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2021/10/28

最終回 3、「宗教と差別」ジェアン哲慈 “Religião e Discriminação” Rev. Jean Tetsuji  

 今回はブラジルのお坊さんジアン哲慈さんのコラム第三弾を紹介いたします。
彼はレインボーサンガという宗派を超えて連帯し、差別をなくす運動をここブラジルで展開しています。
 僧侶になる前からエアーフランスの客室乗務員をなさっています。そのジアンさんが、サンパウロ別院の発行しているお便りに、差別と宗教というテーマで連載を始めました。

 ブラジルの現在のお坊さんは、この現代社会においてどのように仏教を学び、発信しているのでしょうか? このコラムを読めばその一端がわかると思います。
ポルトガル語の勉強にもなると思います。ぜひ読んでみてください。 
連載です。

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「宗教と差別」  3   

                                ジェアン哲慈 ブラジル僧侶


 皆さん、こんにちは。お元気ですか。年末も近づき、真人先生が提案された最後のコラムとなりました。様々な社会の中で共に暮らすためには、差別について常に考え、継続的に練習することが必要であると思います。生き方を定義する良い物は何ですか?ある信念の善が他の信念よりも優先されるべきでしょうか?特定の人の、信念、文化が他の人よりも重要であり、不寛容、差別、苦しみをもたらすのはなぜですか?終わりのない課題だと思います。皆様のコミュニティーで絶えず話すことを勧めます。


 私は最近、ジョン・パラスケヴォポウロス先生の『The Immeasurable Life』(MotherofPearl出版社)という優れた作品を読みました。私たちの対話に貴重な説明をもたらしてくれていると思うのでいくつか紹介します。「私はより良い人になれますか?」の章でジョン師は、私たちの欲望と情熱が私たちの生活の中でどのように絶えず生じ、発揮されるかについて、親鸞の言葉を思い出します。彼は次のように指摘しています。「私たちは、私たちの生活の中で、そのような有害な考えを実行する権利を持っているという意味ではありません。私たちが他人や自分自身を害する行為をとる時、私たちの道徳的責任は間違いなく作用します。意図的で無いように見えても、私たちがコントロールを失い、
人や自分を傷つけるような欲求を追求することがあります。それでも、私たちはそのような行動に対応し、法律の罰や社会的屈辱または業の報復などを介して、この人生の結果に耐えるよう強いられます。」仏教徒としての生涯を通して責任について考えましょう。阿弥陀如来は法と真実としてはたらきかけてくださっています。欲まみれの人間を理解されているので、私達をそのまま受け入れてくださいます。自分を変える必要もなく、メリットや優しさなどを積み重ね、それをもって目覚めを求めることはできません。お浄土への道は、決して自力(限り有る人間の力)の実践で得るものではなく、他力(無限の超越的な力)によって得るものです。


 仏陀は皆をありのままに受け入れてくださいますが、だからといって我がままのままでいても良いということを意味するのではなく、その自分に気付いて、欲望の海にどれほど没頭しているかを認識し、それぞれの違いを理解し、同時にすべての人間に共通の性質を見つめなおすことを理解することを教えてくださいます。ジョン師は親鸞の一節を引用し、次のように述べています。「人々は仏の教えを深く信頼していくほど自分のエゴイズムを捨てようとし、生死の苦界から逃げられない自分を憐れみ、喜んでアミダの名前を呼び、本願を信じることができます。人々は、以前から間違った行動をとらないようにと考えていたのであろうが、それは頭の中からの命令のような発想であって、今度は心から間違ったことをやめようとしている事実は、確かに彼らがこの世界を嫌がることのしるしであると思えるでしょう。」ここに、謙虚さ、自己批判、応用力、内省の重要なポイントがあります。


 暗い部屋は、明るくする力がないため、外部の日光によってのみ明るくすることができます。「思いやりのある倫理的な行動は結果であり、精神的な目覚めの条件ではありません」と、ジョン師は結論を出されています。私たちが偉大な計り知れない生命の中に入っているにも関わらず、その生命を軽蔑することは、湖に落ちる水滴のようなものです。一滴の水は生命の湖を否定し、一滴であると考え続け、それはつまり、環境と自然と自分自身を区別してしまうことです。ここまで私の考え方を共にしていただきありがとうございました。なんらかの形で皆さんの生活の役に立てたら幸いです。


                                                                                南無阿弥陀仏




Religião e Discriminação”  3

Rev. Jean Tetsuji 


    Olá a todos, como vocês estão? Estamos chegando ao final do ano e à última coluna de reflexão proposta pelo Rev. Masato. Pensar a discriminação é um exercício contínuo de como viver juntos numa sociedade plural. Qual é o bem que define a forma de viver? O bem de uma crença deve prevalecer sobre outras? O que faz uma pessoa/crença/cultura ser mais importante que outra, resultando em intolerância, discriminação e sofrimento? É um tema inesgotável e convido-os a conversarem constantemente em suas comunidades. 

    Recentemente li a excelente obra do rev. John Paraskevopoulos (A Vida Imensurável, ed. Madrepérola) que traz elucidações valiosas para nossa conversa e gostaria de transcrever algumas delas. No capítulo “Posso me tornar uma pessoa melhor?”, Rev. John lembra das palavras do Mestre Shinran sobre como nossos desejos e paixões mundanas surgem constantemente e atuam no nosso viver. Porém, ele ressalta que: “isso não significa que temos, de forma alguma, o direito de pôr em prática tais pensamentos perniciosos em nossas vidas. Nossa responsabilidade moral definitivamente entra em ação quando realizamos atos que são prejudiciais aos outros e a nós mesmos. Pode acontecer de, às vezes, perdermos o controle e perseguirmos desejos que são prejudiciais, mesmo que pareçam não serem motivados por intenções ou impulsos. Mesmo assim, somos chamados a responder por tais comportamentos e de arcar com as consequências nesta vida, seja por meio pela punição da lei, de humilhação social ou de retribuição cármica”. 

    Estamos falando da responsabilidade ao longo da vida budista. O Buda Amida, sendo a ação do Dharma, da Verdade, da Lei, de fato aceita você como é porque entende a natureza humana das paixões. Você não precisa mudar ou acumular méritos ou bondades para acessar o Despertar. A proposta do caminho da Terra Pura não se faz pela prática do Poder Próprio (poder profano limitado) que acessa o Outro Poder (poder transcendental ilimitado). O Buda o aceita como tal, não para chancelar a continuar dessa forma, mas para fazer-se perceber e tomar consciência de quão imerso se está no mar das paixões mundanas, entender nossas diferenças e ao mesmo tempo entender a natureza comum a todos os humanos. Rev. John ainda cita uma passagem do Mestre Shinran, onde diz: “Quando a confiança das pessoas no Buda cresce profundamente, elas passam a abominar o ego e a lamentar sua contínua existência no mundo de nascimentos e mortes; tais pessoas dizem com alegria o nome de Amida, confiando-se profundamente ao Voto. O fato das pessoas procurarem parar de fazer coisas erradas, movidas pelo coração - embora anteriormente pensassem nessas coisas e se comprometessem com elas, submetidas que estavam ao autoritarismo de suas mentes - certamente é um sinal de que rejeitaram este mundo.” 

    Aqui entra o importante ponto da humildade, da auto-crítica, da resiliência, do olhar-se para dentro. Um quarto escuro só pode ser clareado pela luz externa do sol, pois ele não tem a capacidade própria de fazer. 

    “O comportamento compassivo e ético só pode ser uma consequência, não uma condição do despertar espiritual”, conclui Rev. John. Desprezar esta grande Vida Imensurável a que estamos inseridos é como a gota d’água que cai no lago e continua pensando que é gota, discriminando o ambiente e a natureza de sua própria existência enquanto gota. Obrigado por acompanhar estas reflexões e que tragam algum benefício em suas vidas! 

                                                                                                                    Namu Amida Butsu. 


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2021/10/24

「本当の死が見えないと、本当の生も生きれない」藤原新也 『メメントモリ』 今週のことば 尾畑文正  ポルトガル語、日本語原文 中日新聞文化面より

 


中日新聞文化面より

「本当の死が見えないと、本当の生も生きれない」

藤原新也 『メメントモリ』

今週のことば 

尾畑文正


 中南米では十一月二日はフィナードス(死者の日)である。映画「007 スペクター」は骸骨姿が溢(あふ)れるメキシコのフィナードスから始まる。ブラジルでもフィナードスがあり、墓地には花が飾られる。私がいたサンパウロの寺では七月の孟蘭盆会(うらぼんえ)に準じてこの日をプラジル盆と呼んでいた。誰もが死者への想いは尽きない。死者はかつて私と時間を共にし、過去存在として現在の私に深く関わり、私の未来をも示している。

 中世ヨーロッパでペストが大流行した。人々は死の不安の中で「メメント・モリ」と言い合った。メメント・モリとはラテン語で「死を想え」である。なぜ死を想うことなのか。死を想うことは生を想うことである。死は生きたことの証明である。だから生は死から問われている。いかなる生を生きたのかと。死は自然死だけではない。戦争、虐待、貧困、公害など社会的要因による死もある。それが一層私たちの生の歪(ゆが)みを映し出している。

(同朋大学名誉教授)


"Se você não pode ver a morte verdadeira, não pode viver a vida verdadeira."

Shinya Fujiwara "Mementomori"

Palavras desta semana Bunsho Obata

    Na América Latina, 2 de novembro é o Finados (Dia dos Mortos). O filme "007 CONTRA SPECTRE " começa no Finados do México, que está cheio de esqueletos. Também há um finados no Brasil, e o cemitério é decorado com flores. No templo em São Paulo onde eu estava, esse dia era chamado de Festival Brasil Bon segundo o Festival Ura Bome de julho. Todo mundo tem um sentimento infinito pelos mortos. Os mortos uma vez passaram um tempo comigo, profundamente envolvidos comigo como um ser passado, e também mostrando meu futuro.
    A praga estava na moda na Europa medieval. As pessoas argumentaram "Memento Mori" com medo da morte. Memento Mori é a palavra latina para "pensar na morte". Por que você pensa na morte? Pensar na morte é pensar na vida. A morte é prova de vida. Portanto, a vida está sendo questionada da morte. Em que tipo de vida você viveu? A morte não se limita à morte natural. Também há mortes devido a fatores sociais como guerra, abuso, pobreza e poluição. Ele reflete ainda mais nossa distorção bruta.

(Professor Emérito, Doho University)

    

画像1

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2021/10/23

(動画あり) 修理代は384Real ブラジルの洗濯機 8年で初めての故障 BRASTEMP

8年使った洗濯機が故障したので直してもらいました。正直ブラジルの製品は早く壊れることが多いのですが、BRASTEMPというメーカーは当たりだったようです。個体差はあるのでしょうが、妻のファビアもいいメーカーだと言っています。




ブラジルで製品を買うときの心がけ


以前ともかく安い値段のものを買ってすぐに壊れてしまった経験があります。買うときも作りも安っぽくて心配だったのですが、その不安が的中してすぐに壊れてしまいました。それ以来一番安いものは避けて中の上くらいの値段のものを買っています。

 そう心がけてからというものあまりひどい製品に出会ったことはありません。結局最終的には安くつくのです。

 今回の洗濯機も8年故障なしで使えたので頼もしい限りです。あと5年くらいは頑張って欲しいです。

ちなみに修理代の384レアルは大体7700円くらい(2021/10/22現在のレート)です。



日本のせいの洗濯機もあります

 動画でも触れていますが、パナソニックの洗濯機もブラジルで頑張っていますよ!日本製はまた少し他の機種より高いのですが、韓国製品が幅をきかしているブラジルで日本勢も値段と機能ともに安くていいものを出すことで勝負しています。ですから以前ほどの値段の開きはないようです。それはテレビやオーディオでもそうです。やはり日本勢に頑張って欲しいですよね。 一昨年は娘のタイスちゃんにパナソニックの洗濯機をプレゼントしました。家を購入したお祝いです。今のところ快適に使えているようです。


BRASTEMP  HP  https://www.brastemp.com.br  

Panasonic    HP  https://www.panasonic.com/br/

 

それでは動画をご覧ください


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 #ブラジル #洗濯機 #修理


大事に使っていきます

樹齢100年のブラジルのキン台 マリリア真宗本願寺 (東本願寺)のキン台を作りました。

 無いものは現地で作る

 ブラジルのお寺を見ていると、日本から輸入したものと現地で作ったものが混在しています。割合では8−2で現地で作ったものが多いのです。私が初めてブラジルのサンパウロ別院に着任した時も、ご門徒の古山さんに本尊前の内敷の骨組みを作っていただいたのを覚えています。その後は蝋燭の穴あけの機械も作ってくださったり、須弥壇収骨も作っていただきました。

 ここ、マリリアのお寺でもお寺が立つ前の阿弥陀仏や経卓などが残っています。
そもそもこの木造建築のお寺自体が現地の木で建てられています。おそらく移民でおいでになった大工さんが建立したと言われています。現在は森林保護の為使えないシロアリなどに侵されない堅い木で建っています。もう70周年になりますが、屋根は雨漏りで困っていますが、他の部分は全く問題がありません。屋根も日本式屋根の仕組みを知らない人が改修を行なった為不完全になっていると想像しています。ブラジルの屋根と構造が違うので仕方がないのです。

現地の職人に作ってもらう

 かつては移民の中に日本家屋に詳しい大工がいましたが、今はその巧みの技は日本でさえ宮大工しか知らないのです。ブラジルにいないのはもっともなことです。

 しかし、ブラジルにも優れた技術者がいます。そういった人を探すのはかなり難しいと痛感しています。しかし、妻のファビアのおかげで使い古された木をリノベーションするJesséさんを見つけてきてくれて彼に今回キン台を作ってもらいました。

 大変ありがたいことに、現ブラジル別院輪番、塚本先生の計らいで先生の自坊の等運寺様よりキン(おつとめの時に鳴らす鐘)とキン台を今年いただいたのです。 ブラジルは椅子に座ってのお勤めなのでさらに台を追加してJesséさんに作ってもらいました。

真宗大谷派  等運寺 三条教区 第18組 http://www.winpal.net/~341-2/



樹齢100年の木!

動画の中で語っていますが、今回Jesséさんが作ってくれた台の気は樹齢100年ものブラジルのperoba rosa (ペロバ ホーザ)という木で作ってくださったのです!
 動画の中では木肌が見えますが、後でファビアが他の仏具に合わせて黒く塗ってくれました。結構時間とお金もかかりましたが、ブラジルのお寺ではこのようにして日本の物とブラジルの物と人の力でお寺が成り立っていることを肌で感じました。
 思えば日本の仏教も中国・韓国との交流の中100年単位の時間をかけて、教えとともに建築や絵画などの匠の技がたくさんの人の志のおかげで形成されたのでした。

 そのお披露目動画です。  撮影したのは数ヶ月前の動画になります。   


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#budismo #shino #キン台 #ブラジル #お寺

2021/10/20

Noteより、毎日ブラジルより、お朝勤と仏教のお話 ポルトガル語、原文、現代文比較 朗読あり

 仏教のポルトガル語のテキストと日本語の原文、そして日本語の現代語訳や語句の意味を掲載しています。

 今日のブログは、いつもは私のもう一つのブログnoteに書いている内容です。

本職はブラジルで僧侶をしているので、毎朝のお勤めのお今日のリンクとその後のお話のノートをnoteにシェアしています。

 noteのいい点はとてもシンプルで名前の通りテキストが読みやすい点です。こちらにもアクセスしてください。毎朝(ブラジル時間)お勤めと法話をしています。下手ではありますが、ポルトガル語でも話させてもらっています。テキストもあるので、特殊ではありますが、ポルトガル語の勉強にも役立つと思います。

https://note.com/izushu/n/ne7aadeb5043a

2021/10/15

仏教のポルトガル語のテキストと日本語の原文、そして日本語の現代語訳や語句の意味を掲載しています。私の完全仏教系ブログ、noteの宣伝です。 

 今日のブログは定期的に行っているもう一つのブログnoteの宣伝です。

https://note.com/izushu

仏教のポルトガル語のテキストと日本語の原文、そして日本語の現代語訳や語句の意味を掲載しています。


 もうブラジルに来て14年目になりますが、現在ブラジルのマリリア市という場所のマリリア真宗本願寺という場所で僧侶として働いています。

 この世がコロナになる少し前からYouTubeで毎朝のお勤めを生中継しているのですが(このブログの最下部に今日の内容を表示させておきます)お勤めの後の法話の代わりに、ポルトガル語に翻訳されたテキストを読んで感想を述べるのを日課にしています。その時にネットで見ている人にもテキストを配れたらいいという思いで作ったのがnoteのブログです。このブログは広告が一切ないのでまさにノートのように見やすく参照しやすいのが特徴です。

 たまにこちらのブラジル日記にもその内容をアップしつつ、noteの宣伝を兼ねさせてもらっています。ちょっと難しいかもしれませんが、日本の仏教の教えがこうやってポルトガル語になってるなんてすごいことだと思います仏教の教えは人間の迷いや苦しみを解決する教えで、現代の私たちにも通用する大切な教えです。ここブラジルはカトリックやキリスト教の教えが大勢を占めていますが、仏教の教えに惹きつけられる人も年々増えています。

 毎日少し仏教の言葉に触れることが、人生の糧となるでしょう。毎日水を飲み、食事をするように一緒に仏教の教えに触れてみてはいかがでしょうか?

ポルトガル語の勉強にもなると思います。


口伝鈔 第九章.    Capítulo 10 


Capítulo 10

 Uma explanação a respeito do Décimo Oitavo Voto 



"Este Buda atualmente permanece na Budeidade44". Esta declaração em uma edição popular diz: "(Este Buda) está neste mundo", No entanto, os professores de Kurodani e Honganji45 omitem o ideograma para "mundo" ao citar esta passagem. Depois de deliberar sobre isso, eu também decidi omitir tal palavra. 


Qual é a justificativa? Primeiro, o Sutra Mahāyāna Abhisamaya diz: "Todos os Budas da budeidade na Terra Pura são corpo de recompensa46 e todos os Budas da budeidade que habitam esta terra contaminada são corpos de transformação47." Esta passagem revela que o grande Mestre Shan-tao não usou o ideograma “mundo" que apareceria para tornar este princípio superficial e vulgar, ao esclarecer o princípio do corpo recompensa e Terra da Recompensa. 


É provavelmente porque não faria muito sentido se Tathagata Amida na Budeidade na Terra Pura for expressa como "(Amida) agora neste mundo." Entretanto, como a Terra Pura é muitas vezes interpretada como o mundo da suprema alegria, algumas pessoas podem perguntar-me como é que o ideograma "mundo" contradiz o significado do corpo da recompensa e da Terra da Recompensa. Na verdade, é uma das teorias que nossa escola usa para explicar a Terra Pura em palavras simples. Outras escolas também parecem aplicar o ideograma "mundo" para explicá-lo em termos mundanos. O Abhidharma-kośa, capítulo de Loka diz, "o mundo receptáculo é suportado pelo disco do vento." Isto mostra quando o mundo material é discutido, o ideograma ("mundo") é usado. É, sem dúvida, bem fundamentado porque o Bodhisattva Vasubandhu escreveu isso.

No entanto, no Verdadeiro Ensinamento baseado no entendimento de Mestre Shan-tao, a teoria do corpo de recompensa e Terra da Recompensa já foi estabelecida como uma orientação normativa. Ao recordar a passagem do Tratado de Vasubandhu, "Quando contemplamos esse mundo, ele ultrapassa os caminhos do mundo triplo48", para expor o Tathagata Amida cuja verdadeira realização que torna a Terra do "mundo" ser usado? Isso sugere razões para omitir este ideograma. Em vez de lê-lo como, "Este Buda está agora presentemente na budeidade", claramente soa melhor, e de um ponto de vista da lógica e da ideia-chave expressa, este ideograma "mundo" literalmente não tem lugar. Ao discutir este ponto defendido por ambos os patriarcas, Mestre Hônen o mais sábio de todos os nomes famosos das Oito Escolas (especialmente aquelas que tomam a posição dos Três Tratados), disse: "Embora nenhuma linhagem exponha o Voto desta forma, a interpretação do Verdadeiro Ensinamento da Terra Pura faz mais sentido para mim." 





44 

Da obra Hinos de Louvor do Ir-Nascer [Ojöraisan]do Mestre Shan-tao “


45

Respectivamente Hōnen e Shinran



46

Em sânscrito,[Sambogakaya], é a manifestação da verdade em forma absoluta, para além da necessidade de discriminação em conceitos. Representa a Verdade que está além da forma e da ideia. 



47

 Em sânscrito, [Nirmanakaya], é a mais concreta das manifestações, que adquire um corpo, aparecendo em benefício dos seres. Corresponde ao corpo manifestado de Buda. 


48

"Em sanscrito, [Triloka] - O Mundo Tríplice são os mundos dos desejos, da forma e sem-forma. 



原文


第十八願取意の文

(10)

一 十八の願につきたる御釈の事。

 「彼仏今現在成仏」(礼讃)等。この御釈に世流布の本には「在世」とあり。しかるに黒谷·本願寺両師(源空·親鸞)ともに、この「世」の字を略して引かれたり。

 わたくしにそのゆゑを案ずるに、略せらるる条、もつともそのゆゑあるか。まづ『大乗同性経』にいはく「浄土中成仏悉是報身(ほうじん) 穢土中成仏悉是化身」(意)[文]。この文を依憑(えひょう)として、大師(善導)、報身報土の義を成ぜらるるに、この「世」の字をおきてはすこぶる義理浅近(せんごん)なるべしとおぼしめさるるか。そのゆゑは浄土中成仏の弥陀如来につきて、「いま世にましまして」とこの文を訓ぜば、いますこし義理言はれざるか。極楽世界とも釈せらるるうへは、「世」の字いかでか報身報土の義にのくべきとおぼゆる篇(へん)もあれども、さればそれも自宗におきて浅近(せんごん)のかたを釈せらるるときの一往の義なり。

 おほよそ諸宗におきて、おほくはこの字を浅近(せんごん)のときもちゐつけたり。まづ『倶舎論』の性相[「世間品」]に、「安立器世間風輪最居下(こげ)」と等判ぜり。器世間を建立するときこの字をもちゐる条、分明なり。世親菩薩(天親)の所造もつともゆゑあるべきをや勿論(もちろん)なり。しかるにわが真宗にいたりては善導和尚の御こころによるに、すでに報身報土の廃立をもつて規模とす。しかれば、「観彼世界相勝過三界道」(浄土論)の論文(ろんもん)をもつておもふに、三界の道に勝過せる報土にして正覚を成ずる弥陀如来のことをいふとき、世間浅近(せんごん)の事にもちゐならひたる「世」の字をもつて、いかでか義を成ぜらるべきや。

 この道理によりていまの一字を略せらるるかとみえたり。されば「彼仏今現在成仏」とつづけてこれを訓ずるに、「かの仏いま現在して成仏したまへり」と訓ずれば、はるかにききよきなり。義理といひ文点(もんてん)といひ、この一字もつともあまれるか。

 この道理をもつて、両祖の御相伝を推験して八宗兼学の了然上人(りょうねんしょうにん)[ことに三論宗]にいまの料簡を談話(たんかい)せしに、「浄土真宗におきてこの一義相伝なしといへども、この料簡もつとも同ずべし」と[云々]。



現代文

第十八願に関するご解釈のこと。「彼の仏は今現(いまげん)に仏と成って在(おわ)します」などと(『往生礼讃』に)(注1 詠われている。このご解釈について、世の流布本では「世に在します」とある。ところが黒谷の法然上人と本願寺の親鸞聖人の両師ともに、この「世」の字を省略して引用された。わたし一個の考えをもってこの理由を考えてみると、省略されたことは、確かにその理由があるのではないか。まず 『大乗同性経』(注2)には、「浄土で仏となっておられる方は、すべて報身(注3)であって、この穢土(注4)で仏となっておられる方はすべて化身(注5)である」と言っている。この文をよりどころとして、善導大師は(注6)阿弥陀仏の報身・報土の義を成立されるには、この「世」の字をそのまま文中に置いたのでは、はなはだしくこの文の意味するところや筋道が浅薄になるだろう、とお考えになったものであろうか。その理由は、「浄土の中にあって仏と成」っておられる阿弥陀如来について「いま世においでになって」と、この文を読むならば、いま少し意味や筋道が成りたたないからではないか。「極楽世界」とも解釈しておられる以上は、(注7)「世」の字がどうして報身・報土の義にそむくようなことになろうか、と考えられるふしもあるけれども、しかしこうした考え方もわが宗ではわかりやすく常識的解釈をされるときに立てる一往の説である。


 おおよそ諸宗においては、多くはこの「世」の字を常識的な説明のときに用いる習慣になっている。まず 『倶舎論』(注8)へ世間品には「器世間をささえて、風輪はもっとも下に居る」と判じているように、器世間をたてる場合にこの字を用いていることが明白である。世親菩薩の著書〔にしめすところ〕であるから、もっとも理由があることはいうまでもない。もちろんのことである。ところがわが真宗においては、善導和尚のお考えによって、すでに阿弥陀仏の報身・報土を自説と立てて、他説を廃することを手本とする。したがって「かの世界の相を観ると、(注9)三界(注10)の道に勝れ過っている」という 『浄土論』の文をもって考えあわせると、三界の道に勝れまさっている真実の浄土にあってさとりを完成した阿弥陀仏のことをいう場合に、世間の常識的な事を説明するのに用いてきた「世」の字をもって、どうして報身・報土の義を成立することができようか、できないのである。この理由によって、いまの一字を省略せられたものか、と考えられる。だから「彼の仏は今現に仏と成って在します」と続けて、この文をよむときに「かの仏はいま現においでになって仏と成っておられる」とよめば、遥かに聞き易いわけである。意味内容からも、文章の構成からも、この一字はもっとも不必要ではないか。この道理によって両祖師の伝えられたお考えを推しはかって、八宗兼学の了然上人(とくに三論宗〔を学ばれたひと〕)にいまのような理解をお話ししたところ、「このことについて教えを受け伝えてはいないが、浄土真宗において理解されたところが、わたしには一番同意できる」と言われた。




 『往生礼讃』にこの文は善導の 『往生礼讃』の文で、そこには「彼仏今現在世成仏」(真宗聖教全書一。六八三)とあるが、いまそのなかの「世」を除いた文を掲げて、その理由を論ずるのである。法然はこの文を 『選択集』に引用(同一。九四〇)し、親鸞自身もこれを 『教行信証』行巻に引用している(同二・二〇ー1)。 


『大乗同性経』ここに掲げる 『大乗同性経』(大正大蔵経一六)の文は「浄土中成仏、悉是報身。穢土中成仏、悉是化身」とあるが、これは同経下巻の意を取ったもので、この文は、道綽の 『安楽集』上巻に同経の文として引用しているもの(同一・三八三)と一致する。したがって覚如はこの文を 『安楽集』から孫引きしたものである。 『往生要集』第一〇章、第一にもこの 『安楽集』の文を引用している(石田瑞麿(みずまろ)」訳 『往生要集』 2、二四八ページ。東洋文庫所収)。 


『敷異抄』第一章注一参照。一ニページ。


穢土

煩悩にけがれているところという意で、われわれのすむ、この姿婆世界である。浄土に対する。


化身

仏が姿をかえてあらわれたもので、権化などともいう。親鸞がいう方便報身はこれと同じではない。


善導大師は

善導は 『観経疏』玄義分で、みずから問答を設けて、阿弥陀仏の浄土は報土か化土か、と論じて、『大乗同性経』に説くように、「西方の安楽の阿弥陀仏はこれ報仏・報土」(同一・四五七)と答えている。


極楽世界と解釈しておられる

主として善導を考えてよいが、かならずしも善導だけがこの表現を用いるのではない。


『倶舎論』


 第十一巻分別世品に説かれる詩である(大正大蔵経二九。五七上)。これは仏教世界観の一端を示すもので、われわれの住む山河、大地などの器世間をささえる、基盤を構成しているものに風・水・金の三輪があって、風輪は最下部にある、という考え方である。


かの世界の相……世親の 『浄土論』の詩に見られる(同一・三六九)。


10

三界

欲界・色界・無色界の三であるが、生を享けるものが生れかわり、死にかわる流転輪廻の迷いの世界を階位の上から三っに分けたもの。


11

了然

 『最須敬重絵詞』第六巻によれば、光明寺の自性房了然は三論宗のひとで、京極中納言定家の嫡子光家の子である。禅を道隆に学んだという(同三。八四八)。


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歎異抄・執持抄・口伝抄・改邪鈔 (東洋文庫0033) Kindle版
親鸞 (著), 石田 瑞麿 (翻訳)




2021/10/14の朝のお勤めの様子


「ブラジル・シュウちゃんねる」


2021/10/06

ブラジルの僧侶、ジアンさんからのメッセージ 「宗教と差別」2  “Religião e Discriminação” Rev. Jean Tetsuji 2

今回はブラジルのお坊さんジアン哲慈さんのコラム第二弾を紹介いたします。
彼はレインボーサンガという宗派を超えて連帯し、差別をなくす運動をここブラジルで展開しています。 とても柔和な方で、イケメンでもあります。
 僧侶になる前からエアーフランスの客室乗務員をなさっています。そのジアンさんが、サンパウロ別院の発行しているお便りに、差別と宗教というテーマで連載を始めました。

 ブラジルの現在のお坊さんは、この現代社会においてどのように仏教を学び、それを発信しているのでしょうか? 
その一つがこのコラムを読めばわかると思います。
ポルトガル語の勉強にもなると思います。ぜひ読んでみてください。 
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 Religião e DiscriminaçãoRev. Jean Tetsuji  2

Olá a todos, espero que se encontrem bem e seguros! Nas outras edições refleti um pouco sobre a origem da discriminação apontando possíveis causas - medo, comparação, julgamento - como parâmetros da intolerância e da discriminação. E hoje seria pensar no ambiente religioso. Ouvimos muito a expressão Budismos no plural, conforme nosso saudoso e querido prof. rev. Ricardo Mário, como fossem coisas discordantes. E na ânsia de querer o melhor, procuramos selecionar o mais correto e legítimo. Costumo dizer que as escolas budistas não concorrem entre elas. Elas são expressões de um mesmo tronco por ramos diversos. 

E lembremos que Buda Shakyamuni ensinou por formas adequadas às pessoas com capacidades espirituais diferentes, e sobretudo para eras distantes, quando um Buda não estaria mais presente. Nesse sentido, o Budismo não pode ser entendido como um produto acabado, engessado, como diz rev. Nobuo Haneda em um de seus artigos*. As diferenças de pensamentos podem ser saudáveis quando bem conduzidas, mas trazem no pacote a possibilidade da soberba e da discórdia, e isso ocorre nas comunidades religiosas, inclusive budistas. Os possíveis desafetos desestabilizam a comunidade. Por isso a importância de escutar o Dharma (prática de monpô), estudar, debater e elucidar pontos incompreendidos e sobretudo se permitir à reflexão, à humildade e à reconciliação. 

Uma das cinco perversidades excludentes no 18o Voto de Amida é a cisão no Sangha (os outros quatro são: matar um pai, matar uma mãe, matar um asceta e derramar o sangue de um Buda). E por sua compaixão incondicional, uma característica da Terra Pura é ser uma terra onde todos são iguais. Vemos esta equalização no 3o Voto ao falar que todos possuirão a cor de ouro. Gosto muito ainda da explanação do Rev. Haneda quando entende a Terra Pura como uma inspiração ao Sangha e um local de transformação. A Terra Pura sendo aqui e agora. Não estamos em competição, estamos juntos no Caminho. A Luz do Buda opera em nós como somos, sem pedir que mudemos. Porém, essa interpretação pode ser mal recebida se recortada de um pensamento maior. 

Entretanto, não cabe uma comodidade de se fazer e ser como se bem entende, em atitude soberba, detratora e intolerante. Para isto existe um termo, Hongan Bokori, o qual o verbo hokoru significa ser orgulhoso, vangloriar-se, no caso do Voto Original por saber que será salvo como seja você como for. Ao ser tocado pelo Voto do Buda, nossas ações paulatinamente tendem a ser mais compassivas e humanas, e não o contrário. Creio ser esse o significado da Terra Pura como local de transformação e a reflexão que rev. Masato tenha nos trazido. Nosso espaço aqui é curto, merece ser desdobrada em boas conversas! E como está a saúde, a harmonia, do seu Sangha? Um abraço e até a próxima e última coluna. 

*site www.maida-center.org 





「宗 教と差別 ジェアン 哲慈  2


みなさん、こんにちは。お元気のこととお 喜 申し上ます。 前号は、「恐れ、比較、判断」不寛容と差別の要因として指摘きるのはないかと申 しました。 今回は、 宗 教 的な問題について 考 えていきたいと思います。 

 私たちのよき師あったリカル先生によると、仏 教 複数の教えあるよ うに誤解され、その上、それれの教え意見合わないとよくおっしゃってい ました。 私たちはのようなものに対しても最高のものを欲しる中、残念 なら、教えに対しても 最 も正確合法的なものを選択しようとしてしまいます。

 私はよく同仏 教 の教えは互いに 競 争しないと言っています。 それらは、同幹を持ついくつかの枝のようなものす。お釈迦様は、異なった思考や能 、逆 にそれらは相手を軽蔑したり、不仲を生む可能性あります。このようなことは仏 教 徒を含む 宗 教 コミュニティー発生します。 起こりうる不満はコミュニティーの信頼を失いさせます。

からこそ、教えに耳を 傾 け、勉 強 し、理解きていない部分について議論 し、解明し、そして何よりも自分自身反省し、謙虚に、そして互いを認め合うこと 重 要あると思います。 

 阿弥陀様の第18願救いから除かれる五 逆 の中の 1 つに、サンの分裂あります。(他の 4 つは、父親の殺害、母親の殺害、阿羅漢の殺害、仏陀を傷つけて 出 血させることす。) しかし、 浄 土は無 条 件の慈悲あり、誰も 平 等 す。 誰も金色 輝 いているという 3番目の願い教えられていて、それをもって 平 等なのす。 

浄土をサンへのはたらきと変容の場として理解している羽田先生の説明とても好きす。 浄土は今ここにあります。 私たちは競争していません。同道を歩んいます。
仏の光 は、私たちに変化を求めることなく、私達を有りのまま照らしてくれています。 しかし、この解 釈 は、本来の意図から切り離された場合、異なった受け止め方可能となります。 それは、傲慢、 中 傷 的、不寛容な態度、好き勝手な行動をとることはありません。 これには、弥陀の本願を、あなたがどんな人も救われると自慢し、誇りに思うことを意味する「本願こり」という用語あります。 

仏の本願に心打たれたら、 私 たちの行動には徐々に思いやり、 人間的になる傾向見られ、その 逆 はないはずです。これ、変容の場としての 浄 土の意味あり、このようなことの反省を浦西先生は提案されたのはないかと思っています。 このスースは限られています、これをきっかけに 沢山の話し合いをされることを願っています! あなたのサンの 調 和はすか? それは、アラッソ、次回最後の記事となります、それま、お元気! 

 *ウェサイトwww.maida-center.org 


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お寺の近所のイバンさんが感動的なコメントをくださいました。日本語訳あり。「ノーベル平和賞、日本被団協に」

まずはこのニュースをご覧ください。 ノーベル平和賞、日本被団協に 被爆者証言が「核のタブー」成立に貢献と評価 https://www.bbc.com/japanese/articles/ckgnp02v5r0o 以下イバンさんの送ってくださったメッセージです。 Prêmio ...

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