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2021/09/29

それでもブラジルにも毎年 彼岸は来る。2021年9月26日

お彼岸法要はここブラジルでもお勤めされています


 コロナ騒動で世の中はまだ揺れています。昨年の秋のお彼岸はお勤めすることができませんでした。しかし今年は予防注射がほとんどの高齢者が二度打っている状況ということもあり、お勤めすることができました。ありがたいことです。

 


当たり前のことがありがたい

 とはよく聞くことですが、それを実感させてくれたのが今回のコロナだったと思います。写真ではまばらに見えるかもしれませんが、45人くらいの方々がお参りに来てくださり、めいめいお供物を持ってきてくださり、それをお供えしてお勤めをし、その後仏教のお話を聞いて、そのあとお供物を皆でいただきました。

 8月のお盆法要が30人くらいのお参りでしたので、ひと月でお参りされる方も増えたことになります。その時聞いたのですがブラジルでは70歳以上の人は3回目の予防接種が決まったそうです。


当たり前のことなんてない


 今回、皆さんと一緒にお参りをして私自身も気合が入ったような気がします。毎年のお参りのイベントをいつの間にかローテーションをこなすように迎えていたような気がします。一回一回のお参りが一生に一回の大切なお勤めだということが身に染みました。それは、このコロナ禍において人が集まることが危険で不要不急の用事は避けてください、という世間になったにもかかわらずこうやってお寺にお参りに来てくださった多くの人たちの存在のおかげです。



選別できない人生


本来の私たちの命や生活は何一つとして選別できない全てが大切なことにも関わらず、「命をまもる」「迷惑をかけない」という印籠言葉で人々の生活を分断し、逆に大切な生活や命が奪われる事態になったが、昨今ようやくその仕組みが暴かれて来たような気がする。こういう事態はコロナ以前から起こってきたことだから、逆に今回のコロナが人間の傲慢さを暴いてくれたとも言える。
 私たちの人生は裏を返せばいつも緊急事態だったのである。この苦しみに満ちた世界の岸から、あちらの共なる悟りの岸へいこう!という仏教の教えは2600年前から緊急事態宣言を発令し続けていたのである。



現代の戦争


 現代の戦争はいきなり土地を奪いには来ないし、いきなり食料を奪いに来ない、いきなり人を殺したりはしない、平和と平等と健康と笑いに包んで正々堂々と自己責任の名において人々自滅させる形で進んでいます。または宗教、愛、信仰、信心という言葉を利用してやはりまた「自己責任」「あなたが選んだんですよね?」という爆弾で人を殲滅しようとしている。そういう戦争が始まって久しいということが今の時点で確認できていると思います。
 ではどうしたらいいのでしょうか?



おはぎを食べよう

 ブラジルでもおはぎを食べることができるのを知っていますか? お彼岸の季節にはおはぎ、ぼた餅の季節でもあります。このようにして仏教の教えは季節の食べものになるくらいまで私たちの生活に浸透しているのです。現代の見えない爆弾から身を守るためにはこういう長い歴史の願いが込められた食べ物をいただくことが大事です。昔は家でおばあちゃんやお母さんが手で作ってくれたものです。おにぎりも昔は外で買うものではありませんでした。もちろん家でのおにぎりはビニール手袋なんてしないで握るのです。それが大切だったのです。たとえば、おにぎりは家で作って食べるという形で見えない爆弾から身を守ることができます。たとえば、次回のお彼岸にはお寺に行って手を合わせて帰りにおはぎを食べてみませんか?家で作ってみるのもいいと思います。その一連の行為が私たちを守ってくれます。
それがひいては世界を救うことにもなるでしょう。


最後まで読んでくれてありがとうございます。ぜひブラジルにお出での際はマリリアにお寄りください。お待ちしております、🤗

「ブラジル・シュウちゃんねる」






2021/09/20

ブラジルの僧侶、ジアンさんからのメッセージ「宗教と差別」  “Religião e Discriminação” Rev. Jean Tetsuji

 今回はブラジルのお坊さんジアン哲慈さんのコラムを紹介いたします。彼はレインボーサンガという宗派を超えて連帯し、差別をなくす運動をここブラジルで展開しています。 とても柔和な方で、イケメンです。
 僧侶になる前からエアーフランスの客室乗務員をなさっています。そのジアンさんが、サンパウロ別院の発行しているお便りに、差別と宗教というテーマで連載を始めました。
 いったいブラジルの現在のお坊さんは、この現代社会においてどのように仏教を学び、それを発信しているのでしょうか? 
その一つの答えがこのコラムを読めばわかると思います。
ポルトガル語の勉強にもなると思います。ぜひ読んでみてください。 
連載です。

ブラジルの別院サイト・オフィシャル

(過去の別院だよりも、このサイトにあります)

Rainbow Sangha - Budismo LGBT+

ブラジルの差別に反対するサイトです




 “Religião e Discriminação”

Rev. Jean Tetsuji

   Olá a todos, como tem passado? Espero que bem! Na edição anterior, a pedido do Rev. Masato, começamos a falar sobre discriminação impulsionado por sua reflexão com as frases “isso é Budismo Shin, aquilo não é Budismo Shin”. Dentre várias causas que me faz pensar nesse tema, comecei por aquela produzida pelo medo. Hoje pretendo falar pela comparação e julgamento daquilo que se acredita ser errado/certo ou melhor/pior pelo simples fato de ser diferente. Problemas de xenofobia (aversão ao estrangeiro) são assuntos espinhosos em vários países europeus por conta dos refugiados de guerra e conflitos sociais. Vemos ao longo da história humana, e mesmo atualmente, denominações religiosas impondo-se como superiores e únicas adotando uma atitude julgadora invalidando crenças alheias. A isto chamamos de intolerância religiosa, felizmente mitigada por leis. Ao discriminar, perdemos uma parte do nosso valor como humanidade. 
Entendo que a comparação também seja uma das bases para a discriminação. A comparação provoca uma mistura de sensação de insegurança com a certeza da superioridade ao perceber as diferenças entre si e o outro comparado. Das diferenças vem os critérios, os julgamentos, os rótulos, os valores e classifica o outro por sua régua referencial. O Buda Shakyamuni nos esclarece sobre a construção da percepção da realidade e da identidade do eu pelos Cinco Agregados (Skandhas): forma, sensações, percepções, formações mentais e consciência. É por meio deles que interagimos na experiência da vida na condição humana. A criação deste eu produz apego à existência, contempla a si de tal forma que nos lembrar o mito grego de Narciso, e do apego resulta o temor ao outro como fosse uma ameaça potencial. A somatória da comparação, do medo e do julgamento deriva à discriminação. E o resultado leva ao sofrimento e a violência (mental e físico) e mesmo ao suicídio. Certamente, o assunto é inesgotável e nosso espaço aqui é curto e convido-os a desenvolver o tema junto às suas comunidades e templos.  Como budistas, precisamos aprofundar o assunto e promover a não discriminação em nossa sociedade. 
A base dos sofrimentos possui a régua das comparações, isso é fato. Comparamos o tempo todo, em pequeno, médio e alto grau. Basta ir a uma academia de musculação, à feira escolher a melhor fruta ou pensar a qualidade de vida entre países. Na França renascentista, as salas de espelhos dos palácios permitiam os convidados trocar olhares para saber como estavam vestidos e com quem estavam acompanhados. A vaidade e o orgulho são irmãs da comparação e do julgamento e primas da discriminação. E você, quando se depara com uma outra pessoa ou situação diferente da sua referência de vida, que pensamentos vem à mente? Como você reage a eles? Um abraço e até a próxima edição. 







「宗教と差別」 

ジェアン 哲慈(てつじ)

皆様、お元気のことと存じます。前号から真人先生の提案で、「これは真宗である、これは真宗ではない」というような言葉をもとに、差別について 考える機会を頂きました。そして、前回は、このテーマについて考えさせられるいくつかの原因の中で、差別は恐怖によって生み出されるものということを話しました。 
今回は比較と判断をもとに、ただ異なっているという 単純なことで、何が間違 っているか正しいか、あるいは良いか悪いかを 評 価している事について話そうと思っています。 
  外国人の排除という問題があります。それは特に戦争や紛争、そして難民など のような問題であり、ヨーロッパのいくつかの国で深刻な問題となっています。 
また、私達は人類の歴史を振り返り、今日に至るまで、他者より優れていると思い込み、他人の信念を 蔑 ろにするような 宗 教 宗 派を見てきています。このようなことは 宗教的不寛容と呼びますが、幸いにもそういう他人を排除するような思想は、法律によって少しだけ抑制されています。差別することによって 私達は人類としての価値の一部を 失ってしまっています。 
 私は、比べることも差別の根拠の一つだと理解しています。自分と他人との違いを認識するとき、劣等感と自分が優れているという優越感のような複雑な気持を引き起こします。その違いから基準をつくり、判断し、レッテルを貼り、価値付けをして、自分の物差しで人を分けてしまいます。 
 私達が現実と自己の存在 証明や、自分らしさを知覚することは、五蘊によって作り上げられているとお釈迦様は教えて下さっています。五蘊とは物質、感覚、知覚、意志、そして心です。 私 達 は人間として生活するにはこれを通して人との関わりを体験しています。この自己というものを作り上げ、自己の存在への 愛 着 を生み出すことについては、ギリシャ神話のナルキッソスを思い出させられます。愛 着 によって他者への恐れが生じ、比較と恐れと決めつけが入り交ざり、差別につながると思います。その結果が、苦しみと、精神的、肉体的暴力 、さらには自殺にまでにつながっていくのでしょう。
 このテーマは膨大です。ですので、限られたスペースだけではなく、是非ともコミュニティーやお寺で、このことについて話し合うことをお願いいたします。 仏教徒として、この問題をより深め、無差別な社会を構成するように努めていか なければならないと思います。 苦しみの根源に、比較というものがある事は事実です。大なり小なり、 私達は常に比較しています。例えばジムの中、おいしそうな果物を選ぶ時、国別の生活水準 のことなどでも比較します。ルネサンス期のフランスの 宮 殿 の 鏡張の部屋には、ゲストがお互いの洋服を見比べ、そして誰と一緒に来ているかを確かめ合うようなことをしていました。それは虚栄心とプライドで比較し、判断し、差別を促すようなものです。 それでは、みなさんは不慣れな状況や、いつも接している人以外と出会った時、どのような考えが浮かびますか? そういった人達に対し、どのような態度を示しますか? 
 
それでは、次回まで!お元気で! 



「ブラジル・シュウちゃんねる」

 

2021/09/17

Noteより、毎日ブラジルより、お朝勤と仏教のお話 (noteの宣伝)

今日のブログは、いつもは私のもう一つのブログnoteに書いている内容です。

本職はブラジルで僧侶をしているので、毎朝のお勤めのお今日のリンクとその後のお話のノートをnoteにシェアしているのです。

 noteのいい点はとてもシンプルで名前の通りテキストが読みやすい点です。それが今日は珍しいことにアクセス不能になっていたので、私のブラジル生活の日常を記しているブログに急遽貼り付けさせてもらいました。

 もしよかったらnoteの方もアクセスしていみてください。毎朝(ブラジル時間)お勤めと法話をしています。下手ではありますが、ポルトガル語でも話させてもらっています。テキストもあるので、特殊ではありますが、ポルトガル語の勉強にも役立つと思います。

https://note.com/izushu/n/nc7ec4cd9d706


ここからがいつものnotoの内容です。


おはようございます

今日は観無量寿経です

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E8%AA%9E_%E8%A6%B3%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C



O Sutra da Contemplação da Vida Imensurável

http://jodoshinshu.com.br/budismo-terra-pura/sutra-da-contemplacao-da-vida-imensuravel/


 サンパウロ 真宗大谷派 ブラジル別院 南米本願寺

20219月号より

http://amida.org.br/quem/





“O que é ser budista?“ 

                               

Sr. Oscar Tsuneki Sakuraba 


    Sou nissei nascido em 1950 como quinto filho do total de oito. Mas meu irmão mais velho e o terceiro irmão já tinham falecido quando nasci. Dizem que, em 1941, quando o primeiro filho faleceu com 40 dias de vida, meu pai escreveu 南無阿彌陀佛 (NAMU AMIDA BUTSU) num pedaço de tábua e o ergueu sobre uma caixa para transportar laranja e todos juntos realizaram a cerimônia fúnebre. Como naquela época ainda não havia um monge do Budismo Shin no Brasil, ouvi dizer que o meu avô materno oficiou a cerimônia budista como se fosse um monge e que a partir daquele dia, ele passou a receber chamado sempre que surgia um funeral na vizinhança. Já me perguntaram várias vezes se eu era budista, desde a época em que frequentava a escola primária localizada no meio do cafezal. Acho que sempre respondi que sim. 

Entretanto, pensando hoje aos 71 anos de idade, às vezes tenho dúvida se realmente sou um budista. A minha rotina diária começa com a realização do ofício budista junto com a minha esposa e minha irmã mais nova. Encerramos o ofício ouvindo a pregação transmitida pelo rádio, cuja gravação consta no site do Santuário Central em Quioto. Depois, no entanto, quase nunca me lembro das pregações ouvidas e passo o tempo restante do dia, sofrendo com os fatos que ocorrem em desacordo com o que gostaria que acontecessem. Sempre que reflito sobre esse meu comportamento, surge a dúvida se isso é de fato uma atitude de uma pessoa que quer se tornar buda. Nos dias atuais, de vez em quando me vem à memória a pregação ouvida num Congresso Dôbô que participei há anos, quando o mestre nos ensinou: “Tornar-se buda recitando o Nenbutsu, eis o que é o Budismo Shin”. 



「仏教徒とは」

櫻庭 恒喜(つねき) オスカル 


 私  8人兄 弟の 5番目として、1950年に生まれた日系二世です。⻑ 男と三男 の兄たちは、  が生まれたときには、既に亡くなっていました。1941年に、  が生後40で亡くなったときには、父が「南無阿彌陀佛」と板切れに書き、 ミカン箱の上に立てて、みんなでお葬儀のお勤めをしたそうです。ブラジルには、    の僧侶がいなかった時代だったので、母方の祖父が導師の代わりをし、 以後、祖父は近隣に葬儀が出ると呼ばれるようになったと聞いています。コーヒー 園に囲まれた    へ通う頃から、「あなたは仏  ですか」とよく聞かれまし た。その都度、「はい」と答えたと思います。 

 けれども、現在71歳になって  えてみると、本当に  は仏  徒なのだろうかと疑問に思ったりします。毎朝、妻と   3でお勤めをして、最後に本山の サイトのラジオ法話を聞くことで始まる毎日ですが、その後、聞いたお  はほとんど思い出さないまま、夜休むまで自分の思い通りにならない暮らしに悩んでいる自分を振り返るたびに、これが本当に仏になりたいと願う者の 姿 なのかなとつい疑 ってしまいます。

  以前、同朋大会で「お念仏して仏に成る、これが真 宗」だと教えてくださった先生のお  が、たまには思い出される今日この頃です。 



「ブラジル・シュウちゃんねる」

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2021/09/09

「眠れぬ夜を 嘆くものは多いが 目覚めた朝に 感謝するものは少ない」(かわいい孫のニコラスとお寺の掲示板に作品を仕上げました。)

かわいい孫のニコラスとお寺の掲示板に作品を仕上げました。



 かわいい孫のニコラスとお寺の掲示板に作品を仕上げました。

毎月の法語を書いていますが、たまたま遊びにきていた孫のニコラスにも手伝ってもらいました。ニコラスは今年2歳になります。ちょうどコロナが世界的に蔓延した時に生まれたのです。しかし元気にすくすくと育っています。



 私と妻のファビアはニコラスにとっておじいちゃん、おばあちゃんになるのですが、わたしよりもファビアの方が日本語や、日本的な事を教えようとしているのが面白いです。ニコラスのお母さんのタイスちゃんもそれを嫌がるようでもなく、お寺でお焼香をさせたりしても付き合ってくれます。ちなみに彼女は無宗教主義です。



9月の法語



眠れぬ夜を

嘆くものは多いが

目覚めた朝に

感謝するものは少ない


ポルトガル語


Muitos queixam da noite de insônia, mas, 

Poucos adradecem pelo despertar da manhã .


スペイン語


Muchos se quejan de la noche del insomnio,

Pero pocos agradecen el despertar de la mañana. 



南米で配布されるカレンダーなので、3ヵ国語で書かれています。
わかりやすい法語でポルトガル語にしても宗教に関係なく届く言葉を選んでいます。
今回の言葉も日常の中で忘れがちな、感謝の心を教えてくれていると思います。

しかし、この頃な時代を経験した人は普通の日常のありがたさを改めて感じた人も多いと思います。普段の生活の中にふと思う何気ない感覚に大切なおしえが潜んでいるのでしょう。



ブラジル

マリリア市のマリリア真宗本願寺

R. Vinte e Quatro de Dezembro, 1587 - Alto Cafezal, Marília - SP, 17504-010


https://goo.gl/maps/dYGH2PEHHGxTnp6T8



「ブラジル・シュウちゃんねる」


2021/09/07

ブラジルに仏教を伝えた第一人者のブラジル人。ヒカルド・マリオ・ゴンサルベス先生Ricardo Mario Gonçalves師がお浄土へお帰りになりました。

本日202196日午前5時頃、南米開教区開教使Ricardo Mario Gonçalves師がご逝去されました。師は1981年に得度され、1986年から現在に至るまで35年間、開教使として、また南米教学研究所の研究員として南米開教区における教化活動の中心となりご活躍いただきました。その活動は大谷派だけにとどまらず、今日ではブラジルにおける仏教研究においても多大な功績を残されております。

真摯に教えに向き合う師の姿勢、お念仏が中心の人生を歩まれたそのお姿は、私たちにとっても大切な道標でございます。

このたびの師のご逝去を悼み、ここに謹んでお悔やみ申し上げます。





 上記のメールが監督部から昼に届く前から、各方面からリカルド先生がお亡くなりになったという情報が届いていました。以前から体調が悪く入院したが回復している、コロナの陽性だったが回復しているという話が届いていたので、非常にショックでした。そのままいつもの通りオンラインの朝のお勤めをしました。その朝の蓮如上人の御文は疫癘(えきれい)」の御文でした。


ヒカルド先生との出会い

 

 私がまだ大谷大学の学生だった時たまたま校内ですれ違っています。しかも二度も。おそらく校内を案内されていたのでしょう。随行の先生が私に「ブラジルから生出になっている先生なんですよ。」と教えてくださり、「それは、ようこそ遠いところから」と言いたかったのですが、英語も何もできない私は驚きも手伝って、頭を下げると、にっこり笑って日本語で「初めまして」とおっしゃったと思います。もしかしたら「ヒカルドです」とお名前もおっしゃっていたかもしれません。
 
 そういうことが確か二度、大谷大学時代にあったのです。きっと何か特別な研究の為に日本に滞在にされていたのでしょう。その時私はその20年後にはブラジルの地で先生に再会するとはこれっぽっちも思っていなかったのです。


ヒカルド先生の功績


 先生はブラジルの国立大学の最高峰であるUSP大学の歴史学の教授でもおいででした。

しかし、それ以上に10代の頃より日本文化に傾倒し、日本仏教を学び、自らも僧侶となり、多くの経典や仏教書を翻訳して、ここ南米の地に仏教、特に浄土真宗の他力念仏の教えを広めた第一人者でした。日本語は日本人よりも難しい漢字を読むことができ、当然、英語も堪能でした。まさに南米に生きる三蔵法師そのものの偉業を成し遂げて、しかも現在まで現役で活躍なさった方なのです。


 おそらく先生のポルトガル語の仏教書は今後日本語にも翻訳されるのではないかと思われます。またYouTubeに先生の法話がいくつも上がっているので見ることができます。それも今後翻訳されると思われます。


 先生の偉業は日本仏教の翻訳にあります。日本仏教とはいえ、中国の漢文の経典を用いつつ熟成されたものですので、中国語と日本の文化のバックグランドを読み込んだ上で、サンスクリット文献、また諸外国で翻訳されている主に英語の情報も取り入れて、ポルトガル語に訳しておいででした。ポルトガル語はカトリックの宗教用語が詰まっているので、例えば信心とか信仰という言葉をそのまま翻訳するとカトリックの用語の信心、信仰と誤解されてしまうので、工夫を凝らして仏教の国を超えて伝わってきたそのエッセンスを如何に訳するか? という超人的な仕事をしてこられました。


リカルド先生を念じて


 私は今だにポルトガル語もほぼできず、またそれでは日本語での仏教をマスターしているか? と問われたら困ってしまうような者ですが、それでも先生にお会いして、サンパウロでも先生の講義を(もちろん99%ポルトガル語ですが)聴聞する機会を頂けたのはありがたいことだと思います。


 今日の午後3時にオンライン葬儀が行われ、130人余りの方々が参加されましたが、まさに法然上人を彷彿とさせるように宗派を超えて、職種を超えて沢山の人々が参加されました。最後に数人の人が謝辞(弔辞)を述べられました。各宗派の方、翻訳家の方、先生の生徒で日本で活躍するブラジル人などなどです。そして皆さんが最後に「南無阿弥陀仏」と念仏を称えたのは、本願他力の教えに生涯を捧げたリカルド先生の念仏の教えが宗派を職種を超えて広がっている証しだったと思います。


現開教監督・輪番である塚本智光輪番が葬儀でご法話でリカルド先生のエピソードお話をしてくださいました。リカルド先生が、Tres joiasというブラジル仏教のドキュメンタリー映画の対談の時どなたかが、「ブラジルで仏教を学ぶものは高学歴で金持ちが多いのですがどう思われますか?」と尋ねた所、リカルド先生は憤慨したような面持ちで「いえ、仏教の教えは貧しい人こそ救われていく教えなのです」と応えたという話がでとても印象に残りました。

 仏教では貧しい人、金持ちを銀行口座の残高で決めるのではありません。また仏教の智恵とは色々な知識が頭に入っている人を指すのでもないのです。貧しい我々が共に救われていく道が本願他力の念仏の教えである事を即座に応えた先生の大切なエピソードです。



源空光明はなたしめ

門徒につねにみせしめき
賢哲愚夫もえらばれず
豪貴鄙賤もへだてなし


南無阿弥陀仏





大谷暢裕御門首のコメント


 最後に現在の真宗大谷派 (東本願寺)の門首である、大谷暢裕御門首の挨拶の一部を紹介します。先生のお父さん、大谷暢慶氏もリカルド先生と親交があり、大谷暢裕御門首自身も様々な教えを共に学んだことに感謝し、先生の偉業をたたえておいででした。またご家族を労り、今後も念仏の教えを大切にされる事をお願いされました。
 大谷暢裕御門首は現在日本の本山に住んでおいでですので、ブラジル時間の午後3時は日本では深夜の3時にもかかわらずオンライン葬儀に参加され、思い出を語り先生の偉業に感謝の言葉をかけてくださったのは大変ありがたい事でした。

最後に


ヒカルド先生、大変ありがとうございました。先生とたまに別院でお会いする時に、いつも丁寧に頭を下げて両手で手を握って「お元気ですか?」と優しく挨拶をしてくださったのが嬉しかったです。
 これから私は苦手な語学と仏教の勉強ですが、少しづつ続け先生の残された本を読めるようになる事を目標にします。現在先生を中心に翻訳された『口伝鈔』を毎日少しづつですが読んでおります。

南無阿弥陀仏




ー以下、疫癘(えきれい)」の御文の本文ー


当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生まれはじめしよりしてさだまれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。しかれども、いまの時分にあたりて死去するときは、さもありぬべきようにみなひとおもえり。これまことに道理ぞかし。このゆえに、阿弥陀如来のおおせられけるようは、「末代の凡夫、罪業のわれらたらんもの、つみはいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくうべし」とおおせられたり。かかる時はいよいよ阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、極楽に往生すべしとおもいとりて、一向一心に弥陀をとうときことと、うたがうこころつゆちりほどももつまじきことなり。かくのごとくこころえのうえには、ねてもさめても、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ともうすは、かようにやすくたすけまします、御ありがたさ、御うれしさを、もうす御礼のこころなり。これをすなわち仏恩報謝の念仏とはもうすなり。あなかしこ、あなかしこ。

延徳四年六月 日








「ブラジル・シュウちゃんねる」

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ちなみにドキュメンタリー映画Tres joiasは、本派本願寺の僧侶、菅尾健太郎(日本人)が監督で、現在私と同じマリリア市に住んでおいでです。マリリア市の西本願寺の僧侶です。

さらに、ヒカルド先生の日本映画の字幕翻訳の功績を称えた記事のリンクを添えます。
椿三十郎やナショナルキッド、七人の侍などです。

いま、注目の投稿はこちら

今日はブラジルでも母の日でした。おめでとうございます!いつもありがとうお母さん。🙏

 今日はブラジルでも母の日でした。私たちは、妻ファビアの実家でこの特別な日をお祝いしました。ブラジルでは、母の日には教会でお祈りを捧げ、お墓参りをして故人の母親を偲ぶことが多いです。その後、家族が集まって食事を楽しむのが一般的です。サンパウロ別院のお寺では、納骨堂も設置されており...

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