTPは冷静でした。


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