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2021/12/09

結局安い、信頼のブランド物。ブラジルにも修正ペン(Faber-Castell )いろいろあります。僧侶の(私だけかも)特殊な使い方を紹介してます。

文房具にも日本製品が進出

 ブラジルで僧侶をしていると日本では比較的簡単に買う事ができるお経が手に入りにくいと言う事があります。ですからもしお経自体に間違いを発見しても、新しいのを買えばいいと言うわけには行かなくなります。 しかも買い換えると結構高いのです。

そのような理由もあり、ブラジルで売っている文房具を駆使して、お経の間違いやその他を修正しようと奮闘いたしました。

久しぶりにブラジルの有名な文房具店、kalunga (カルンガ)に行ってみると日本の製品まで売っていました! 以前は日本のものはブラジル・ダイソーくらいかと思っていましたが、サクラとかパイロットの製品がいくつか並んでいて嬉しかったです。

 でも値段は現地のブラジル製品の3倍くらいしますが! でも日本製は品質がいいということもあって売れているのでしょうか? 私は母国の製品でもあるので思い切って買ってみました。日本だと三分の一で買えるのに・・・・ という気持ちと葛藤しました。



ブランド物が結局安い

 他にも修正ペンを買いましたがそれは世界最古を謳い文句にしている、ドイツ鉛筆ブランド・ファーバーカステル社のものを購入しました。はっきり言って修正ペンなので色鉛筆の技術は関係ないのでしょうが、やはり信頼のドイツ製品という事も手伝って、ブランド物を買いました。
 こんなことを言いたくないのですが、ブラジルの安い製品に何度も泣かされてきているので、大切な作業に使う製品なので奮発しました。

 実際使ってみるとパイロットのペンも、ファーバーカステル社の修正ペンも液漏れすることもなくちゃんと機能してくれました! その様子も動画でご覧になれます。

 大事な作業をするときには、信頼のブランドを高くても買ったほうが結果的にお得だという事がまた証明されたと思います。



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Faber-Castell 日本ホームページです

https://www.faber-castell.jp



2021/11/16

「私にとっての沖縄の学びとは」ポルトガル語翻訳付き  同朋大学名誉教授 尾畑文正

最後に私の感想も書いています。


「私にとっての沖縄の学びとは」

同朋大学名誉教授 尾畑文正

尾畑文正 同朋大学名誉教授





 今回が最終回となる。私にとって沖縄に真宗を学ぶことの意味を確認したい。私の課題は空理空論でなく現実に関わる真宗の教えに学ぶことである。親鸞聖人も現実を離さなかった。 『正信偈』には「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」とある。煩悩とは「煩は、みをわずらわす。悩は、こころをなやます」(唯心鈔文意)あり、私たちの生活そのものである。その現実の生活から生きることの意味を問う。それが浄土真宗である。

 それがなぜ沖縄であるのか。それは私の営みが沖縄の現実として表れているからである。沖縄の負の現実は沖縄の問題ではない。沖縄を構造的に差別する「私と私の世界」の歪みの問題である。そういう認識は歴史的事実であると共に、 『歎異抄』で「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は(略)そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまこと」と説く真宗の教えに繋がる問題である。

 沖縄はアジア・太平洋戦争では本土防衛の「捨て石」、敗戦後は二十七年間のアメリカの占領、その後は巨大な軍事基地を負わされ、生命と生活を脅かされ続けている。さらには辺野古に二本の滑走路を持つ軍事基地建設が行われ、ジュゴンの生活領域である辺野古沖も、サンゴ生育の大浦湾も、沖縄の美ら海は満身創痍である。それら一切は沖縄が望んだことではない。
 沖縄は「命こそ宝」の島である。その島を標的にして日米両政府が「軍事」の島を作り続けている。現在は与那国島、石垣島、宮古島なども軍備増強の渦中にある。軍事基地があるとは有事の際に最も攻撃を受ける場所となる。沖縄に対する「捨て石」は現在も継続している。この沖縄を犠牲にする構造的な差別に向き合い、どうすることが人間を回復する道であるのか私たちは問われている。その問いは真宗門徒として念仏もうすことと別のことではない。なぜなら南無阿弥陀仏は闇世を照らし出す光であり、私を真実の国に呼び戻す声である。だから南無阿弥陀仏と念仏もうすことは、自ら南無阿弥陀仏の名となって衆生を救わんとする阿弥陀仏の本願の心に出遇い、構造的差別に加担する我が身を知り、その本願の心に立ち返り構造的差別を克服する歩みを課題とすることである。



ポルトガル語はGoogle翻訳に私が少し手を加えました。正確ではない点をご了承ください。

Português é não certo uso tradução de google. 

 "O que estou aprendendo com Okinawa"


Professor Emérito da Doho University Bunsho Obata

    Este é o episódio final. Quero confirmar o significado de aprender o Budismo Shin de Okinawa para mim. Minha tarefa é aprender com os ensinamentos de Shinshu relacionados à realidade, não com a teoria aeroespacial. O Mestre Shinran também manteve a realidade. "Shoshinge" diz: “Sem extirpar as paixões, atingimos o Nirvana.” As paixões mundanos são "os desejos mundanos são problemáticos Vida de corpo . Os desejos mundanos são o sofrimento de coração" (YUISHINSYO MONI), que é a nossa própria vida. Pergunte o significado de viver dessa vida real. Esse é Jodo Shinshu.

    Por que é Okinawa? Isso porque minhas atividades se manifestam como a realidade de Okinawa. A realidade negativa de Okinawa não é um problema de Okinawa. É um problema de distorção de "eu e meu mundo" que discrimina estruturalmente Okinawa. Tal reconhecimento é um fato histórico, e o ensino do Budismo Shin, que prega em “Tanni Sho", "Entretanto, em minha natureza de homem vulgar carregado de paixões e neste mundo impermanente semelhante a uma casa incendiada, tudo é falso e mentiroso, nada é real. Só o Nembutsu é autêntico. “ É um problema que leva.

    Na Guerra da Ásia-Pacífico, Okinawa foi a "pedra abandonada" da defesa do continente, a ocupação dos Estados Unidos por 27 anos após a derrota, e depois disso foi infligida com uma enorme base militar, e a vida e a vida continuam a ser ameaçado. Além disso, uma base militar com duas pistas foi construída em Henoko, e a área de convivência dos dugongos perto de Henoko, a baía de Oura com cultivo de corais e o Churaumi de Okinawa estão cheios de ferimentos. Nenhum deles era o que Okinawa queria.

    Okinawa é uma ilha onde "a vida é um tesouro". Visando essa ilha, os governos dos Estados Unidos e do Japão continuam a criar ilhas "militares". Atualmente, a Ilha Yonaguni, a Ilha Ishigaki, a Ilha Miyako, etc. também estão no meio de um acúmulo de armamento. Ter uma base militar é o local com maior probabilidade de ser atacado em caso de emergência. "Pedras abandonadas" para Okinawa ainda estão em andamento.

    Nos perguntam qual é a forma de recuperar o ser humano enfrentando essa discriminação estrutural que sacrifica Okinawa. Essa questão não é diferente do Nembutsu como uma seita Shinshu. Porque Namu Amida Butsu é a luz que ilumina o mundo escuro e a voz que me traz de volta à terra da verdade. Portanto, Buda Namu Amida e Nembutsu são conhecidos no coração do Buda Amida, que está tentando salvar os seres senciente tornando-se o nome de Buda Namu Amida, e sabe quem está envolvido na discriminação estrutural. O desafio é voltar para o coração e superar a discriminação estrutural.


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ここからは私の感想です。

翻訳の難しさ

 沖縄別院東本願寺の発行する「ハイサイ沖縄」から引用させてもらいました。ポルトガル語に翻訳しましたが、グーグル翻訳を使って少し私のできる限りの訂正を加えています。『正信偈』と『歎異抄は』ブラジルにオフィシャルの翻訳本があるので正確ですが、『唯心鈔文意』はまだないのでGoogle翻訳を私なりに少し変えましたが難しかったです。
 その他「捨て石にする」など慣用句などは翻訳の難易度が一気に上がります、今朝生粋のブラジル人の青年に聞いてもらったらGoogleの翻訳のままでも文章の流れからわかるということでした。全体的にGoogleの翻訳能力は凄まじく進歩していますが、仏教用語の翻訳が完璧になるのはまだ数十年かかるのではないでしょうか?


沖縄思い出

 妻のファビアのおじいちゃん、おばあちゃんは沖縄移民です。3年前に彼女の先祖の生まれ故郷に行ってきました。とても感動的な旅になりました。
 そのときちょうど辺野古で埋め立て反対運動が行われていて、その現場に行ってきましたが、長い棒を持った逞しい警察が立っているのをみて、こういう警官の前で反対を叫ぶのは怖いだろうなと思いました。自分はできないだろうと思いました。
 また、沖縄を案内してくれたファビアの親戚の身近な人が埋め立て賛成の方だったので、表立って地元の賛成派の人と意見を交わす胆力もなく、「しかし、戦争は起こってほしくないですよね?」と言うことしかできませんでした。しかし賛成派も戦争を起こさないために基地が必要だと真剣に思っているのです。先の戦争で日本は正義のために戦ったのでしょうが、結果たくさんの庶民が命を落とし、悲惨な状況になったことを考えても武力ではなく、政治力、人間力を使ってこの世が平和になる方向へ世の中が動いてほしいと願っています。

 

2021/11/04

「幸せな人が 感謝するのではなく 感謝する人が 幸せてある」 ポルトガル語・スペイン語翻訳あり Não são as pessoas felizes que agradecem. As pessoas gratas que são felizes.

今月の法語


お寺の今月の法語


幸せな人が
感謝するのではなく
感謝する人が
幸せてある




もう11月になりました。毎月お寺の壁に「今月の法語」を書いています。以前にもブログに書いたような経緯で今年作ることができました。詳細は下のリンクからどうぞ。

ブラジルのお寺の掲示板の話 (破壊されにくいのがポイント)


今月の言葉はポルトガル語では

Não são as pessoas felizes que agradecem. 

As pessoas gratas que são felizes. 

となります。これは私の翻訳ではなく、オフィシャルの正式な翻訳です。もう一つスペイン語では・・・・

No es la gente feliz la que da las gracias. 

Es la gente agradecida la que es feliz.


となります。似てるけど違うんですよね。発音するともっと違いがわかりますよ。



世界の似ている言葉

今月の法語を読んで「あれ?聞いたことがあるな?」と思った方もおいでになると思います。たとえば・・・・


幸福だから笑うのではない。

笑うから幸福なのだ。


[E・アラン、エミール=オーギュスト・シャルティエ]

(19~20世紀フランスの哲学者、1868~1951)


有名ですね。上記の文章は要約したもので実際は『幸福論』にこう書いてあります。


 笑って楽しむ 

 喜びを呼び起こすには、はじめの合図のようなものが必要である。

  赤ん坊がはじめて笑うとき、その笑いはなにかを表現しているわけではない。幸せだから笑うのではない。わたしに言わせれば反対で、笑っているから幸せなのだ。食べて楽しむのと同じように、笑って楽しんでいるのである。 

 しかしそれにはまず食べてみなくてはならない。このことは笑い以外にもあてはまる。考えていることを知るためには、まずことばが必要なのだ。 (77 友情)



どうでしょう? 説明されるとわかったような気にもなりますが、なんだか難しくも感じますね。

喜びと言葉の関係を紐解くことで、心と身体が一つであることを教えていると思います。


日本にも古代からもっと簡潔な言葉があります。


笑う門には福来たる


もうこれでいいのではないかとも思いますね。

アラン風にいうと、

「福がきたから笑うのではない、笑うから福がくるのである」 

となるでしょうか?


ちびまる子ちゃんにも登場します。


幸せだから笑うんじゃないよ。

笑うから幸せになるんじゃ。


   (アニメ『ちびまる子ちゃん』)


 昔は日本ではおばあちゃんやおじいちゃんに、日常の生活の中でさりげなく教えられていた言葉なんですね。

そのおじいちゃん、おばあちゃんはお寺にもお参りして感謝の念仏をされていた人もいたのだと想像します。



 


 大切なのはこういう言葉は自分自身に刻むもので、他人に押し付ける言葉ではないという点です。

哲学者アラン自身も赤ちゃんの笑顔から教えられたことを表明しているので、決して「いつも笑いなさい」と言っているわけではないのです。

彼は第一次世界大戦前後の暗い世相の中、これらの言葉を発信しています。




 今月もお寺の塀に言葉を書いていたら近所のおじさんが「いつも美しい言葉をありがとう」と通りすがりに声をかけてくれました。お寺の向かいの子供も遊びに来て一緒にお掃除を手伝ってくれました。


お寺の掲示板が思った以上にコミュニケーションのきっかけになってくれています。ありがたいことです。





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ブラジル

マリリア真宗本願寺 東本願寺 





2021/10/28

検証動画付き ブラジルのセミの鳴き声 (UFOの円盤が飛ぶ音に似ている)検証動画付き 

お寺に蝉がいました。



ブラジルではセミはcigarra シガーハって呼びます。

日本とは鳴き声が違うんですよ。

UFOが飛んでる様な音です。


とフェースブックで書き込んで以下の写真を載せたら。



「その蝉の声を聞きたい」

UFOが飛んでる音ってのがよくわかりません…私が見たことあるUFOはインベーダーゲームのUFOくらいですが…🤩

とのコメントをもらったので、YouTubeで探してみました。

まずはこれがUFOの音です。


「UFO 飛ぶ時の音」で探したら結構出てきたのですが、以下の動画が一番私の脳内のイメージに似ているかと思います。



次にこれがブラジルの蝉の声です。


 この声は私が地元で聞く蝉の声とまったく同じです。これを聞いた日本の友人は

ほんまにセミ~? にわかに信じられん。ブラジルらしからぬ陰に籠もってるな

とか

「神秘的・・・・」

などのコメントをくれました皆さんはいかがですか? 私も最初に聞いた時は、どこからともなく不思議な音がするので、蝉の声とは思えず、妻のファビアに「これ何の音?」って聞きました。そしたら「シガーッハ」って言うので言ってる意味がわからず、タバコのこと?って訳のわからない問答をしばらくしたのを覚えています。
ちなみにタバコはブラジルでは「シガーホ」cigarroといいます。たばこ Tabacoともいうのですが・・・・

日本の蝉も11種類も! もっといるのかな?


 さらに他の方のフェースブックのコメントを読むと、日本と同じようになく蝉もいるようです。ブラジルは広いですから色々いるんだろうなって思いましたが。
 ついでに日本の蝉の声も探してみたら、11種類もあってびっくりしました。私はクマゼミとアブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクホーシくらいしか知りませんでした。ヒグラシも聞いたことあるかな?




何気ない投稿でしたが、いろんなことがわかって勉強になりました。


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最終回 3、「宗教と差別」ジェアン哲慈 “Religião e Discriminação” Rev. Jean Tetsuji  

 今回はブラジルのお坊さんジアン哲慈さんのコラム第三弾を紹介いたします。
彼はレインボーサンガという宗派を超えて連帯し、差別をなくす運動をここブラジルで展開しています。
 僧侶になる前からエアーフランスの客室乗務員をなさっています。そのジアンさんが、サンパウロ別院の発行しているお便りに、差別と宗教というテーマで連載を始めました。

 ブラジルの現在のお坊さんは、この現代社会においてどのように仏教を学び、発信しているのでしょうか? このコラムを読めばその一端がわかると思います。
ポルトガル語の勉強にもなると思います。ぜひ読んでみてください。 
連載です。

ブラジルの別院サイト・オフィシャル

(過去の別院だよりも、このサイトにあります)

Rainbow Sangha - Budismo LGBT+

ブラジルの差別に反対するサイトです


「宗教と差別」  3   

                                ジェアン哲慈 ブラジル僧侶


 皆さん、こんにちは。お元気ですか。年末も近づき、真人先生が提案された最後のコラムとなりました。様々な社会の中で共に暮らすためには、差別について常に考え、継続的に練習することが必要であると思います。生き方を定義する良い物は何ですか?ある信念の善が他の信念よりも優先されるべきでしょうか?特定の人の、信念、文化が他の人よりも重要であり、不寛容、差別、苦しみをもたらすのはなぜですか?終わりのない課題だと思います。皆様のコミュニティーで絶えず話すことを勧めます。


 私は最近、ジョン・パラスケヴォポウロス先生の『The Immeasurable Life』(MotherofPearl出版社)という優れた作品を読みました。私たちの対話に貴重な説明をもたらしてくれていると思うのでいくつか紹介します。「私はより良い人になれますか?」の章でジョン師は、私たちの欲望と情熱が私たちの生活の中でどのように絶えず生じ、発揮されるかについて、親鸞の言葉を思い出します。彼は次のように指摘しています。「私たちは、私たちの生活の中で、そのような有害な考えを実行する権利を持っているという意味ではありません。私たちが他人や自分自身を害する行為をとる時、私たちの道徳的責任は間違いなく作用します。意図的で無いように見えても、私たちがコントロールを失い、
人や自分を傷つけるような欲求を追求することがあります。それでも、私たちはそのような行動に対応し、法律の罰や社会的屈辱または業の報復などを介して、この人生の結果に耐えるよう強いられます。」仏教徒としての生涯を通して責任について考えましょう。阿弥陀如来は法と真実としてはたらきかけてくださっています。欲まみれの人間を理解されているので、私達をそのまま受け入れてくださいます。自分を変える必要もなく、メリットや優しさなどを積み重ね、それをもって目覚めを求めることはできません。お浄土への道は、決して自力(限り有る人間の力)の実践で得るものではなく、他力(無限の超越的な力)によって得るものです。


 仏陀は皆をありのままに受け入れてくださいますが、だからといって我がままのままでいても良いということを意味するのではなく、その自分に気付いて、欲望の海にどれほど没頭しているかを認識し、それぞれの違いを理解し、同時にすべての人間に共通の性質を見つめなおすことを理解することを教えてくださいます。ジョン師は親鸞の一節を引用し、次のように述べています。「人々は仏の教えを深く信頼していくほど自分のエゴイズムを捨てようとし、生死の苦界から逃げられない自分を憐れみ、喜んでアミダの名前を呼び、本願を信じることができます。人々は、以前から間違った行動をとらないようにと考えていたのであろうが、それは頭の中からの命令のような発想であって、今度は心から間違ったことをやめようとしている事実は、確かに彼らがこの世界を嫌がることのしるしであると思えるでしょう。」ここに、謙虚さ、自己批判、応用力、内省の重要なポイントがあります。


 暗い部屋は、明るくする力がないため、外部の日光によってのみ明るくすることができます。「思いやりのある倫理的な行動は結果であり、精神的な目覚めの条件ではありません」と、ジョン師は結論を出されています。私たちが偉大な計り知れない生命の中に入っているにも関わらず、その生命を軽蔑することは、湖に落ちる水滴のようなものです。一滴の水は生命の湖を否定し、一滴であると考え続け、それはつまり、環境と自然と自分自身を区別してしまうことです。ここまで私の考え方を共にしていただきありがとうございました。なんらかの形で皆さんの生活の役に立てたら幸いです。


                                                                                南無阿弥陀仏




Religião e Discriminação”  3

Rev. Jean Tetsuji 


    Olá a todos, como vocês estão? Estamos chegando ao final do ano e à última coluna de reflexão proposta pelo Rev. Masato. Pensar a discriminação é um exercício contínuo de como viver juntos numa sociedade plural. Qual é o bem que define a forma de viver? O bem de uma crença deve prevalecer sobre outras? O que faz uma pessoa/crença/cultura ser mais importante que outra, resultando em intolerância, discriminação e sofrimento? É um tema inesgotável e convido-os a conversarem constantemente em suas comunidades. 

    Recentemente li a excelente obra do rev. John Paraskevopoulos (A Vida Imensurável, ed. Madrepérola) que traz elucidações valiosas para nossa conversa e gostaria de transcrever algumas delas. No capítulo “Posso me tornar uma pessoa melhor?”, Rev. John lembra das palavras do Mestre Shinran sobre como nossos desejos e paixões mundanas surgem constantemente e atuam no nosso viver. Porém, ele ressalta que: “isso não significa que temos, de forma alguma, o direito de pôr em prática tais pensamentos perniciosos em nossas vidas. Nossa responsabilidade moral definitivamente entra em ação quando realizamos atos que são prejudiciais aos outros e a nós mesmos. Pode acontecer de, às vezes, perdermos o controle e perseguirmos desejos que são prejudiciais, mesmo que pareçam não serem motivados por intenções ou impulsos. Mesmo assim, somos chamados a responder por tais comportamentos e de arcar com as consequências nesta vida, seja por meio pela punição da lei, de humilhação social ou de retribuição cármica”. 

    Estamos falando da responsabilidade ao longo da vida budista. O Buda Amida, sendo a ação do Dharma, da Verdade, da Lei, de fato aceita você como é porque entende a natureza humana das paixões. Você não precisa mudar ou acumular méritos ou bondades para acessar o Despertar. A proposta do caminho da Terra Pura não se faz pela prática do Poder Próprio (poder profano limitado) que acessa o Outro Poder (poder transcendental ilimitado). O Buda o aceita como tal, não para chancelar a continuar dessa forma, mas para fazer-se perceber e tomar consciência de quão imerso se está no mar das paixões mundanas, entender nossas diferenças e ao mesmo tempo entender a natureza comum a todos os humanos. Rev. John ainda cita uma passagem do Mestre Shinran, onde diz: “Quando a confiança das pessoas no Buda cresce profundamente, elas passam a abominar o ego e a lamentar sua contínua existência no mundo de nascimentos e mortes; tais pessoas dizem com alegria o nome de Amida, confiando-se profundamente ao Voto. O fato das pessoas procurarem parar de fazer coisas erradas, movidas pelo coração - embora anteriormente pensassem nessas coisas e se comprometessem com elas, submetidas que estavam ao autoritarismo de suas mentes - certamente é um sinal de que rejeitaram este mundo.” 

    Aqui entra o importante ponto da humildade, da auto-crítica, da resiliência, do olhar-se para dentro. Um quarto escuro só pode ser clareado pela luz externa do sol, pois ele não tem a capacidade própria de fazer. 

    “O comportamento compassivo e ético só pode ser uma consequência, não uma condição do despertar espiritual”, conclui Rev. John. Desprezar esta grande Vida Imensurável a que estamos inseridos é como a gota d’água que cai no lago e continua pensando que é gota, discriminando o ambiente e a natureza de sua própria existência enquanto gota. Obrigado por acompanhar estas reflexões e que tragam algum benefício em suas vidas! 

                                                                                                                    Namu Amida Butsu. 


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南米佛教の先驅者 岡田英定氏 大舘誓  昨年八月南米同行から本山へ特使 派遣を要請したのが發端となり、途に九月末に至り本山より南米開教事情視察を命ぜられた。御法主台下の特別の思召で御本尊と御消息とを下附された。尚その上南米同行から先年來御法主台下及裏方の御渡伯招請運動が起きて居た...

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