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2021/09/29

それでもブラジルにも毎年 彼岸は来る。2021年9月26日

お彼岸法要はここブラジルでもお勤めされています


 コロナ騒動で世の中はまだ揺れています。昨年の秋のお彼岸はお勤めすることができませんでした。しかし今年は予防注射がほとんどの高齢者が二度打っている状況ということもあり、お勤めすることができました。ありがたいことです。

 


当たり前のことがありがたい

 とはよく聞くことですが、それを実感させてくれたのが今回のコロナだったと思います。写真ではまばらに見えるかもしれませんが、45人くらいの方々がお参りに来てくださり、めいめいお供物を持ってきてくださり、それをお供えしてお勤めをし、その後仏教のお話を聞いて、そのあとお供物を皆でいただきました。

 8月のお盆法要が30人くらいのお参りでしたので、ひと月でお参りされる方も増えたことになります。その時聞いたのですがブラジルでは70歳以上の人は3回目の予防接種が決まったそうです。


当たり前のことなんてない


 今回、皆さんと一緒にお参りをして私自身も気合が入ったような気がします。毎年のお参りのイベントをいつの間にかローテーションをこなすように迎えていたような気がします。一回一回のお参りが一生に一回の大切なお勤めだということが身に染みました。それは、このコロナ禍において人が集まることが危険で不要不急の用事は避けてください、という世間になったにもかかわらずこうやってお寺にお参りに来てくださった多くの人たちの存在のおかげです。



選別できない人生


本来の私たちの命や生活は何一つとして選別できない全てが大切なことにも関わらず、「命をまもる」「迷惑をかけない」という印籠言葉で人々の生活を分断し、逆に大切な生活や命が奪われる事態になったが、昨今ようやくその仕組みが暴かれて来たような気がする。こういう事態はコロナ以前から起こってきたことだから、逆に今回のコロナが人間の傲慢さを暴いてくれたとも言える。
 私たちの人生は裏を返せばいつも緊急事態だったのである。この苦しみに満ちた世界の岸から、あちらの共なる悟りの岸へいこう!という仏教の教えは2600年前から緊急事態宣言を発令し続けていたのである。



現代の戦争


 現代の戦争はいきなり土地を奪いには来ないし、いきなり食料を奪いに来ない、いきなり人を殺したりはしない、平和と平等と健康と笑いに包んで正々堂々と自己責任の名において人々自滅させる形で進んでいます。または宗教、愛、信仰、信心という言葉を利用してやはりまた「自己責任」「あなたが選んだんですよね?」という爆弾で人を殲滅しようとしている。そういう戦争が始まって久しいということが今の時点で確認できていると思います。
 ではどうしたらいいのでしょうか?



おはぎを食べよう

 ブラジルでもおはぎを食べることができるのを知っていますか? お彼岸の季節にはおはぎ、ぼた餅の季節でもあります。このようにして仏教の教えは季節の食べものになるくらいまで私たちの生活に浸透しているのです。現代の見えない爆弾から身を守るためにはこういう長い歴史の願いが込められた食べ物をいただくことが大事です。昔は家でおばあちゃんやお母さんが手で作ってくれたものです。おにぎりも昔は外で買うものではありませんでした。もちろん家でのおにぎりはビニール手袋なんてしないで握るのです。それが大切だったのです。たとえば、おにぎりは家で作って食べるという形で見えない爆弾から身を守ることができます。たとえば、次回のお彼岸にはお寺に行って手を合わせて帰りにおはぎを食べてみませんか?家で作ってみるのもいいと思います。その一連の行為が私たちを守ってくれます。
それがひいては世界を救うことにもなるでしょう。


最後まで読んでくれてありがとうございます。ぜひブラジルにお出での際はマリリアにお寄りください。お待ちしております、🤗

「ブラジル・シュウちゃんねる」






2021/09/25

勘違いが世界を開く ー間違えてもいいー  延塚先生に聞いた亀毛(きもう)のお話

勘違いが世界を開く




 これはまだ日本の小松にいた頃、富山へ延塚知道先生のお話を聞きにいくときに思い出したお話です。


   延塚先生は私の大谷大学時代にであった先生で、私が所属していたクラブ「伝道部」(仏教系の大学らしい部活でしょ?)の顧問でもありました。広島の実家のお寺にもよく法話においでになってくださっておりました。先生は大学の教授ですが法話をされる時はわかりやすく、また授業中でも生徒にわかりやすく話してくれる先生でした。ここブラジルにも2回もきてくださっています。

 さて、延塚先生は既に書いたブログの鴨川カップル・等間隔座りの謎「京大生ボート部、琵琶湖失踪事件」などの話も記憶に残っています。誤解しないでほしいのですが、↑のような話しばかりを先生はしているのではありません。私は小学生の時から勉強が嫌いで、授業中肝心な話しは聴かずに、ジャポニカ学習帳の隅に書いてある、まめ知識のコーナーばかり読んでいたような子供で今に至ります。面白いお話が好きだし、記憶に残るのですね。。。。。


それで今日、印象に残ったお話は亀毛(きもう)のお話です。


 亀は万年というから、昔の人は亀がそれだけ長生きしているから、ながーい毛が生えていると勘違いした。というか、想像していたのだそうです。
だから、浦島太郎の乗った亀には毛が描かれている。しかし、それは昔の人の想像ではなく、本当に亀に生えていた。でも、生えていたのは髪の毛ではなく、こけだったのです。寿命の長い亀の甲らほどコケが多く付き、それが髪の毛のように見えたのです。つまり見間違えだったというお話。


実は愚かな勘違い


 これは仏教の法話のたとえ話で、亀の甲らのコケを髪の毛なんだと思い込む人間の愚かさを表現しているんです。無いものをあると勘違いして自己主張する人間の執着心を表してる。勘違いを主張して、かえって自分で自分の首を絞めて苦しめているだよ。と教えてくれる。

「お金があれば何でも出来て、幸せ」とか「健康であれば何でも出来て、幸せ」などと勘違いしていたり。実はその勘違いの「幸せ」に死んで、自分の都合だけではない本当の幸せに見ざめることが仏教の教えが指し示す道なのです。仏教でいう「無」とか「空」の思想もそうですし、さらに「南無阿弥陀仏」の教えもそうなのです。

愚かな勘違いが、ありがたい悟りへ導くカギ


 特に御念仏の教えるところの一番大切なポイントは、この話しを聞いて、「明日から勘違いしない人間になりましょう」と自分を励ますのではなく「私っていっぱい勘違いして生きているんだね、しかしその勘違い人生には大きなメッセージが託されているんだね」と知る事なんですね。勘違いしない立派な人間にならなくてもいい。勘違いしまくって、ときにはヘコんだりしますが、その勘違いが実は人間を育て、芸術や文化を育て、私たちを導いていると感得しつつ生きていきたいものです。

「ブラジル・シュウちゃんねる」






延塚先生の著書


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