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2022/06/14

私の好きな花 今年お亡くなりになったご門徒さんの思い出

2007年ブラジルに着任して、お世話になったご門徒の方の一人が亡くなりました。

サンパウロのブラジル別院に勤めていた6年間いつも法要に顔を出しておいでで、物静かで仏教を喜んで聞いている数少ないご門徒の一人でした。

 時々手作りのドーナツを持ってきてくれたりして、一緒に食べながらお話をしたのが懐かしいです。私が別院のお便りを担当していた時に2−3度記事を投稿していただいたことがありました。 今日はその一つを紹介いたします。

 難しい仏教の言葉は使わず、日常の中の景色や家族との思い出が綴ってある中に親鸞聖人のお念仏の教えが通底していることを感じます。

私も55歳になり、最近は妻のファビアの影響でしょうか、花を見るのが以前よりは好きになってきました。この前もファビアに付き合って行った園芸店で椿があったので衝動買いをしてしまいました。華に魅せられて衝動買いをするなんて生まれて初めてです。

 川端さんに書いていただいた時よりももっとこの記事の内容が身に染みます。川端さんの人生に少しですが出会えてよかったです。ありがとうございました。

南無阿弥陀仏







 別院だより  川端ツヨ子  201389


私の好きな花


 私は子供の頃から花が好きでした。

父が元気で60歳になりました頃、ツヨ子が花が好きなはずだと言って、花を見るようになっておりました。私の喜びでした。良い思い出です。

 私は毎日花を見るのです。

花を見たり手入れをしておりますと、時間のすぎるのも忘れております。最近思いますのに花の良いエネルギーを与えられているのだと思うのです。それで花を見たり手入れをしておりますと本当に無我の境地になり、安らぎのある私になっているように思うのです。

 花のいのちは、宇宙に光り輝いて美しく咲きみちております。

私の好きな花よ、ありがとう。


As flores que eu gosto

Desde muito pequena eu gostava muito de flores. Lembro do meu pai que só por volta dos seus 60 anos disse: “Tsuyoko, eu entendo porque você gosta tanto de flores.” Na época, ele ainda gozava de saúde e apreciávamos juntos, as flores. É uma lembrança feliz e representa minha alegria.

Todos os dias eu saúdo as flores. Apreciando ou cuidando delas, nem percebo as horas avançarem.  Atualmente penso que talvez eu viva recebendo a energia boa dessas flores. Porque enquanto estou lidando com elas, é como se eu estivesse no outro plano, no mundo do vazio onde não há o “eu”. Percebo também que estou mais tranqüila.

As flores com suas vidas belas e plenas emanam luzes reluzentes no Universo!

Às flores que tanto gosto! Muito Obrigada!

                                                                Tsuyoko Kawabata

                                                                  09/08/2013

「ブラジル・シュウちゃんねる」

2022/02/13

サンパウロ別院の2月号にマリリアのお寺の記事が掲載されました

  今回はサンパウロ別院から毎月発行されている「別院だより」にお願いされた記事が掲載されたので紹介します。




わたしも別院にいた頃はこのお便りを作っていました。わたしが来る以前はご門徒が作っていて、そのお仕事がわたしに回ってきたのです。何故かわたしは大学時代から雑誌を作る係になることが多かったな・・・・

 大学時代は原稿を集めて印刷に届けるだけでした、校正も編集もやってませんでしたが、原稿集めって締め切りを守らない人もいて大変でした。このわたしが締め切りを守れない代表格でしたが・・・・・・

 石川県の小松時代は難波別院の「南御堂」という有名な新聞を作っていた元編集長の先輩がいたり、もと朝日新聞の編集部にいた人が新聞を作っていたりして鍛えられました。とはいえ、正式な何かを習得したのではないので悪しからず・・・・ よくダメ出しを食らったという意味です。

現在は編集ソフトもよくなり、作りやすくなりましたね!フォーマットもたくさんあるし、しかしわたし自身ここマリリアに来て数回新聞を出しましたが、長続きせず今に至ってます。今年こそはまた再開したいと思っています。あとホームページを作るという目標もありますが、よく考えたらこのブログの一部にページを作ればいいのだ!ということに気がつきました。やってみます。

今回はわたしがマリリアで学んだことなどが書いてあります。ぜひご覧ください。

以下からPDFをダウンロードできます。ポルトガル語と日本語で書いてあるのでぜひご覧ください。他にもブラジルのサンパウロ市のお寺の様子もわかるのでぜひご覧ください。

PDFの全文ダウンロードはこちらのリンクから


以下は別院だよりの一文です。

連載記事【対話】


 今回はマリリア真宗本願寺駐在の泉原秀開教使の登場です!
 昨年の 1 月、日本に住む叔母から、「あることがきっかけで泉原さんの  YouTube(ユーチューブ)チャンネルを見るようになったよ」という、連絡が届きました。私は驚くと同時に、このような人と人との出遇い方があるのだなあと、とってもワクワクしました。
「泉原さんが動画で紹介されていたんです」と、別院で本を買う方がいたり、「普段はマリリアのお寺に通っています」という母娘が、別院に見学に来られたり、ということもあって、「泉原さんは、どんなことをしているんだろう?」と、私は気になり始めたのです。
「私一人だけが教えてもらうのは勿体ない!」ということで、今回別院だよりに記事を書いて頂きました。是非ご一読ください! (佐々木 環)

DIÁLOGOS


Nesta edição temos a participação do Rev. Shu Izuhara, do Templo de Marília! Em janeiro do ano passado, recebi uma mensagem da minha tia do Japão que dizia acompanhar o canal do Rev. Izuhara através do YouTube. Ao mesmo tempo que fiquei tomada pela surpresa, senti uma grande euforia por perceber as formas de conexão e o encontro entre as pessoas.
E também, algumas pessoas vinham comprar livros indicados pelo Rev. Izuhara através dos vídeos; duas pessoas, mãe e filha, que são frequentadoras do Templo de Marília, vieram conhecer o Betsuin; e assim, foi desperta a minha curiosidade sobre a atuação do Rev.Izuhara.
Senti que era um desperdício não compartilhar com vocês as minhas descobertas. E assim, pedi para que ele escrevesse no Comunicado Mensal deste mês. Espero que apreciem! (Tamaki Sasaki)

「ブラジル・シュウちゃんねる」

2022/02/08

ブラジル散歩 日本昔ばなしとグリーンマイルと阿弥陀仏

 youtube「ブラジル散歩」です。久しぶりに歩いて気持ちよかったです。

 すき焼きのわりした作りに失敗した話、鬼はうち、福はそとの日本昔ばなしの話と、グリーンマイルエピソードの比較してます


日本昔ばなしでは最後におじいいちゃんは「もうすこし長生きする」と墓参りで宣言します。

グリーンマイルでは、主人公のジョンは双子の殺人事件は冤罪であるが、「毎日愛が利用され、たくさんの人が苦しんでいる。それを感じることに疲れてしまった」と言って刑を受け入れるのですが、その違いと共通点を話しています。

日本昔ばなしとグリーンマイルはまったく毛色の違うお話のようですが、ふとしてきっかけでその二つの話が結びつきました。それは阿弥陀仏の教えです。阿弥陀仏は四十八の誓願に必ずその願いが成就しなければ自分も救われることがない(成仏しない)と誓っています。つまり全ての人が救われなければ自分も救われないという精神をもった仏様なのです。

私たちもなぜ生きているのか?または生かされているのかということを深く考えさせられるエピソードに昨日も書いた節分のお話がきっかけでたどり着くことができました。

動画内でお話ししているので是非ご覧ください。ブラジルの日常の風景を眺めながら一緒に散歩をお付き合いください。








「ブラジル・シュウちゃんねる」


2022/02/04

お奨めyoutube 松本・紳助 「小さな悩みが大きくなって自殺」と 島田紳助のお内仏(仏壇)のお給仕の話


 youtubeでの拾い物ですが、後半に出てくる仏壇のお花がなぜ仏様に向いていないのか?という話は、実際に僧侶が法話で仏壇の意味について話しているものと同じです。が、おそらく高校時代に聞いた話がこの場面ですらすら出てくるのに驚きます。

 島田紳助は京都の大谷高校(浄土真宗大谷派・東本願寺(親鸞聖人)の高校です)に通っていました。一回も学校を休んだことがなく、宗教の時間も大好きで「極楽浄土ってホンマにあるんかいな、そんな良いところなら修学旅行で今度行こうやないか!」などと先生にツッコミを入れて楽しんでいたそうです。

 前半の悩みは大きな悩みを持っていた方がいいという話も煩悩即菩提を説明する時に出てきそうなお話しですが、島田紳助が話すと俄然面白くまた心に届きますね。さすが話芸の人です。




高校時代の先生の話を自分のものにして、だいぶ時間が経って大人になってもそれが瞬時にアウトプットできるのはすごいです。

 松本人志の相槌の打ち方もドキドキさせられました。馬鹿にするんでもなく、おだてるのでもなく、むちゃくちゃ引き立たせて面白させてくれて、紳助のちょっと説教臭くなりそうな話をちゃんと真剣に聞けるように導いてくれます。そして「空中に浮いているように見えてきました」で大爆笑で、それに気を良くして紳助が仏壇の話を始めるのです。そして最後に「ハンコ買いませんか?」でまた大爆笑です。

でも、中で話している話は何も茶化してなくて、嘘もついてなくて、本当の宗教的な有難いご法話になっているのでした。

YouTubeを彷徨っていたらたまたま見つけて感動したのでシェアします。


私のYouTubeもよろしくお願いします。


「ブラジル・シュウちゃんねる」


2022/01/27

「お寺でヨガ教室」万年腰痛がかなり改善されています。お寺でヨガ始めてよかった

 今月末のお寺でヨガ教室

 昨年末から始まったヨガ教室です。もともとは50歳を超えて自分達が何か運動をしないとこのまま弱ってしまうとの危機感で始めたのでした。ついでに数人加わってくれて、お寺に親しみを感じてもらえるといいなという気軽な感じでしたが、フェースブックやインスタグラムに募集しただけであっという間に満員御礼の10人になりました。あまりにも少なかったら課金して募集しようと思っていましたがその必要もありません。
 今年に入っていよいよお試し期間を経て続ける人が定まってきました。それで今回は集合写真を撮りました。それだけ皆が親しくなったということにもなります。




メンバーのほとんどが女性です、ヨガは女性に人気があるのかもしれませんね。しかし、50歳を超えて激しい運動がかえって体に負担になる人は男性でも結構な運動になります。ゆっくりとした動作なので、体を痛めることも少ないでしょう。
 私自身かなり合っているみたいで、何年も万年腰痛に悩まされてきていましたが、だいぶ良くなってきています。それは先日のブログのようにベッドを変えてみたり
散歩したりバランスボールをしたりと他の工夫もしていますが、ヨガの効能が優っているように思います。

 

Gra先生の人柄もよく、先生はヨガのポーズだけでなく、精神的な心構えのお話もしながら勧めてくださるのです。まさに心身一体の教室です。私は以前YouTubeのビデオで真似事をしたこともあるのですが、やはり実際目の前で先生が指導してくださるのは違うと実感しています。また周りの生徒の姿も参考になります。みんなで一緒にするのは効果が違うのは歴然でした。



お寺の本堂の雰囲気もよく、それが先生も生徒さんたちにも好評でやっぱり雰囲気って大切なんだなと、改めてこのお寺の本堂の偉大さを教えられたような気がします。

 





仏教にはヨガというより禅定がにていますが、全く同じ思想ではないようです。しかし心を落ち着かせ、体と心の流れを整えるというヨガの世界は仏教の縁起の教えと共通点があるように思います。 
 また、私が所属している浄土真宗は坐禅は全くしないのですが、念仏を称えます。それがヨガのマントラを称える世界と共通点があります。とはいえ厳密に言ったら全然違うし、何でもかんでもちゃんぽんにするのはよくないですが。あまり難しいことを言わず、そういった共通点や違う点に思いを巡らすのも楽しいです。


生徒さんの中には普段のお朝勤のお勤めやお寺の行事に参加するようになった方もおいでになります。ヨガだけにお寺に通ってもらうのもいいのですが、本職の方の行事や教えにも触れてくださる人も出てきて嬉しく思っています。

ブラジルにおいでの際は是非寄ってみてください。
お待ちしております。

チャンネル登録、いいねをよろしくお願いいたします。

「ブラジル・シュウちゃんねる」











2022/01/26

「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」 『親鸞聖人御消息集』 今週のことば 尾畑文正 ポルトガル語翻訳付き、朗読もします。

 今回は毎日の朝のお勤めでの法話を掲載させてもらっています。このブログにも仏教のコーナーを設けていますが、たまにはメインでも紹介させていただきます。いつもな別のブログnoteに毎朝の朝のお勤めの様子や、感話、法話の内容を書いています。どうぞそちらも是非ご覧ください。
 よろしくお願いします。
尾畑文正先生



noteのアドレスはこちらです。

https://note.com/izushu

尾畑文正先生はここブラジルで3年6ヶ月監督・輪番として従事されておいででした。日本に帰ってからもブラジルでの思い出や、海外仏教事情などを精力的に発信してくださっています。今回の中日新聞の記事は沖縄がメインですが、しかし戦争の問題、貧困の問題は世界的な大切な課題だと思います。

中日新聞より

「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」 『親鸞聖人御消息集』

今週のことば

                                                                                        尾畑文正

 コロナの感染拡大の中、今世界の各地(東欧、東南アジア、極東アジア、中南米、アフリカ、アラプ)で混乱と対立が続く。世界は平和を求めている。『無量寿経 』に説く阿弥陀仏の本願は地獄。餓鬼。畜生の無い国を願う。地獄と一は恐怖であり、餓鬼とは貧困であり、畜生とは隷従である。この三つの悪世界から全ての命を救いたい。それが阿弥陀仏の本願である。まさに平和を課題とする。

 戦後七十七年の今、戦争放棄の日本国憲法は軽視され、敵基地攻撃能力保有の声もあがり、沖縄・南西諸島ではミサイル基地建設が進む。軍事施設はそのまま攻撃の対象となる。再び沖縄は標的の島となり、犠牲が強いられる。武力からは平和は生まれない。それが歴史の教訓である。武力主義による政治は過ちと悲しみを何度も繰り返す。その現実を直視し、阿弥陀仏の本願に拠り「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」と願って生きたいと切に思う。

(同朋大名誉教授)

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Paz no mundo, o Darma de Buda se espalha" 
(Shinran Shonin Gosyousyosokushu)

Palavras da Semana

Bunho Obata

 Em meio à propagação da coroa, há tumultos e conflitos em muitas partes do mundo (Europa Oriental, Sudeste Asiático, Extremo Oriente Asiático, América Latina, África e mundo árabe). O mundo está precisando de paz. O principal desejo de Amitabha no "Sutra da Vida Imensurável" é o inferno. Fantasmas famintos. Amitabha deseja uma terra sem inferno, demônios famintos e animais. O inferno é medo, a fome é pobreza e a escravidão é servidão. Eu quero salvar todas as vidas desses três mundos malignos. Esse é o verdadeiro desejo do Buda Amitabha. A paz é de fato nossa tarefa.

 Setenta e sete anos após o fim da guerra, a Constituição japonesa, que renuncia à guerra, está sendo desconsiderada, há chamadas para possuir a capacidade de atacar bases inimigas, e a construção de bases de mísseis em Okinawa e nas Ilhas Sudoeste está prosseguindo. As instalações militares tornam-se alvos de ataque. Okinawa se tornará mais uma vez uma ilha alvo e serão feitos sacrifícios. A paz não virá da força. Essa é a lição da história. A política armada repete erros e tristezas uma e outra vez. Espero sinceramente que possamos enfrentar esta realidade e viver nossas vidas com base no verdadeiro desejo de Amida Buda: "Paz no mundo, espalhar o Darma de Buda".

(Professor Emérito, Universidade Doho)



岡崎 浄妙寺チャンネル
2022/01/06淨妙寺報恩講法話 尾畑文正師

https://youtu.be/wRZcRJ7XmoA




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「ブラジル・シュウちゃんねる」








2021/11/27

「報恩講に参加するとは」 ポルトガル語オフィシャル翻訳 日本語DeepL翻訳を使ってみる、Google翻訳と比較あり

ポルトガル語の次に翻訳ソフトを使った日本語があります。

さらにGoogle翻訳と比べています。


 Tomando parte na Celebração 

do Rito de Ação de Graças 

"Mesmo que tenhamos de pulverizar nossos corpos, 
Devemos retribuir a Graça da Grande 
Compaixão do Tathagata; 
Mesmo que tenhamos de esmigalhar nossos ossos, 
Devemos agradecer os Benefícios dos Mestres. "


Assim diz a letra do "Hino de Ação de Graças" que é cantado no Encerramento da Celebração do Rito de Ação de Graças. Este hino foi escrito pelo próprio Mestre Shinran e consta do final do "Hino das Três Eras" (Shōzomatsu Wasan). O Mestre Shinran ao escrever essas palavras dirigiu-se não só aos outros, mas a si próprio para não se esquecer de retribuir e agradecer sempre a Graça da Grande Compaixão do Tathagata e os benefícios dos Mestres. 

Nós, seres humanos somos aqueles que antes de tomar qualquer ação, avaliamos sempre o que é vantajoso ou prejudicial para nós mesmos, se é bom ou ruim, se é benéfico ou não, optando de acordo com nosso próprio egocentrismo. Principalmente no mundo contemporâneo onde a principal prioridade é obter lucro financeiro e até mesmo a própria vida acaba sendo medida de acordo com esse parâmetro. 

O budismo nos ensina quão doloroso é esse estilo de vida. 

Todavia, caso formos questionados se seríamos capazes de mudar esta noção egocêntrica, responderemos que isso provavelmente será muito difícil. Por exemplo, mesmo quando pensamos estar criando alguém, na verdade podemos estar desesperadamente tentando encaixar a pessoa no nosso ideal. 

O Mestre Shinran passou vinte anos da sua juventude no Monte Hiei, dedicando-se a estudos e a práticas de disciplina para purificar a sua mente. Mas, neste processo começou a enxergar o quão ela era impura. Essa consciência abriu o caminho para o encontro com o seu mestre Hōnen. Este encontro significou também encontrar o percurso histórico do budismo percorrido pelo Mestre Hōnen. 

Qualquer pessoa anseia pela vida tranquila e satisfatória, não importando em que país ou em que época esteja vivendo. E o Mestre Shinran tomou conhecimento dos precursores que também viveram em busca de paz e se espelharam nos Ensinamentos do Budismo. O caminho que encontrou era acessível para todos, independentemente das pessoas poderem ou não se dedicarem às práticas. 

Tomar ciência do passado esclarece o presente, e a reflexão da minha atitude no presente permite estabelecer as perspectivas para o meu futuro. O Mestre Shinran foi aquele que, fiel ao anseio de seus antecessores, viveu a realidade do seu tempo junto com os companheiros na construção do futuro. Ou seja, descobriu-se como um ser comum inserido no ciclo de incertezas da vida dos seres humanos e tomou parte da história do budismo. 

O rito de Ação de Graças é celebrado tendo como oportunidade o passamento do Mestre Shinran, todavia, não podemos esquecer que ele próprio viveu agradecendo os benefícios dos mestres. E ao espelharmo-nos na vida do Mestre Shinran, somos questionados quanto ao nosso próprio viver. A celebração do Rito de Ação de Graças é a oportunidade de refletirmos sobre nossa conduta diária de vida. 

A finalidade de Rito de Ação de Graças não pode ser apenas da celebração. Devemos, sim, através dela, dar o primeiro passo para a vida de retribuição e gratidão para com a Grande Compaixão do Tathagata e os benefícios recebidos dos mestres. 


Prof. Reverendo Makoto Ichiraku Docente da Universidade Ōtani

報恩講に参加するとは

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし 
師主知識の恩徳も 
骨をくだきても謝すべし


報恩講の閉会式で歌われる「恩徳讃」の歌詞にもそう書かれています。これは親鸞聖人ご自身が書かれたもので、『正像末和讃』の最後に掲載されています。この言葉を書いた親鸞聖人は、他の人だけでなく、自分自身にも、如来の大慈悲の恵みと師匠たちの恩恵に対して、常に感謝の気持ちを忘れないようにと訴えています。 

私たち人間は、何か行動を起こす前に、常に自分にとって有利か不利か、良いか悪いか、有益かそうでないかを評価し、自分の自己中心性に従って選択する者である。特に現代社会では、金銭的な利益を得ることが最優先され、人生そのものがこのパラメータで測られてしまうこともあります。 

仏教では、このような生活がいかに苦しいかを教えてくれます。 

しかし、このような自己中心的な考え方を変えることができるかと問われれば、おそらく非常に難しいと答えるでしょう。例えば、人を作っているつもりでも、実はその人を自分の理想に合わせようと必死になっていることがあります。 

親鸞聖人は、青春時代の20年間を比叡山で過ごし、勉学に励み、心を清めるための修行をしました。しかし、その過程で、いかに不純なものであるかが分かってきた。この意識が、師匠である法然との出会いにつながったのです。この出会いは、法然上人が歩んだ仏教の歴史的な道との出会いでもありました。 

国や時代を問わず、誰もが穏やかで満足のいく生活を望んでいます。そして、親鸞聖人は、同じように平和を求めて生き、仏教の教えを反映した先達の存在を知りました。彼が見つけた道は、実践できるかどうかにかかわらず、誰もがアクセスできるものでした。 

過去を意識することで現在が明確になり、現在の自分の姿勢を振り返ることで未来への展望が開ける。親鸞聖人は、先人の遺志を継いで、未来をつくる仲間とともに、その時代の現実を生きた人です。つまり、人間の人生の不確実性のサイクルに挿入された普通の存在としての自分を発見し、仏教の歴史に参加したのである。 

親鸞聖人が亡くなったことをきっかけに感謝の儀式(報恩講)が行われますが、親鸞聖人自身が師匠たちの恩恵に感謝しながら生きていたことを忘れてはいけません。そして、親鸞聖人の人生を映し出すことで、私たちは自分の人生を問われるのです。感謝の儀式(報恩講)を祝うことは、私たちの日々の生活の行いを振り返る機会となります。

感謝の儀式の目的は、お祝いだけではありません。むしろそれによって、如来の大慈悲と師匠から受けた恩恵への報恩感謝の生活への第一歩を踏み出すべきなのだと思います。


大谷大学講師  一楽 真 先生

www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。

感想

表題と恩徳讃の歌詞、「報恩講」以外は訂正していません。一楽 真先生の「真」が間違っていましたが、親鸞聖人、法然聖人も間違わず翻訳しています。画期的です!

画像認識はGoogleのアプリで行いました。DeepLのアプリの文字認識は使い物になりませんでした。Googleのアプリで読んだものを訂正して、段落分けもして、DeepLの翻訳機能を使いました。 翻訳は圧倒的素晴らしさです。

まだ続きがありますが、チャンネル登録、いいねをよろしくお願いいたします。

「ブラジル・シュウちゃんねる」

↓いいね評価、チャンネル登録よろしくお願いします↓


つづき


Google翻訳です
訂正なし。

感謝祭の儀式のお祝いに参加する

「たとえ私たちが自分の体を粉砕しなければならないとしても、
私たちは偉大なる恵みを返済しなければなりません
如来の思いやり;
骨を砕かなくてはいけないのに
マスターズベネフィットに感謝する必要があります。 「」


感謝祭の儀式の締めくくりで歌われる「感謝祭の賛美歌」の歌詞はそう言います。 この賛美歌は親鸞師自身が書いたもので、「三時代の賛美歌」(翔三松和山)の最後に登場します。 これらの言葉を書いている親鸞師は、他の人だけでなく、如来の大いなる思いやりの恵みと師匠の恩恵にいつも感謝し、往復することを忘れないように自分自身に向けました。

私たち人間とは、行動を起こす前に、自分にとって何が有益か有害か、それが良いか悪いか、有益かどうかを常に評価し、自分自身の自己中心性に従って選択する人です。 主に金銭的利益を得ることを最優先する現代の世界では、人生そのものでさえこのパラメータに従って測定されることになります。

仏教は、このライフスタイルがどれほど苦痛であるかを教えてくれます。

しかし、この自己中心的な概念を変えることができるかどうか尋ねられた場合、これはおそらく非常に難しいだろうと答えます。 たとえば、私たちが誰かを作っていると思っていても、実際にはその人を私たちの理想に合わせようと必死に努力しているかもしれません。

親鸞師は、20年間の青春時代を比叡山で過ごし、心を清めるための研究と規律ある実践に専念しました。 しかし、その過程で、彼女は自分がどれほど不純であるかを見始めました。 この気づきがあなたの主法然に会う道を開いた。 この集会はまた、法然師が続く仏教の歴史的道筋を見つけることを意味しました。

国や時間に関係なく、誰もが平和で満足のいく生活を望んでいます。 そして親鸞師は、平和を求めて生きてきた先駆者たちに気づき、仏教の教えに目を向けました。 彼が見つけた道は、人々が練習に従事することができたかどうかに関係なく、誰もがアクセスできました。

過去を意識することで現在が明確になり、現在に自分の態度を反映することで、将来の展望を立てることができます。 親鸞師は、前任者の願いを忠実に守り、仲間と一緒に未来を築き上げた時代の現実を生きた者でした。 言い換えれば、彼は人間の生活の不確実性のサイクルに挿入されている普通の人として自分自身を発見し、仏教の歴史に参加しました。

感謝祭の儀式は親鸞師の死を機に祝われますが、彼自身が親鸞の恩恵に感謝して生きていたことを忘れることはできません。 そして、親鸞師の人生に目を向けると、自分の人生について聞かれます。 感謝祭の儀式を祝うことは、私たちの日常生活を振り返る機会です。

感謝祭の儀式の目的は、お祝いのためだけではありません。 私たちはそれを通して、如来の大いなる思いやりと主人から受けた恩恵への報復と感謝の人生への第一歩を踏み出さなければなりません。

以上Googleの翻訳 (訂正一切なし)

教授 大谷大学一楽真講師  ← 名前が一発であっている! ここはGoogleが優れている。

一楽 真先生 (大谷大学元教授


[略歴]1957年 石川県小松市に生れる。
          
    1980年 大谷大学文学部真宗学科卒業
          
    1985年 大谷大学院博士後期課程満期退学(真宗学専攻)
 
    現在 大谷大学教授、真宗大谷派宗円寺住職。
 
[主要著書]『大無量寿経講義ー尊者阿難、座より起ちー』、『四十八願概説』(文栄堂)、
        
『親鸞聖人に学ぶー真宗入門ー』、 『この世を生きる念仏の教え』(東本願寺)、

『愚禿の名のり』(名古屋別院)、他多数


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