2021/10/28

最終回 3、「宗教と差別」ジェアン哲慈 “Religião e Discriminação” Rev. Jean Tetsuji  

 今回はブラジルのお坊さんジアン哲慈さんのコラム第三弾を紹介いたします。
彼はレインボーサンガという宗派を超えて連帯し、差別をなくす運動をここブラジルで展開しています。
 僧侶になる前からエアーフランスの客室乗務員をなさっています。そのジアンさんが、サンパウロ別院の発行しているお便りに、差別と宗教というテーマで連載を始めました。

 ブラジルの現在のお坊さんは、この現代社会においてどのように仏教を学び、発信しているのでしょうか? このコラムを読めばその一端がわかると思います。
ポルトガル語の勉強にもなると思います。ぜひ読んでみてください。 
連載です。

ブラジルの別院サイト・オフィシャル

(過去の別院だよりも、このサイトにあります)

Rainbow Sangha - Budismo LGBT+

ブラジルの差別に反対するサイトです


「宗教と差別」  3   

                                ジェアン哲慈 ブラジル僧侶


 皆さん、こんにちは。お元気ですか。年末も近づき、真人先生が提案された最後のコラムとなりました。様々な社会の中で共に暮らすためには、差別について常に考え、継続的に練習することが必要であると思います。生き方を定義する良い物は何ですか?ある信念の善が他の信念よりも優先されるべきでしょうか?特定の人の、信念、文化が他の人よりも重要であり、不寛容、差別、苦しみをもたらすのはなぜですか?終わりのない課題だと思います。皆様のコミュニティーで絶えず話すことを勧めます。


 私は最近、ジョン・パラスケヴォポウロス先生の『The Immeasurable Life』(MotherofPearl出版社)という優れた作品を読みました。私たちの対話に貴重な説明をもたらしてくれていると思うのでいくつか紹介します。「私はより良い人になれますか?」の章でジョン師は、私たちの欲望と情熱が私たちの生活の中でどのように絶えず生じ、発揮されるかについて、親鸞の言葉を思い出します。彼は次のように指摘しています。「私たちは、私たちの生活の中で、そのような有害な考えを実行する権利を持っているという意味ではありません。私たちが他人や自分自身を害する行為をとる時、私たちの道徳的責任は間違いなく作用します。意図的で無いように見えても、私たちがコントロールを失い、
人や自分を傷つけるような欲求を追求することがあります。それでも、私たちはそのような行動に対応し、法律の罰や社会的屈辱または業の報復などを介して、この人生の結果に耐えるよう強いられます。」仏教徒としての生涯を通して責任について考えましょう。阿弥陀如来は法と真実としてはたらきかけてくださっています。欲まみれの人間を理解されているので、私達をそのまま受け入れてくださいます。自分を変える必要もなく、メリットや優しさなどを積み重ね、それをもって目覚めを求めることはできません。お浄土への道は、決して自力(限り有る人間の力)の実践で得るものではなく、他力(無限の超越的な力)によって得るものです。


 仏陀は皆をありのままに受け入れてくださいますが、だからといって我がままのままでいても良いということを意味するのではなく、その自分に気付いて、欲望の海にどれほど没頭しているかを認識し、それぞれの違いを理解し、同時にすべての人間に共通の性質を見つめなおすことを理解することを教えてくださいます。ジョン師は親鸞の一節を引用し、次のように述べています。「人々は仏の教えを深く信頼していくほど自分のエゴイズムを捨てようとし、生死の苦界から逃げられない自分を憐れみ、喜んでアミダの名前を呼び、本願を信じることができます。人々は、以前から間違った行動をとらないようにと考えていたのであろうが、それは頭の中からの命令のような発想であって、今度は心から間違ったことをやめようとしている事実は、確かに彼らがこの世界を嫌がることのしるしであると思えるでしょう。」ここに、謙虚さ、自己批判、応用力、内省の重要なポイントがあります。


 暗い部屋は、明るくする力がないため、外部の日光によってのみ明るくすることができます。「思いやりのある倫理的な行動は結果であり、精神的な目覚めの条件ではありません」と、ジョン師は結論を出されています。私たちが偉大な計り知れない生命の中に入っているにも関わらず、その生命を軽蔑することは、湖に落ちる水滴のようなものです。一滴の水は生命の湖を否定し、一滴であると考え続け、それはつまり、環境と自然と自分自身を区別してしまうことです。ここまで私の考え方を共にしていただきありがとうございました。なんらかの形で皆さんの生活の役に立てたら幸いです。


                                                                                南無阿弥陀仏




Religião e Discriminação”  3

Rev. Jean Tetsuji 


    Olá a todos, como vocês estão? Estamos chegando ao final do ano e à última coluna de reflexão proposta pelo Rev. Masato. Pensar a discriminação é um exercício contínuo de como viver juntos numa sociedade plural. Qual é o bem que define a forma de viver? O bem de uma crença deve prevalecer sobre outras? O que faz uma pessoa/crença/cultura ser mais importante que outra, resultando em intolerância, discriminação e sofrimento? É um tema inesgotável e convido-os a conversarem constantemente em suas comunidades. 

    Recentemente li a excelente obra do rev. John Paraskevopoulos (A Vida Imensurável, ed. Madrepérola) que traz elucidações valiosas para nossa conversa e gostaria de transcrever algumas delas. No capítulo “Posso me tornar uma pessoa melhor?”, Rev. John lembra das palavras do Mestre Shinran sobre como nossos desejos e paixões mundanas surgem constantemente e atuam no nosso viver. Porém, ele ressalta que: “isso não significa que temos, de forma alguma, o direito de pôr em prática tais pensamentos perniciosos em nossas vidas. Nossa responsabilidade moral definitivamente entra em ação quando realizamos atos que são prejudiciais aos outros e a nós mesmos. Pode acontecer de, às vezes, perdermos o controle e perseguirmos desejos que são prejudiciais, mesmo que pareçam não serem motivados por intenções ou impulsos. Mesmo assim, somos chamados a responder por tais comportamentos e de arcar com as consequências nesta vida, seja por meio pela punição da lei, de humilhação social ou de retribuição cármica”. 

    Estamos falando da responsabilidade ao longo da vida budista. O Buda Amida, sendo a ação do Dharma, da Verdade, da Lei, de fato aceita você como é porque entende a natureza humana das paixões. Você não precisa mudar ou acumular méritos ou bondades para acessar o Despertar. A proposta do caminho da Terra Pura não se faz pela prática do Poder Próprio (poder profano limitado) que acessa o Outro Poder (poder transcendental ilimitado). O Buda o aceita como tal, não para chancelar a continuar dessa forma, mas para fazer-se perceber e tomar consciência de quão imerso se está no mar das paixões mundanas, entender nossas diferenças e ao mesmo tempo entender a natureza comum a todos os humanos. Rev. John ainda cita uma passagem do Mestre Shinran, onde diz: “Quando a confiança das pessoas no Buda cresce profundamente, elas passam a abominar o ego e a lamentar sua contínua existência no mundo de nascimentos e mortes; tais pessoas dizem com alegria o nome de Amida, confiando-se profundamente ao Voto. O fato das pessoas procurarem parar de fazer coisas erradas, movidas pelo coração - embora anteriormente pensassem nessas coisas e se comprometessem com elas, submetidas que estavam ao autoritarismo de suas mentes - certamente é um sinal de que rejeitaram este mundo.” 

    Aqui entra o importante ponto da humildade, da auto-crítica, da resiliência, do olhar-se para dentro. Um quarto escuro só pode ser clareado pela luz externa do sol, pois ele não tem a capacidade própria de fazer. 

    “O comportamento compassivo e ético só pode ser uma consequência, não uma condição do despertar espiritual”, conclui Rev. John. Desprezar esta grande Vida Imensurável a que estamos inseridos é como a gota d’água que cai no lago e continua pensando que é gota, discriminando o ambiente e a natureza de sua própria existência enquanto gota. Obrigado por acompanhar estas reflexões e que tragam algum benefício em suas vidas! 

                                                                                                                    Namu Amida Butsu. 


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2021/10/26

ブラジルの冷凍マグロを解凍して刺身にして食べるまで (解説動画あり)

ブラジルの冷凍マグロを解凍して刺身にして食べるまで解説動画です。




 日本から来た人は(特に海沿いで美味しいお魚を食べてきた方は)ブラジルの刺身はイマイチと思われるかもしれませんが、わたしはもうかなり美味しくいただけるようになってきました。

 北陸に住んでいた頃は地元の方は日本の他の場所で魚介類を食べても「美味しくない」「地元の石川さんが一番!」または「富山が一番!」と郷土愛も込みでおっしゃっていました。事実広島生まれの私は北陸に来てからかなり美味しい海の幸、山の幸をご馳走になったので、そう自慢したくなるのもわかります。

 ところがいい大人になってから地元広島の居酒屋で瀬戸内の幸を頂いたらこれまたすごく美味しかったです。じゃあ、京都の魚はまずいのか?というと、安くて美味しい場所は流石に少ないでしょうが、流通の進歩のおかげで京都でも美味しいお魚は今では食べることができますよね?(ここら辺は個人差が大きく出てくるかもしれませんが)

 つまり今日本ではどこで食べても美味しいお刺身がいただけると思います。それに比べるとブラジルでいただく日本式のお刺身は見劣りがしてもしょうがないでしょう。 しかし年々そのクオリティーは上がっていると思います。その一つの理由がやはり流通の進歩ですが、一番大きいのは日本に出稼ぎに行って修行をして帰ってきた方々がここブラジルでどんどん日本料理屋のお店を開店して営んでいるからだと思っています。競争が激しいのです。

もう一つの大きな理由はインターネットで新しい技術や情報が出回っているからだと思います。



 ところでブラジルではここ内陸地のマリリアでもお寿司屋さんがあって結構おしいのですが、どうしても値段は高くなってしまいます。そしてこれもしょうがないのですが、値段の割にはそのクオリティーはどうしても下がってしまいます。そしてクオリティーがそこそこのところはすごくねだんが高いので手軽に口に入れるのは難しいのです。そこで自然と。。。。



ブラジルでは刺身を切るスキルが要求される



ことになるわけです。とはいえ切り身を買ってきたとしても結構な値段がかかるのでやはりたまにということになります。そのために柳包丁や研ぎ石なんかも購入して結局高くつくという話もありますが、生活の経験値をアップできると思えばそういう投資も悪くないと思います。

というわけで前置きが長くなりましたが、ブラジルでも内陸に位置するマリリアの魚屋さんで手に入れた冷凍マグロをネット情報を参考にして解凍し、お刺身にしてみました。

 

今はネットでいろんな情報が手に入るので便利になりました。感謝です。


冷凍マグロの解凍の仕方 (他にもたくさん解説ページあります)

http://ist-market.closed.jp/cate/?no=17


ブラジルの海の天然塩 (お風呂に入れてもいいですよ!)

Kit 3 Sal Marinho Fino de Mossoró 1kg Smart temperos



今回の魚を買ったお魚屋さん


Peixaria Tilápia Fernandes

R. Atílio Gomes de Melo, 10 - Fragata, Marília - SP, 17501-210

+5514998801552

https://goo.gl/maps/NobeUgsPEGUede3q8



それでは動画をご覧ください! 妻のファビアも登場します


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2021/10/24

「本当の死が見えないと、本当の生も生きれない」藤原新也 『メメントモリ』 今週のことば 尾畑文正  ポルトガル語、日本語原文 中日新聞文化面より

 


中日新聞文化面より

「本当の死が見えないと、本当の生も生きれない」

藤原新也 『メメントモリ』

今週のことば 

尾畑文正


 中南米では十一月二日はフィナードス(死者の日)である。映画「007 スペクター」は骸骨姿が溢(あふ)れるメキシコのフィナードスから始まる。ブラジルでもフィナードスがあり、墓地には花が飾られる。私がいたサンパウロの寺では七月の孟蘭盆会(うらぼんえ)に準じてこの日をプラジル盆と呼んでいた。誰もが死者への想いは尽きない。死者はかつて私と時間を共にし、過去存在として現在の私に深く関わり、私の未来をも示している。

 中世ヨーロッパでペストが大流行した。人々は死の不安の中で「メメント・モリ」と言い合った。メメント・モリとはラテン語で「死を想え」である。なぜ死を想うことなのか。死を想うことは生を想うことである。死は生きたことの証明である。だから生は死から問われている。いかなる生を生きたのかと。死は自然死だけではない。戦争、虐待、貧困、公害など社会的要因による死もある。それが一層私たちの生の歪(ゆが)みを映し出している。

(同朋大学名誉教授)


"Se você não pode ver a morte verdadeira, não pode viver a vida verdadeira."

Shinya Fujiwara "Mementomori"

Palavras desta semana Bunsho Obata

    Na América Latina, 2 de novembro é o Finados (Dia dos Mortos). O filme "007 CONTRA SPECTRE " começa no Finados do México, que está cheio de esqueletos. Também há um finados no Brasil, e o cemitério é decorado com flores. No templo em São Paulo onde eu estava, esse dia era chamado de Festival Brasil Bon segundo o Festival Ura Bome de julho. Todo mundo tem um sentimento infinito pelos mortos. Os mortos uma vez passaram um tempo comigo, profundamente envolvidos comigo como um ser passado, e também mostrando meu futuro.
    A praga estava na moda na Europa medieval. As pessoas argumentaram "Memento Mori" com medo da morte. Memento Mori é a palavra latina para "pensar na morte". Por que você pensa na morte? Pensar na morte é pensar na vida. A morte é prova de vida. Portanto, a vida está sendo questionada da morte. Em que tipo de vida você viveu? A morte não se limita à morte natural. Também há mortes devido a fatores sociais como guerra, abuso, pobreza e poluição. Ele reflete ainda mais nossa distorção bruta.

(Professor Emérito, Doho University)

    

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 今日はブラジルでも母の日でした。私たちは、妻ファビアの実家でこの特別な日をお祝いしました。ブラジルでは、母の日には教会でお祈りを捧げ、お墓参りをして故人の母親を偲ぶことが多いです。その後、家族が集まって食事を楽しむのが一般的です。サンパウロ別院のお寺では、納骨堂も設置されており...

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