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2021/11/04

「幸せな人が 感謝するのではなく 感謝する人が 幸せてある」 ポルトガル語・スペイン語翻訳あり Não são as pessoas felizes que agradecem. As pessoas gratas que são felizes.

今月の法語


お寺の今月の法語


幸せな人が
感謝するのではなく
感謝する人が
幸せてある




もう11月になりました。毎月お寺の壁に「今月の法語」を書いています。以前にもブログに書いたような経緯で今年作ることができました。詳細は下のリンクからどうぞ。

ブラジルのお寺の掲示板の話 (破壊されにくいのがポイント)


今月の言葉はポルトガル語では

Não são as pessoas felizes que agradecem. 

As pessoas gratas que são felizes. 

となります。これは私の翻訳ではなく、オフィシャルの正式な翻訳です。もう一つスペイン語では・・・・

No es la gente feliz la que da las gracias. 

Es la gente agradecida la que es feliz.


となります。似てるけど違うんですよね。発音するともっと違いがわかりますよ。



世界の似ている言葉

今月の法語を読んで「あれ?聞いたことがあるな?」と思った方もおいでになると思います。たとえば・・・・


幸福だから笑うのではない。

笑うから幸福なのだ。


[E・アラン、エミール=オーギュスト・シャルティエ]

(19~20世紀フランスの哲学者、1868~1951)


有名ですね。上記の文章は要約したもので実際は『幸福論』にこう書いてあります。


 笑って楽しむ 

 喜びを呼び起こすには、はじめの合図のようなものが必要である。

  赤ん坊がはじめて笑うとき、その笑いはなにかを表現しているわけではない。幸せだから笑うのではない。わたしに言わせれば反対で、笑っているから幸せなのだ。食べて楽しむのと同じように、笑って楽しんでいるのである。 

 しかしそれにはまず食べてみなくてはならない。このことは笑い以外にもあてはまる。考えていることを知るためには、まずことばが必要なのだ。 (77 友情)



どうでしょう? 説明されるとわかったような気にもなりますが、なんだか難しくも感じますね。

喜びと言葉の関係を紐解くことで、心と身体が一つであることを教えていると思います。


日本にも古代からもっと簡潔な言葉があります。


笑う門には福来たる


もうこれでいいのではないかとも思いますね。

アラン風にいうと、

「福がきたから笑うのではない、笑うから福がくるのである」 

となるでしょうか?


ちびまる子ちゃんにも登場します。


幸せだから笑うんじゃないよ。

笑うから幸せになるんじゃ。


   (アニメ『ちびまる子ちゃん』)


 昔は日本ではおばあちゃんやおじいちゃんに、日常の生活の中でさりげなく教えられていた言葉なんですね。

そのおじいちゃん、おばあちゃんはお寺にもお参りして感謝の念仏をされていた人もいたのだと想像します。



 


 大切なのはこういう言葉は自分自身に刻むもので、他人に押し付ける言葉ではないという点です。

哲学者アラン自身も赤ちゃんの笑顔から教えられたことを表明しているので、決して「いつも笑いなさい」と言っているわけではないのです。

彼は第一次世界大戦前後の暗い世相の中、これらの言葉を発信しています。




 今月もお寺の塀に言葉を書いていたら近所のおじさんが「いつも美しい言葉をありがとう」と通りすがりに声をかけてくれました。お寺の向かいの子供も遊びに来て一緒にお掃除を手伝ってくれました。


お寺の掲示板が思った以上にコミュニケーションのきっかけになってくれています。ありがたいことです。





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ブラジル

マリリア真宗本願寺 東本願寺 





2021/10/28

最終回 3、「宗教と差別」ジェアン哲慈 “Religião e Discriminação” Rev. Jean Tetsuji  

 今回はブラジルのお坊さんジアン哲慈さんのコラム第三弾を紹介いたします。
彼はレインボーサンガという宗派を超えて連帯し、差別をなくす運動をここブラジルで展開しています。
 僧侶になる前からエアーフランスの客室乗務員をなさっています。そのジアンさんが、サンパウロ別院の発行しているお便りに、差別と宗教というテーマで連載を始めました。

 ブラジルの現在のお坊さんは、この現代社会においてどのように仏教を学び、発信しているのでしょうか? このコラムを読めばその一端がわかると思います。
ポルトガル語の勉強にもなると思います。ぜひ読んでみてください。 
連載です。

ブラジルの別院サイト・オフィシャル

(過去の別院だよりも、このサイトにあります)

Rainbow Sangha - Budismo LGBT+

ブラジルの差別に反対するサイトです


「宗教と差別」  3   

                                ジェアン哲慈 ブラジル僧侶


 皆さん、こんにちは。お元気ですか。年末も近づき、真人先生が提案された最後のコラムとなりました。様々な社会の中で共に暮らすためには、差別について常に考え、継続的に練習することが必要であると思います。生き方を定義する良い物は何ですか?ある信念の善が他の信念よりも優先されるべきでしょうか?特定の人の、信念、文化が他の人よりも重要であり、不寛容、差別、苦しみをもたらすのはなぜですか?終わりのない課題だと思います。皆様のコミュニティーで絶えず話すことを勧めます。


 私は最近、ジョン・パラスケヴォポウロス先生の『The Immeasurable Life』(MotherofPearl出版社)という優れた作品を読みました。私たちの対話に貴重な説明をもたらしてくれていると思うのでいくつか紹介します。「私はより良い人になれますか?」の章でジョン師は、私たちの欲望と情熱が私たちの生活の中でどのように絶えず生じ、発揮されるかについて、親鸞の言葉を思い出します。彼は次のように指摘しています。「私たちは、私たちの生活の中で、そのような有害な考えを実行する権利を持っているという意味ではありません。私たちが他人や自分自身を害する行為をとる時、私たちの道徳的責任は間違いなく作用します。意図的で無いように見えても、私たちがコントロールを失い、
人や自分を傷つけるような欲求を追求することがあります。それでも、私たちはそのような行動に対応し、法律の罰や社会的屈辱または業の報復などを介して、この人生の結果に耐えるよう強いられます。」仏教徒としての生涯を通して責任について考えましょう。阿弥陀如来は法と真実としてはたらきかけてくださっています。欲まみれの人間を理解されているので、私達をそのまま受け入れてくださいます。自分を変える必要もなく、メリットや優しさなどを積み重ね、それをもって目覚めを求めることはできません。お浄土への道は、決して自力(限り有る人間の力)の実践で得るものではなく、他力(無限の超越的な力)によって得るものです。


 仏陀は皆をありのままに受け入れてくださいますが、だからといって我がままのままでいても良いということを意味するのではなく、その自分に気付いて、欲望の海にどれほど没頭しているかを認識し、それぞれの違いを理解し、同時にすべての人間に共通の性質を見つめなおすことを理解することを教えてくださいます。ジョン師は親鸞の一節を引用し、次のように述べています。「人々は仏の教えを深く信頼していくほど自分のエゴイズムを捨てようとし、生死の苦界から逃げられない自分を憐れみ、喜んでアミダの名前を呼び、本願を信じることができます。人々は、以前から間違った行動をとらないようにと考えていたのであろうが、それは頭の中からの命令のような発想であって、今度は心から間違ったことをやめようとしている事実は、確かに彼らがこの世界を嫌がることのしるしであると思えるでしょう。」ここに、謙虚さ、自己批判、応用力、内省の重要なポイントがあります。


 暗い部屋は、明るくする力がないため、外部の日光によってのみ明るくすることができます。「思いやりのある倫理的な行動は結果であり、精神的な目覚めの条件ではありません」と、ジョン師は結論を出されています。私たちが偉大な計り知れない生命の中に入っているにも関わらず、その生命を軽蔑することは、湖に落ちる水滴のようなものです。一滴の水は生命の湖を否定し、一滴であると考え続け、それはつまり、環境と自然と自分自身を区別してしまうことです。ここまで私の考え方を共にしていただきありがとうございました。なんらかの形で皆さんの生活の役に立てたら幸いです。


                                                                                南無阿弥陀仏




Religião e Discriminação”  3

Rev. Jean Tetsuji 


    Olá a todos, como vocês estão? Estamos chegando ao final do ano e à última coluna de reflexão proposta pelo Rev. Masato. Pensar a discriminação é um exercício contínuo de como viver juntos numa sociedade plural. Qual é o bem que define a forma de viver? O bem de uma crença deve prevalecer sobre outras? O que faz uma pessoa/crença/cultura ser mais importante que outra, resultando em intolerância, discriminação e sofrimento? É um tema inesgotável e convido-os a conversarem constantemente em suas comunidades. 

    Recentemente li a excelente obra do rev. John Paraskevopoulos (A Vida Imensurável, ed. Madrepérola) que traz elucidações valiosas para nossa conversa e gostaria de transcrever algumas delas. No capítulo “Posso me tornar uma pessoa melhor?”, Rev. John lembra das palavras do Mestre Shinran sobre como nossos desejos e paixões mundanas surgem constantemente e atuam no nosso viver. Porém, ele ressalta que: “isso não significa que temos, de forma alguma, o direito de pôr em prática tais pensamentos perniciosos em nossas vidas. Nossa responsabilidade moral definitivamente entra em ação quando realizamos atos que são prejudiciais aos outros e a nós mesmos. Pode acontecer de, às vezes, perdermos o controle e perseguirmos desejos que são prejudiciais, mesmo que pareçam não serem motivados por intenções ou impulsos. Mesmo assim, somos chamados a responder por tais comportamentos e de arcar com as consequências nesta vida, seja por meio pela punição da lei, de humilhação social ou de retribuição cármica”. 

    Estamos falando da responsabilidade ao longo da vida budista. O Buda Amida, sendo a ação do Dharma, da Verdade, da Lei, de fato aceita você como é porque entende a natureza humana das paixões. Você não precisa mudar ou acumular méritos ou bondades para acessar o Despertar. A proposta do caminho da Terra Pura não se faz pela prática do Poder Próprio (poder profano limitado) que acessa o Outro Poder (poder transcendental ilimitado). O Buda o aceita como tal, não para chancelar a continuar dessa forma, mas para fazer-se perceber e tomar consciência de quão imerso se está no mar das paixões mundanas, entender nossas diferenças e ao mesmo tempo entender a natureza comum a todos os humanos. Rev. John ainda cita uma passagem do Mestre Shinran, onde diz: “Quando a confiança das pessoas no Buda cresce profundamente, elas passam a abominar o ego e a lamentar sua contínua existência no mundo de nascimentos e mortes; tais pessoas dizem com alegria o nome de Amida, confiando-se profundamente ao Voto. O fato das pessoas procurarem parar de fazer coisas erradas, movidas pelo coração - embora anteriormente pensassem nessas coisas e se comprometessem com elas, submetidas que estavam ao autoritarismo de suas mentes - certamente é um sinal de que rejeitaram este mundo.” 

    Aqui entra o importante ponto da humildade, da auto-crítica, da resiliência, do olhar-se para dentro. Um quarto escuro só pode ser clareado pela luz externa do sol, pois ele não tem a capacidade própria de fazer. 

    “O comportamento compassivo e ético só pode ser uma consequência, não uma condição do despertar espiritual”, conclui Rev. John. Desprezar esta grande Vida Imensurável a que estamos inseridos é como a gota d’água que cai no lago e continua pensando que é gota, discriminando o ambiente e a natureza de sua própria existência enquanto gota. Obrigado por acompanhar estas reflexões e que tragam algum benefício em suas vidas! 

                                                                                                                    Namu Amida Butsu. 


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2021/10/20

Noteより、毎日ブラジルより、お朝勤と仏教のお話 ポルトガル語、原文、現代文比較 朗読あり

 仏教のポルトガル語のテキストと日本語の原文、そして日本語の現代語訳や語句の意味を掲載しています。

 今日のブログは、いつもは私のもう一つのブログnoteに書いている内容です。

本職はブラジルで僧侶をしているので、毎朝のお勤めのお今日のリンクとその後のお話のノートをnoteにシェアしています。

 noteのいい点はとてもシンプルで名前の通りテキストが読みやすい点です。こちらにもアクセスしてください。毎朝(ブラジル時間)お勤めと法話をしています。下手ではありますが、ポルトガル語でも話させてもらっています。テキストもあるので、特殊ではありますが、ポルトガル語の勉強にも役立つと思います。

https://note.com/izushu/n/ne7aadeb5043a

2021/10/15

仏教のポルトガル語のテキストと日本語の原文、そして日本語の現代語訳や語句の意味を掲載しています。私の完全仏教系ブログ、noteの宣伝です。 

 今日のブログは定期的に行っているもう一つのブログnoteの宣伝です。

https://note.com/izushu

仏教のポルトガル語のテキストと日本語の原文、そして日本語の現代語訳や語句の意味を掲載しています。


 もうブラジルに来て14年目になりますが、現在ブラジルのマリリア市という場所のマリリア真宗本願寺という場所で僧侶として働いています。

 この世がコロナになる少し前からYouTubeで毎朝のお勤めを生中継しているのですが(このブログの最下部に今日の内容を表示させておきます)お勤めの後の法話の代わりに、ポルトガル語に翻訳されたテキストを読んで感想を述べるのを日課にしています。その時にネットで見ている人にもテキストを配れたらいいという思いで作ったのがnoteのブログです。このブログは広告が一切ないのでまさにノートのように見やすく参照しやすいのが特徴です。

 たまにこちらのブラジル日記にもその内容をアップしつつ、noteの宣伝を兼ねさせてもらっています。ちょっと難しいかもしれませんが、日本の仏教の教えがこうやってポルトガル語になってるなんてすごいことだと思います仏教の教えは人間の迷いや苦しみを解決する教えで、現代の私たちにも通用する大切な教えです。ここブラジルはカトリックやキリスト教の教えが大勢を占めていますが、仏教の教えに惹きつけられる人も年々増えています。

 毎日少し仏教の言葉に触れることが、人生の糧となるでしょう。毎日水を飲み、食事をするように一緒に仏教の教えに触れてみてはいかがでしょうか?

ポルトガル語の勉強にもなると思います。


口伝鈔 第九章.    Capítulo 10 


Capítulo 10

 Uma explanação a respeito do Décimo Oitavo Voto 



"Este Buda atualmente permanece na Budeidade44". Esta declaração em uma edição popular diz: "(Este Buda) está neste mundo", No entanto, os professores de Kurodani e Honganji45 omitem o ideograma para "mundo" ao citar esta passagem. Depois de deliberar sobre isso, eu também decidi omitir tal palavra. 


Qual é a justificativa? Primeiro, o Sutra Mahāyāna Abhisamaya diz: "Todos os Budas da budeidade na Terra Pura são corpo de recompensa46 e todos os Budas da budeidade que habitam esta terra contaminada são corpos de transformação47." Esta passagem revela que o grande Mestre Shan-tao não usou o ideograma “mundo" que apareceria para tornar este princípio superficial e vulgar, ao esclarecer o princípio do corpo recompensa e Terra da Recompensa. 


É provavelmente porque não faria muito sentido se Tathagata Amida na Budeidade na Terra Pura for expressa como "(Amida) agora neste mundo." Entretanto, como a Terra Pura é muitas vezes interpretada como o mundo da suprema alegria, algumas pessoas podem perguntar-me como é que o ideograma "mundo" contradiz o significado do corpo da recompensa e da Terra da Recompensa. Na verdade, é uma das teorias que nossa escola usa para explicar a Terra Pura em palavras simples. Outras escolas também parecem aplicar o ideograma "mundo" para explicá-lo em termos mundanos. O Abhidharma-kośa, capítulo de Loka diz, "o mundo receptáculo é suportado pelo disco do vento." Isto mostra quando o mundo material é discutido, o ideograma ("mundo") é usado. É, sem dúvida, bem fundamentado porque o Bodhisattva Vasubandhu escreveu isso.

No entanto, no Verdadeiro Ensinamento baseado no entendimento de Mestre Shan-tao, a teoria do corpo de recompensa e Terra da Recompensa já foi estabelecida como uma orientação normativa. Ao recordar a passagem do Tratado de Vasubandhu, "Quando contemplamos esse mundo, ele ultrapassa os caminhos do mundo triplo48", para expor o Tathagata Amida cuja verdadeira realização que torna a Terra do "mundo" ser usado? Isso sugere razões para omitir este ideograma. Em vez de lê-lo como, "Este Buda está agora presentemente na budeidade", claramente soa melhor, e de um ponto de vista da lógica e da ideia-chave expressa, este ideograma "mundo" literalmente não tem lugar. Ao discutir este ponto defendido por ambos os patriarcas, Mestre Hônen o mais sábio de todos os nomes famosos das Oito Escolas (especialmente aquelas que tomam a posição dos Três Tratados), disse: "Embora nenhuma linhagem exponha o Voto desta forma, a interpretação do Verdadeiro Ensinamento da Terra Pura faz mais sentido para mim." 





44 

Da obra Hinos de Louvor do Ir-Nascer [Ojöraisan]do Mestre Shan-tao “


45

Respectivamente Hōnen e Shinran



46

Em sânscrito,[Sambogakaya], é a manifestação da verdade em forma absoluta, para além da necessidade de discriminação em conceitos. Representa a Verdade que está além da forma e da ideia. 



47

 Em sânscrito, [Nirmanakaya], é a mais concreta das manifestações, que adquire um corpo, aparecendo em benefício dos seres. Corresponde ao corpo manifestado de Buda. 


48

"Em sanscrito, [Triloka] - O Mundo Tríplice são os mundos dos desejos, da forma e sem-forma. 



原文


第十八願取意の文

(10)

一 十八の願につきたる御釈の事。

 「彼仏今現在成仏」(礼讃)等。この御釈に世流布の本には「在世」とあり。しかるに黒谷·本願寺両師(源空·親鸞)ともに、この「世」の字を略して引かれたり。

 わたくしにそのゆゑを案ずるに、略せらるる条、もつともそのゆゑあるか。まづ『大乗同性経』にいはく「浄土中成仏悉是報身(ほうじん) 穢土中成仏悉是化身」(意)[文]。この文を依憑(えひょう)として、大師(善導)、報身報土の義を成ぜらるるに、この「世」の字をおきてはすこぶる義理浅近(せんごん)なるべしとおぼしめさるるか。そのゆゑは浄土中成仏の弥陀如来につきて、「いま世にましまして」とこの文を訓ぜば、いますこし義理言はれざるか。極楽世界とも釈せらるるうへは、「世」の字いかでか報身報土の義にのくべきとおぼゆる篇(へん)もあれども、さればそれも自宗におきて浅近(せんごん)のかたを釈せらるるときの一往の義なり。

 おほよそ諸宗におきて、おほくはこの字を浅近(せんごん)のときもちゐつけたり。まづ『倶舎論』の性相[「世間品」]に、「安立器世間風輪最居下(こげ)」と等判ぜり。器世間を建立するときこの字をもちゐる条、分明なり。世親菩薩(天親)の所造もつともゆゑあるべきをや勿論(もちろん)なり。しかるにわが真宗にいたりては善導和尚の御こころによるに、すでに報身報土の廃立をもつて規模とす。しかれば、「観彼世界相勝過三界道」(浄土論)の論文(ろんもん)をもつておもふに、三界の道に勝過せる報土にして正覚を成ずる弥陀如来のことをいふとき、世間浅近(せんごん)の事にもちゐならひたる「世」の字をもつて、いかでか義を成ぜらるべきや。

 この道理によりていまの一字を略せらるるかとみえたり。されば「彼仏今現在成仏」とつづけてこれを訓ずるに、「かの仏いま現在して成仏したまへり」と訓ずれば、はるかにききよきなり。義理といひ文点(もんてん)といひ、この一字もつともあまれるか。

 この道理をもつて、両祖の御相伝を推験して八宗兼学の了然上人(りょうねんしょうにん)[ことに三論宗]にいまの料簡を談話(たんかい)せしに、「浄土真宗におきてこの一義相伝なしといへども、この料簡もつとも同ずべし」と[云々]。



現代文

第十八願に関するご解釈のこと。「彼の仏は今現(いまげん)に仏と成って在(おわ)します」などと(『往生礼讃』に)(注1 詠われている。このご解釈について、世の流布本では「世に在します」とある。ところが黒谷の法然上人と本願寺の親鸞聖人の両師ともに、この「世」の字を省略して引用された。わたし一個の考えをもってこの理由を考えてみると、省略されたことは、確かにその理由があるのではないか。まず 『大乗同性経』(注2)には、「浄土で仏となっておられる方は、すべて報身(注3)であって、この穢土(注4)で仏となっておられる方はすべて化身(注5)である」と言っている。この文をよりどころとして、善導大師は(注6)阿弥陀仏の報身・報土の義を成立されるには、この「世」の字をそのまま文中に置いたのでは、はなはだしくこの文の意味するところや筋道が浅薄になるだろう、とお考えになったものであろうか。その理由は、「浄土の中にあって仏と成」っておられる阿弥陀如来について「いま世においでになって」と、この文を読むならば、いま少し意味や筋道が成りたたないからではないか。「極楽世界」とも解釈しておられる以上は、(注7)「世」の字がどうして報身・報土の義にそむくようなことになろうか、と考えられるふしもあるけれども、しかしこうした考え方もわが宗ではわかりやすく常識的解釈をされるときに立てる一往の説である。


 おおよそ諸宗においては、多くはこの「世」の字を常識的な説明のときに用いる習慣になっている。まず 『倶舎論』(注8)へ世間品には「器世間をささえて、風輪はもっとも下に居る」と判じているように、器世間をたてる場合にこの字を用いていることが明白である。世親菩薩の著書〔にしめすところ〕であるから、もっとも理由があることはいうまでもない。もちろんのことである。ところがわが真宗においては、善導和尚のお考えによって、すでに阿弥陀仏の報身・報土を自説と立てて、他説を廃することを手本とする。したがって「かの世界の相を観ると、(注9)三界(注10)の道に勝れ過っている」という 『浄土論』の文をもって考えあわせると、三界の道に勝れまさっている真実の浄土にあってさとりを完成した阿弥陀仏のことをいう場合に、世間の常識的な事を説明するのに用いてきた「世」の字をもって、どうして報身・報土の義を成立することができようか、できないのである。この理由によって、いまの一字を省略せられたものか、と考えられる。だから「彼の仏は今現に仏と成って在します」と続けて、この文をよむときに「かの仏はいま現においでになって仏と成っておられる」とよめば、遥かに聞き易いわけである。意味内容からも、文章の構成からも、この一字はもっとも不必要ではないか。この道理によって両祖師の伝えられたお考えを推しはかって、八宗兼学の了然上人(とくに三論宗〔を学ばれたひと〕)にいまのような理解をお話ししたところ、「このことについて教えを受け伝えてはいないが、浄土真宗において理解されたところが、わたしには一番同意できる」と言われた。




 『往生礼讃』にこの文は善導の 『往生礼讃』の文で、そこには「彼仏今現在世成仏」(真宗聖教全書一。六八三)とあるが、いまそのなかの「世」を除いた文を掲げて、その理由を論ずるのである。法然はこの文を 『選択集』に引用(同一。九四〇)し、親鸞自身もこれを 『教行信証』行巻に引用している(同二・二〇ー1)。 


『大乗同性経』ここに掲げる 『大乗同性経』(大正大蔵経一六)の文は「浄土中成仏、悉是報身。穢土中成仏、悉是化身」とあるが、これは同経下巻の意を取ったもので、この文は、道綽の 『安楽集』上巻に同経の文として引用しているもの(同一・三八三)と一致する。したがって覚如はこの文を 『安楽集』から孫引きしたものである。 『往生要集』第一〇章、第一にもこの 『安楽集』の文を引用している(石田瑞麿(みずまろ)」訳 『往生要集』 2、二四八ページ。東洋文庫所収)。 


『敷異抄』第一章注一参照。一ニページ。


穢土

煩悩にけがれているところという意で、われわれのすむ、この姿婆世界である。浄土に対する。


化身

仏が姿をかえてあらわれたもので、権化などともいう。親鸞がいう方便報身はこれと同じではない。


善導大師は

善導は 『観経疏』玄義分で、みずから問答を設けて、阿弥陀仏の浄土は報土か化土か、と論じて、『大乗同性経』に説くように、「西方の安楽の阿弥陀仏はこれ報仏・報土」(同一・四五七)と答えている。


極楽世界と解釈しておられる

主として善導を考えてよいが、かならずしも善導だけがこの表現を用いるのではない。


『倶舎論』


 第十一巻分別世品に説かれる詩である(大正大蔵経二九。五七上)。これは仏教世界観の一端を示すもので、われわれの住む山河、大地などの器世間をささえる、基盤を構成しているものに風・水・金の三輪があって、風輪は最下部にある、という考え方である。


かの世界の相……世親の 『浄土論』の詩に見られる(同一・三六九)。


10

三界

欲界・色界・無色界の三であるが、生を享けるものが生れかわり、死にかわる流転輪廻の迷いの世界を階位の上から三っに分けたもの。


11

了然

 『最須敬重絵詞』第六巻によれば、光明寺の自性房了然は三論宗のひとで、京極中納言定家の嫡子光家の子である。禅を道隆に学んだという(同三。八四八)。


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歎異抄・執持抄・口伝抄・改邪鈔 (東洋文庫0033) Kindle版
親鸞 (著), 石田 瑞麿 (翻訳)




2021/10/14の朝のお勤めの様子


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