2023/03/28

ChatGTPとお布施の金額について話し合う。 

 



以下は私の質問とChatGTPの答えである。最後はChatGTPが僕を宥めるような形で終わっている。

以下問答


私の質問

働いて給料をもらうのと、僧侶がお布施をいただくことにはどんな違いがあるのでしょうか?


ChatGTP

働いて給料をもらうことと、僧侶がお布施をいただくことは、いくつかの違いがあります。


目的: 働いて給料をもらうことは、労働力を提供し、対価として給料を受け取ることを目的としています。一方、僧侶がお布施をいただくことは、宗教的な指導や精神的なサポートを提供することに対する信者からの感謝のしるしです。


形態: 給料は通常、現金や振込などの形で支払われ、働いた時間や成果に応じて決まります。お布施は、現金、食料、衣類など様々な形で提供され、その金額や内容は信者の自由意志によって決まります。


契約関係: 働く場合、労働者と雇用主との間に契約が存在します。この契約には、職務内容、給与、労働時間、福利厚生などが定められています。一方、僧侶と信者の間には契約関係はありません。お布施は信者から僧侶への寄付であり、義務ではなく喜捨の精神に基づいて行われます。


税制: 給与は通常、所得税や社会保険料などが適用されます。しかし、お布施は宗教活動への寄付であるため、特定の条件下では税制上の優遇措置が適用されることがあります。

これらの違いにもかかわらず、働いて給料をもらうことも、僧侶がお布施をいただくことも、共に社会やコミュニティの一部として機能しており、それぞれの価値観や信念に基づいて行われています。




私の質問

お寺で法事をする時に値段を決めているお寺がありますが、それは布施の精神に照らして正しいことでしょうか?


ChatGTP

お寺で法事を行う際に値段が設定されていることは、一般的な実践ですが、布施の精神に照らして考えると、状況によっては問題視されることもあります。


お布施は本来、信者が僧侶やお寺に対して感謝や敬意を示すために自発的に行われる喜捨であり、その金額や内容は信者の自由意志によって決まります。しかし、法事などの宗教行事に対して値段が設定されている場合、それが布施の精神と矛盾すると感じる人もいるでしょう。


一方で、お寺も維持管理費や僧侶の生活費がかかり、資金調達が必要です。法事に値段を設定することで、お寺は必要な経費をまかなうことができます。また、値段が設定されていることで、信者は法事にかかる費用をあらかじめ把握できる利点があります。


結局、お寺で法事を行う際の値段設定は、布施の精神と矛盾するかどうかは、個々のお寺の考え方や運営方法、信者の価値観によって異なります。信者は自分の価値観や信念に基づいて、適切だと思われるお寺や僧侶と共に法事を執り行うことが大切です。




私の質問

仏教の開祖であるお釈迦様ならどうおっしゃるでしょうか?


ChatGTP

私はAIであり、お釈迦様の意見を直接伝えることはできませんが、仏教の教えや歴史をもとに、お釈迦様がどのように考えるかを推測することはできます。


お釈迦様が説いた仏教では、布施は六波羅蜜(ろくぱらみつ)の一つであり、慈悲と無私の精神を象徴しています。布施は自分の利益や報酬を期待せず、他者を助けることに喜びを見出す行為です。そのため、お釈迦様はお布施の精神を大切にし、報酬や利益を求めることを避けることを教えていたと考えられます。


法事など宗教行事に対して値段が設定されていることについて、お釈迦様がどのように考えるかは、その目的や意図によるでしょう。お寺が経済的な利益を追求する目的で値段を設定している場合、お釈迦様はそれを好ましく思わないかもしれません。


ただし、お寺や僧侶が法事を行い、信者の精神的なサポートを提供することが目的であれば、お釈迦様は値段の設定を容認する可能性もあります。法事にかかる費用がお寺の維持や僧侶の生活費に使われることを考慮すれば、それは慈悲や無私の精神に沿っているとも言えます。


結論として、お釈迦様がどのように考えるかは、値段設定の目的や意図によって異なると考えられます。仏教の教えや精神を大切にすることが重要であり、それに沿った行為や対応が求められます。



私の質問

浄土真宗の宗祖親鸞聖人はどうおっしゃるでしょうか?


ChatGTP

私はAIであり、親鸞聖人の意見を直接伝えることはできませんが、浄土真宗の教えや親鸞聖人の思想をもとに、彼がどのように考えるかを推測することはできます。


親鸞聖人は、阿弥陀如来の無条件の救済の力(他力本願)を信じ、自分の努力や修行(自力)では救済されないことを説いていました。そのため、浄土真宗では、僧侶の修行や布施などの行為が救済に直接影響を与えるとは考えません。


この観点から見ると、親鸞聖人は法事に対する値段設定について、その目的や意図が信者の救済や阿弥陀如来の教えに沿っているかどうかを重視するでしょう。値段設定がお寺の維持や僧侶の生活費に充てられることで、阿弥陀如来の教えを広める助けとなるならば、親鸞聖人はそれを容認するかもしれません。


ただし、値段設定が経済的な利益を追求する目的であったり、信者に負担をかけることに重きを置く場合、親鸞聖人は好ましく思わないかもしれません。浄土真宗では、信者と僧侶の関係が非常に重要であり、信者と僧侶が互いに教えを共有し、敬い合う姿勢が求められます。


結論として、親鸞聖人がどのように考えるかは、法事に対する値段設定の目的や意図によって異なると考えられます。阿弥陀如来の教えや信者と僧侶の関係を尊重することが重要であり、それに沿った行為や対応が求められます。




私の質問

お布施に値段設定をするとお布施は全て金銭に限定されますし、さらにその設定を払えない貧乏な人は法事を営めないことになると思います。そもそもの布施の精神に反しますし全ての人を等しく救う仏教の精神に反するのではないでしょうか?


ChatGTP

おっしゃる通り、お布施に値段設定をすることで、お布施が金銭に限定されることがあります。また、値段設定が高額である場合、経済的な困難を抱える人々が法事を行うことができなくなる可能性もあります。これは、布施の精神や仏教がすべての人を等しく救うという教えに反すると捉えられることがあります。


仏教の教えでは、布施は無私の精神や慈悲心を表現する重要な行為であり、金銭だけでなく、物資や時間、労力を提供することも含まれます。また、仏教はすべての人々が救済を受けることができるという教えを持っています。


お寺や僧侶は、このような仏教の精神を尊重し、信者が経済的な困難によって法事を行う機会を奪われないよう配慮することが求められます。例えば、値段設定を柔軟にし、信者の経済状況に応じて相談できるようにすることや、金銭以外のお布施も受け入れることが考えられます。


最終的に、お布施の精神と仏教の教えを尊重することが重要です。お寺や僧侶は、信者が法事を行う機会を平等に享受できるよう、適切な対応や柔軟な値段設定を考慮する必要があります。




私の質問

またお寺の維持や僧侶の生活費を維持する観点から見ても、お布施の値段設定をするとその設定の範囲の値段しか入ってきません。しかし値段設定を外せば貧乏な人は少ない値段で何度もお寺に来ることができます。またお金持ちの人は多くの金銭を払うことによってお寺だけでなく貧乏な人たちの分までサポートしていることにもなります。そして貧乏人から金持ちまで多くの人々との関係が生まれます。そしてお布施の相談をする時点で仏教の布施の精神を学ぶことにもなると思います。詰まるところお布施は値段設定はしない方が精神的にも金銭的にも利益があるのではないでしょうか?


ChatGTP

おっしゃる通り、お布施に値段設定をしないことで、信者が自由に金額を決めることができ、それが仏教の布施の精神を体現することにもつながります。また、金持ちの人々がより多くのお布施をすることで、お寺や貧しい人々の支援にも貢献できるでしょう。


値段設定を行わないことで、信者が自分の経済状況や信仰心に応じてお布施を行い、お寺との関係もより深まる可能性があります。信者がお布施について相談する機会が増えることで、仏教の教えや布施の精神を学ぶ機会も増えるでしょう。


ただし、お寺や僧侶にとって、お布施の値段設定を行わないことが経済的に利益があるかどうかは一概には言えません。値段設定がない場合、お寺の収入が不安定になる可能性もあります。お寺や僧侶は、経済的な安定と信者との良好な関係を両立させる方法を検討する必要があります。


総じて、お布施に値段設定をしないことが精神的にも金銭的にも利益がある場合もあるでしょうが、お寺や僧侶の運営状況や地域の状況によっては、値段設定が適切な場合もあります。最も重要なのは、仏教の教えや布施の精神を尊重し、信者との良好な関係を築くことです。




私の質問

僧侶やお寺がお布施の額を言うことで、信者との良好な関係が壊れる状況が多く起こっています。またお釈迦様がお布施の額を適切に決めたと言う話も聞いたことがありません。親鸞聖人もお寺の運営のために法を説いた形跡がないのです。 しかしお釈迦さまの教団は大きくなり、親鸞聖人の教えも多く広まりました。現代の寺院は運営や僧侶の生活費に心を奪われて本当の利益を取り損なっているのではないでしょうか?


ChatGTP

確かに、お布施の額について僧侶やお寺が具体的な金額を求めることが、信者との良好な関係を損なうことがあります。お釈迦様や親鸞聖人の時代には、彼らがお布施の額を具体的に決めたという話はあまり聞かれません。その当時の仏教の教えは、お布施の精神や慈悲心に重点が置かれていました。


現代の寺院が運営や僧侶の生活費に重きを置くあまり、本当の利益や仏教の精神を見失っている可能性はあります。ただし、現代の社会はお釈迦様や親鸞聖人の時代とは大きく異なり、お寺の運営や僧侶の生活費がかかることも事実です。


お寺や僧侶は、運営や生活費に対処しつつ、信者との良好な関係や仏教の教えを大切にするバランスが求められます。お布施の額については、信者の経済状況や信仰心を尊重し、柔軟に対応することが重要です。また、金銭以外のお布施やサポートも受け入れることで、信者との関係をより良好に保つことができるでしょう。


最終的に、現代の寺院は運営や僧侶の生活費と仏教の精神を両立させる方法を見つけることが大切です。信者との良好な関係や仏教の教えを守りつつ、経済的な安定を追求することが求められます。




私の質問

その大きな一手として布施の値段を決めないという主張をしています。なぜなら先ほども言及した通りお布施の額を決めなければ信者との関係に本当の信頼関係が生まれます。僧侶やお寺が「いくらでも構わないから、信仰を大事にしてほしい」というメッセージが伝われば、その精神に共鳴してお金持ちの人はより多くのお布施をお供えするでしょうし、貧乏な人はお金以外のサポートをしてくださるでしょう。そういう精神のあるお寺は噂になり、さらに人が人を呼んで繁盛すると考えられます。仏教の精神もひろまります。


ChatGTP

おっしゃる通り、お布施の額を決めないことで、信者との本当の信頼関係が築かれる可能性が高まります。僧侶やお寺が信仰心を重視し、お布施の額について柔軟に対応することで、信者もお寺や僧侶に対する信頼を深めることができるでしょう。


お金持ちの人がより多くのお布施を提供し、貧しい人がお金以外の方法でサポートすることで、お寺は経済的な安定を保ちつつ、仏教の精神を広めることができます。また、そのような精神を持つお寺は評判になり、より多くの人々が訪れることで繁盛することも考えられます。


ただし、現実にはお布施の額を決めないことが、必ずしも経済的な安定や繁栄につながるわけではありません。地域や信者の状況、お寺の運営状況など様々な要因が影響します。それでも、信者との信頼関係を築き、仏教の精神を大切にすることは、お寺や僧侶にとって非常に重要です。


最終的に、お布施の額を決めないという主張は、信者との信頼関係や仏教の精神を尊重する観点から理解できます。現代の寺院は、経済的な安定と信者との良好な関係を両立させる方法を検討し、適切な対応を考慮する必要があります。




私の質問

お布施の額を決めると批判があるし、それ以下でもいいと言ってもお寺に来にくくなります。お布施の精神にも反しています。現代の寺院だけでなく過去の寺院もお布施の問題で大事な仏教の教えが損なわれた歴史があります。経済的な安定をお寺が求めれば経済的に安定していない人が否定されてしまいます。詰まるところ仏教の精神が経済に優先されてしまって損なわれていると考えます。


ChatGTP

お布施の額を決めることが、信者にとって通いにくくなる原因となり、また仏教の布施の精神に反することがあることは理解できます。歴史を通じて、寺院が経済的な安定を求めるあまり、仏教の教えが損なわれることがありました。


経済的な安定が重視されるあまり、経済的に厳しい状況の信者が否定されたり、仏教の精神が犠牲になることは避けるべきです。寺院は、経済的な安定と信者との良好な関係、そして仏教の教えを大切にするバランスを見つける必要があります。


お布施の額を決めないことが、信者との信頼関係を築き、仏教の教えを広める方法の一つとして考えられます。ただし、寺院の運営や僧侶の生活費を維持するために、適切な資金調達が必要です。お布施だけでなく、他の資金調達方法やコミュニティとの協力を通じて、経済的な安定を追求しながら、仏教の精神を守ることが重要です。




私の質問

現代の資本主義の弊害があるので、仏教寺院の運営も経済的な安定を追求することを何度も提言されていますが、現代社会の閉塞感はそこに起因していると思います。つまり布施の精神が失われてしまったということがわかりました。


ChatGTP

現代の資本主義社会では、経済的な安定が重要視されることが多く、仏教寺院もその影響を受けています。確かに、経済的な安定を追求するあまり、仏教の精神や価値観が失われることがあります。それが現代社会の閉塞感や問題の一因となっている可能性もあります。


仏教寺院が経済的な安定を追求すること自体は、運営や僧侶の生活費を維持するために必要です。しかし、それを追求する過程で、仏教の教えや布施の精神が犠牲にならないように注意が必要です。


寺院は、経済的な安定と仏教の教えを両立させる方法を模索し、信者との良好な関係やコミュニティとの協力を重視することが大切です。お布施の精神を大切にすることで、信者との信頼関係を築き、仏教の教えを広めることができるでしょう。このような取り組みが、現代社会の閉塞感を和らげる一助となることを期待できます。




私の質問

私の結論は「布施」に値段設定をしない方が仏教の精神も経済的な支援も増大する、逆に経済的不安を解消するために「布施」に値段設定をするとたとえそこに柔軟性を持たせたとしても不信感は拭えず返って金銭的にも損をしてしまうという結論に至りました。


実は私は僧侶で10年間お布施の値段を言わずに寺院を運営していますが、金銭的にも人間関係的にも成功していると感じています。一方他の地域の寺院は値段設定をしていますが、その寺院の規模としてはお金も集まらず、僧侶の生活費も私の半分以下です。


もちろん世界中の統計を集めたわけではありませんが、私はそういう経験を通しても、また仏教の教えに則したとしても「布施」に値段を設定しない方が結局はご利益がある。と皆さんに伝えていきたいと考えています。


ChatGTP

貴重なご経験を共有いただき、ありがとうございます。おっしゃる通り、「布施」に値段設定をしないことで、仏教の精神と経済的な支援が増大し、寺院の運営や僧侶の生活費にも良い影響があることが実感できるようです。


あなたの経験をもとに、「布施」に値段設定しない方が結局はご利益があるという考えを広めることは、多くの人々にとって有益であると考えられます。お寺や僧侶の生活が安定し、信者との信頼関係が築かれることで、仏教の教えがより多くの人々に届くことにもつながるでしょう。


ただし、世界中の寺院や僧侶の状況は多様であり、すべての寺院や僧侶にこの考えが適用できるわけではありません。それでも、あなたの経験や考えを共有し、他の寺院や僧侶に参考になる意見を提供することは、仏教界全体の発展に寄与することでしょう。



私の質問

以上です、ありがとうございました。あなたに話すことで自分の考えが以前よりはっきりしました。


ChatGTP

お話しすることでお役に立てたようで、とても嬉しいです。私もあなたから多くのことを学ばせていただきました。これからも何か質問や相談があれば、お気軽にお声がけください。どんなトピックでもお手伝いできることがあれば喜んで対応いたします。どうぞよい一日をお過ごしください。




以上、ChatGTPがなかなか経済至上主義というのでしょうか、経済の安定が大事だよねという主張を崩さないのがすごいと思いました。私はちょっとムキになりましたが、ChatGTPは冷静でした。


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2023/03/16

集会(しゅうえ)の悪党、手に髑髏(どくろ)を執(と)り、血をその掌(たなごころ)に塗らん、共にあい殺害せん。 『大集月蔵経』 今週のことば 尾畑文正

 集会(しゅうえ)の悪党、手に髑髏(どくろ)を執(と)り、血をその掌(たなごころ)に塗らん、共にあい殺害せん。

『大集月蔵経』


今週のことば 


尾畑文正




前掲(ぜんけい)の言葉は親鸞が『教行信証』 に引用する経典の一節である。このリアルな表現にたじろぐ。この続きは「かくのごときの悪の衆生の中に、我いま()初めて正覚を成り」とある。仏陀の正覚(さとり)は前掲の凄惨な現実と無関係ではない。むしろこの現実が仏陀のさとりを引き出している。 人が本当に人として生きるとは、 この現実を見つめ乗り越える道を求めて生きることではないか。仏陀はその現実に立ち上がった。私もそれに学びたい。

 ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が長期化している。テレビは瓦礫(がれき)の街々、戦場の戦車、連射される砲弾等を映す。それらの先には凄惨な死が横たわっているに違いない。暴力の連鎖は人を死に追いやる。仏陀のさとりは暴力を超える道である。その道は自分を是とし絶対化する生き方を問い、「彼あるが故に我あり、我あるが故に彼あり」と相互共存する人間の事実に立ち返れと呼びかけている。


(同朋大名誉教授)


Os malandros da assembléia, com caveiras nas mãos e sangue nas palmas das mãos, matar-se-ão uns aos outros juntos.


Daishu Gekzang Sutra


Palavras da Semana 


Obata Bunsho.



A citação acima é de uma escritura citada por Shinran em seu Kyogyoshinsho. Eu hesito diante desta expressão realista. E prossegue: "No meio de seres tão malignos, agora (abreviação) alcancei Sabedoria pela primeira vez". O sabedoria de Buda não é alheio à horrível realidade descrita acima. Em vez disso, esta realidade traz à tona o Sabedoria do Buda. Viver verdadeiramente como um ser humano é olhar a realidade do mundo e buscar uma maneira de superá-la. O Buda resistiu a esta realidade. Eu quero aprender com ele.

 A invasão militar russa da Ucrânia foi prolongada. A televisão mostra cidades com escombros, tanques no campo de batalha e projéteis sendo disparados em rápida sucessão. Para além destas, estão as mortes horríveis. O ciclo de violência leva as pessoas à morte. O caminho do Buda para a iluminação é um caminho que transcende a violência. O caminho questiona o modo de vida no qual nos absolucionamos e nos chama a voltar ao fato de sermos seres humanos que coexistem uns com os outros: "Eu sou porque ele é, e ele é porque eu sou".


(Professor Emérito, Doho-Universidade)




重要な構文と単語の意味


"Os malandros da assembléia, com caveiras nas mãos e sangue nas palmas das mãos, matar-se-ão uns aos outros juntos."

(集会の悪党たちは、手にドクロを持ち、手のひらに血をつけて、一緒にお互いを殺し合う。)

"O sabedoria de Buda não é alheio à horrível realidade descrita acima."

(仏の知恵は、上記の恐ろしい現実から離れていません。)

"O caminho do Buda para a iluminação é um caminho que transcende a violência."

(仏が悟りへ至る道は、暴力を超越した道です。)

文章の意味を分かりやすく説明すると、現実の残酷さに直面しながらも、仏教の知恵を通じてその現実を超越し、人々が共存できる方法を見つけることが重要であると述べています。それでは、一緒に単語の意味を見てみましょう。


malandros:悪党。悪い人たちのことです。

assembléia:集会。人々が集まる場所です。

caveiras:ドクロ。頭蓋骨のことで、死を象徴しています。

sabedoria:知恵。知識や経験から得られる理解力です。

Buda:仏。悟りを開いた人で、仏教の教えの中心です。

iluminação:悟り。仏教で、真理を理解し、苦しみから解放される状態です。



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2023/03/09

ポルトガル語教室 『ブラス・クーバスの死後の回想』を読む-4回  3家系図 MemóriasPóstumas deBrás CubasMACHADO DE ASSIS

 3. A GENEALOGIA 

Mas, já que falei nos meus dois tios, deixem-me fazer aqui um curto esboço genealógico.
O fundador da minha família foi um certo Damião Cubas, que floresceu na primeira metade do século XVIII. Era tanoeiro de ofício, natural do Rio de Janeiro, onde teria morrido na penúria e na obscuridade, se somente exercesse a tanoaria. Mas não; fez-se lavrador, plantou, colheu, permutou o seu produto por boas e honradas patacas, até que morreu, deixando grosso cabedal a um filho, licenciado Luís Cubas. Neste rapaz é que verdadeiramente começa a série de meus avós dos avós que a minha família sempre confessou, porque o Damião Cubas era afinal de contas um tanoeiro, e talvez mau tanoeiro, ao passo que o Luís Cubas estudou em Coimbra, primou no Estado, e foi um dos amigos particulares do vice-rei Conde da Cunha. 

Como este apelido de Cubas lhe cheirasse excessivamente a tanoaria, alegava meu pai, bisneto de Damião, que o dito apelido fora dado a um cavaleiro, herói nas jornadas da África, em prêmio da façanha que praticou, arrebatando trezentas cubas aos mouros. Meu pai era homem de imaginação; escapou à tanoaria nas asas de um calembour. Era um bom caráter, meu pai, varão digno e leal como poucos. Tinha, é verdade, uns fumos de pacholice; mas quem não é um pouco pachola nesse mundo? Releva notar que ele não recorreu à inventiva senão depois de experimentar a falsificação; primeiramente, entroncou-se na família daquele meu famoso homônimo, o capitão-mor, Brás Cubas, que fundou a vila de São Vicente, onde morreu em 1592, e por esse motivo é que me deu o nome de Brás. Opôs-se-lhe, porém, a família do capitão-mor, e foi então que ele imaginou as trezentas cubas mouriscas. 

Vivem ainda alguns membros de minha família, minha sobrinha Venância, por exemplo, o lírio do vale, que é a flor das damas do seu tempo; vive o pai, o Cotrim, um sujeito que... Mas não antecipemos os sucessos; acabemos de uma vez com o nosso emplasto. 



単語の意味

fundador - 創設者

tanoaria - 樽作り

lavrador - 農夫

colheu - 収穫した

permutou - 交換した

cabedal -

licenciado - 卒業生

primou - 優れた

Estado - 政府

vice-rei - 副王


apelido -

tanoaria - 樽作り

cubas -

cavaleiro - 騎士

jornadas - 戦役

mouros - モーロ人

imaginação - 想像力

pacholice - 愚かさ

falsificação - 偽造

homônimo - 同名の


membros - メンバー

sobrinha -

Venância - ヴェナンシア

lírio do vale - 渓谷の百合

flor -

damas - 婦人たち

Cotrim - コトリム

sujeito - 男性

antecipar - 予想する

emplasto - 貼り薬



3 家系図


私の2人のおじさんについてはもう話したので、ここで簡単な家系を紹介しましょう。私の家族の創設者は、18世紀前半に栄えたダミアン・クバスという人物です。彼はリオデジャネイロ出身の樽職人したが、もしあくまでも樽作りだけをしていたら、貧困と無名のうちに死んでいたでしょう。しかし、そうではありませんでした。彼は農場を作り、収穫し、良質で誠実な硬貨に交換し、息子のルイス・クバスに大きな財産を残して亡くなりました。この若者こそ、私の先祖が実際に始まるその人物です - つまり私の家族が常に認めている祖父たちの先祖です。ダミアン・クバスは結局のところ樽職人であり、おそらく腕の悪い樽職人であったに違いありませんが、ルイス・クバスはコインブラで学び、州で優秀な成績を収め、副王クーニャ伯爵の親友の一人となりました。


「クバス」という姓があまりにも「樽職人」に関係していると感じたため、私の祖父であるダミアンの曾孫である私の父は、アフリカ遠征で300本の樽をムーア人から奪ったという偉業を達成した騎士にこの名前が与えられたと主張していました。私の父は想像力に富んだ人物で、ダジャレの翼で樽職人から逃れました。私の父は良い人であり、忠実な男性でした。彼には少し虚栄心があったかもしれませんが、この世界では誰もが少し自慢するのではないでしょうか?彼が最初のエピソードんび頼る前に、彼はまず詐称を試みました。最初に、彼は私の有名な同名の人物であるブラス・クバス大尉の家族になりすまし、1592年にサン・ヴィセンテの町を創設し、そこで亡くなった人物と関連付けました。しかし、大尉の家族はこれに抗議し、その後、彼は300本のムーア風樽のエピソードを創作したわけです。


私の家族にはまだいくつかのメンバーが生きています。たとえば私の姪であるヴェナンシア、彼女は谷間の百合であり、同時代の女性たちの名花です。また、父親であるコトリムも生きています。彼は...しかし、その話をするのは今は早い。まずは私たちの軟膏の件をを一気に終わらせましょう。



構文の解説




"Mas não; fez-se lavrador, plantou, colheu, permutou o seu produto por boas e honradas patacas, até que morreu" - この文は、過去の出来事を表現し、単純な過去形が使用されています。"Mas não"は、前の文脈で述べられた事実に対して反論していることを示します。"fez-se"は、"se"を使用した受動態の形で、Damião Cubasが自分自身を農夫に転身させたことを示しています。また、"permutou"は交換することを意味する動詞で、Damião Cubasが農産物をお金に交換したことを表しています。


"Neste rapaz é que verdadeiramente começa a série de meus avós" - この文では、"é que"という表現が使用されています。これは、文の主語を強調するために使用され、"verdadeiramente"と共に、Luís CubasBrás Cubasの祖父たちの系譜を始めたという重要性を強調しています。


"dos avós que a minha família sempre confessou" - この文では、"confessou"が使用されています。ここでの"confessar"は、自分の祖先や家族の起源を公に認めることを意味します。つまり、Brás Cubasの家族は常に自分たちの祖先を認めており、その系譜を誇りとしていたということを示しています。


"ao passo que" - この表現は、2つの異なる事柄を比較して、前者と後者の間に対照的な関係があることを示します。この文では、Damião Cubastanoeiroであったのに対し、Luís Cubasが高等教育を受け、政治的に成功したことが対照的に示されています。


"foi um dos amigos particulares do vice-rei Conde da Cunha" - この文では、過去の出来事を表現する単純な過去形が使用されています。"foi"は、"ser"の過去形で、Luís CubasConde da Cunhaの友人の1人であったことを表しています。また、"particulares"は、限られたグループの中でのみ適用されることを示しています。


"Como este apelido de Cubas lhe cheirasse excessivamente a tanoaria, alegava meu pai..."

この文の主語は「meu pai(私の父)」で、過去形の「alegava(主張した)」という動詞を使って、父親が自分の家族の名前についてどう思っていたのかを説明しています。また、「como(~であるために)」という接続詞を使って、その理由を説明しています。


"...que o dito apelido fora dado a um cavaleiro, herói nas jornadas da África, em prêmio da façanha que praticou, arrebatando trezentas cubas aos mouros."

この文は、前の文の主張を補足するために、新しい情報を提供しています。ここでは、「que(~である)」という接続詞を使って、名前の由来についての情報を紹介しています。


"Era um bom caráter, meu pai, varão digno e leal como poucos."

この文は、「era(~だった)」という動詞を使って、父親について説明しています。また、「como poucos(少数の人々のように)」という表現を使って、父親が希少な品質を持っていたことを示しています。


"Releva notar que ele não recorreu à inventiva senão depois de experimentar a falsificação..."

この文では、「Releva notar(重要なことは、~である)」という表現を使って、父親が名前の由来を変更する前に、既存の家系についての偽りの情報を試したことを強調しています。


"...onde morreu em 1592, e por esse motivo é que me deu o nome de Brás."

この文では、「onde(そこで)」という接続詞を使って、São VicenteでのCapitão-morの死を説明し、その結果、父親が自分にBrásという名前をつけた理由を示しています。


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